曇天はにわかに雨へと変わり、街を冷たい灰色に覆う。
「あーもーっ、たく……!」
 空の気まぐれに悪態をついて、樹里は寮へ向けて走った。体力には自信がある。道行く人が思わず振り返るほどしなやかに地を蹴り、寮へ向かう路地へと回り込んだ彼女は、しかしそこで急に足を止めた。
「凛世か?」
 見慣れた後ろ姿へその名を呼ぶと、少女は静かに振り返った。
 彼女の着衣はすでにぐっしょりと濡れていて、したたり落ちる雨がその髪を撫でつけていた。急いではいるのだろう。けれどきちんと着付けられた和装に、平素であればからころと子気味良い音を立てるその下駄では、早く走れようはずもない。
 樹里が咄嗟に駆け寄って、大丈夫かと顔を寄せ、凛世が何か答えるよりも早く自分のジャケットを脱いで頭へとかぶせた。
「傘持ってない時に限ってこれだもんなー」
「樹里さん……?」
「少しはマシだろ」
 そしてそのまま、さも当然のように走ることをやめた。
 小走りの凛世に合わせて、大股にずかずかと歩く。
「それでは……樹里さんが……お風邪を、召されます……」
「大丈夫だよ。アタシは部活帰りとかで、こういうことしょっちゅうだったんだから」
 そのまま、海沿いの天気は変わりやすいとかそういう話をしながら、降りしきる雨をいっぱいに浴びながら笑った。凛世は伏目がちに小さく笑うと、ジャケットの裾を掴む手のひらに、小さく力を込めた。
 垣根やアスファルトを打つ雨音に、湿った下駄の音が小さく交わる。寮へはそれから十分ほどで着いたが、そのころにはもう、かぶせたジャケットも意味をなさないほどに濡れていた。自然、風呂に入ろうという話になって、樹里は濡れた上着で体を拭いながら風呂場へと駆けていった。
 風呂へ湯が流れ込む音がする。
 凛世は玄関のへりに腰かけてしばし雨音へと耳を澄ませていたが、樹里が戻ってきた足音に振り向いた。樹里は、下着だけになってタオルで頭を拭き、持ってきたもう一枚のタオルを凛世へと放る。
「風呂、先に入ってくれよ。お湯はまだ張ってないけど、シャワー浴びながら待てばいいし。でないと、それこそ風邪ひくしさ」
「いえ、しかし……」
「だから気にするなって、アタシは二番風呂でいいよ」
「……」
 先ほど樹里が自分にかけてくれたジャケットを見つめながら、凛世は少し考えて、それからふいに顔を上げた。
「では、一緒に入りましょう」
 にこりと笑う。
「……え?」
 樹里はきょとんとして顎を引いた。
「そのくらいの広さは、ありますゆえ……それとも、お嫌であれば……樹里さんがお先に、いただいてください……凛世は決して、先には……」
 微笑みながらも小さく首を振る凛世。その凛世を、樹里は知っている。凛世は時に頑固で、こうして微笑む時は簡単に自分を翻さない。樹里は諦めた。諦め、解ったから早く入ろうと凛世の手を取るしかなかった。
 溜まりかけの湯船に腰を下ろして、樹里は大きくため息をついた。
 お湯はまだ数センチで、腰までもまだ浸からない。冷え切った身体には少し熱く感じる湯を手で揺らしながら、ドアに映る人影に意識を向けた。曇りガラスの向こうで、凛世が帯を解いている。雨に濡れて重くなった帯は解かれるやずるりと垂れ下がり、肩から降ろした打掛けをハンガーに掛ける様子も、どこか重たげに見えた。
「お待たせを、いたしました……」
 静かに開かれるドア。
 凛世の裸体に、時が静まった。
 か細く華奢な四肢。白い肌は冷えてますます色を失い、濡れた髪はまとめられるでもなく下ろされている。雫をたたえた黒髪の間から覗く紅色の瞳は、ただぼうっと樹里を見つめていた。
 樹里は一瞬言葉を失って、けれど思い出したように視線をそらした。
「シャワー、使えるから」
「……はい……」
 けれどそう答えた凛世は、相変わらず湯の足りないままの湯船へとその足を差し入れた。ぱしゃりと湯が跳ねる。樹里は顔を上げた。
「あ、こっちはまだ溜まってないって――」
「いいのです……これで……」
 樹里の眼前。構わず、凛世はその身体をゆっくりと折りたたんでいく。ふくらはぎからもも、腰が降ろされ、膝を抱えるようにして座り、その胸元は膝に覆い隠された。僅かばかりの暖かな湯に臀部を浸けて、樹里がそうであったように凛世もまた大きく息を吐き、そうしてようやく全身の力が抜けていった。
「ふたりで、いたほうが……湯のかさが、増します……」
「あ、あぁ、そうか。そうだな……」
「はい……」
 凛世も樹里も膝を抱え、お互いに相手が抱えた膝頭を見つめるようにして黙っていた。まだ薄暗い曇り空の下、雨が窓を叩く。湯船に注がれる湯の音と共に、白い湯気がじんわりと浴室を包んでいく。
 それでもようやく臀部が沈もうかというほどで、湯船はまだいっぱいになる様子は無かった。
「なぁ」
 少し上ずった声が、樹里の口から洩れた。
「足、伸ばさねーか」
「足を……」
 凛世の言葉が途切れる。ふたり同時に入れても、足を延ばせば相手に当たる。それがこの湯船の大きさだ。けれど樹里は、「だから……」と膝を抱えていた腕を解き、凛世の膝を指し示す。
「お互いの足、交互にすれば幾らか伸ばせるよな、って……」
 消え入りそうな声。彼女は、その顔を見ることができなかった。
 けれど凛世は、そんな樹里の提案にはいとだけ小さく答えて、するすると足を延ばした。膝や足に隠れていた身体が露になり、微かに赤みのさした胸元がのぞく。伸ばした足は、それでもめいっぱい伸ばせる訳はなく、お互いの肌に触れあった。波打つ湯船の中、四本の足が交互に並んでお互いの足にもたれあう。
 凛世の肌は冷たかった。先ほどの雨雫そのものと見間違うほどに。
「寒くないか」
「……いえ……凛世は、十分に……暖かく……」
 樹里の太ももに、凛世のふくらはぎがぴたりと付く。樹里は瞬間足を緊張させたが、お互いの肌が触れ合ううち、その感覚は少しずつ馴染み、心地よさに変っていく。静かに、言葉はない。ただじんわりと、ただ脚だけを重ね合わせ、わずかな動きにもお互いを感じようとした。
 心臓が鼓動を刻む。触れ合った肌に、お互いの僅かな調べを感じたのは気のせいだったろうか。
 湯はかさをましていく。
 暖かな湯に包まれて、身体は少しずつ揺らぎ始める。
 湯船は胸先まで満たされ、お互いの体温は湯の中に溶けあって、その肌が重なる感覚もまたどこか遠のいでいく。先ほどまでよりずっと暖かくなった、ともすれば熱いほどの湯船の中、けれど樹里は、遠のぎ薄らいでいく感覚に、こらえようのない寒さを感じてしまった。
 すべては、湯に溶けてしまったのだろうか。自分ひとりだけを残して?
 凛世は、雨雫だったのではないか――心の奥底へ、急に悲しみが押し寄せた。
「凛世……?」
 たまらなくなって彼女は顔を上げた。
 凛世は、いた。
「はい……」
 湯に頬を紅潮させ、確かな輪郭を持った人間として。
 その時の自分はどんな顔をしていたのだろう。樹里には解らなかった。だが凛世は樹里の声に、確かに応えて、にこりと微笑んだのだ。それだけでよかった。
「どう……なさいましたか……?」
「……なんでもねーよ……」
 ようやく笑えた。
 はい――笑ってくださいました。
 お互いに、言葉は無かった。樹里がそうであったように、凛世もまた、樹里の笑顔を前に心の中に呟いたまでだった。きっとそれで、通じ合えていた。しかしあるいは。けれど――凛世は微笑みの奥、心の底へ続く言葉もまたすべてをしまい込んで、樹里の横顔を見つめる。
 今しがたのあなたは、どこへ消え去ろうとしていたのですか――
 つま先を、そっとふとももになぞらせた。