見慣れたドアの前に立って、チャイムを鳴らす……その前に、もう一度スマホを開きました。朝起きてすぐに「今から行くからね?」と伝えた連絡には、やっぱり既読すらついていなくて、やっぱりなぁ……と思いながら、私は目の前のチャイムを鳴らしました。
ぴんぽーん、ぴんぽーんと、鳴らすのは二回。
運が良ければ、これで起きてくれるのだけど……うんともすんとも言わない様子を見れば、やっぱり、今日はダメな日だったみたい。仕方がないなぁと苦笑を一つこぼして、私は、キーケースに付けている少し小ぶりの鍵──自分の家や実家の鍵ではないソレを迷わず選んで鍵穴に差し込んで。ガチャリと回して、「お邪魔します」と挨拶を添えて遠慮なく中に入り込むのでした。
誕生日や、何かの賞を取った記念だとか、そのたびに私が選び贈ったインテリアの並ぶ玄関を抜けて、勝手知ったると言わんばかりに手と足は流れるようにリビングの方へ。多分ここには居ないだろうけど、ひとまず、今回はどんな惨状になってるのか確認だけでも……と、そのドアを開ければ──
「ほわ?」
思いの外……というよりも、以前この部屋を後にしたときと同じように綺麗に整ったリビングに、思わず拍子抜けしてしまった、私。リビングも、その向こうに見えるキッチンも、多少物が増えてはいたとはいえ、丁寧な暮らしを感じさせるくらいには整っていて、日にちを間違っちゃったかな……とスマホの日時表示を確認してみても、今日は教えられた日に間違いはないのです。
締め切り明けのめぐるちゃんの部屋がこんなに綺麗だなんて──学生の頃から考えても初めての事態に、私は思わず、持っていた荷物(めぐるちゃんに食べさせるための食糧がずっしり詰まった、鳩さん柄のサブバックです)を床に取り落としたのでした。
デザインの専門学校に通っていた時に出会った、八宮めぐるちゃん。
私はインテリア科、めぐるちゃんはグラフィック科と専攻は違ったけれどなんの拍子だったか知り合って。ちょっと引っ込み思案な私と明るく快活なめぐるちゃんと、お互い全然性格もペースも違ったのに、それでも何か、ぴたりと歯車がかみ合うように気が合って仲良くなって……こうして、卒業してそれぞれの進路に進み、私はインテリアデザイナー、めぐるちゃんはグラフィックデザイナーと、各々自分の分野にしっかりとその根を下ろしてなお、お互いの家の合鍵を持つくらいに『親友』と呼べる間柄になれた唯一の、とっても大切なお友達。
新進気鋭のグラフィックデザイナーとして在学中から様々な賞を取り、才能に溢れた若きクリエイターとして評価を着々と伸ばしながら、国内のみならず国外からも注目されつつあるそんなめぐるちゃんだけれど……たまにキズ、と、言いますか……お仕事に熱中するあまり、自分のことが疎かになってしまうのは学生時代から変わらない悪癖、なのでした。
特に、大きなお仕事開けなんて、しっちゃかめっちゃかになったお部屋の中で空腹や睡魔に襲われて行き倒れているのが毎度のこと。なので、そんな大きな締切明けには、いつも私(めぐるちゃんの締め切り情報は、めぐるちゃんの上司の有栖川さんからそっと連絡を受けてるので……それに合わせて自分の仕事の調整をしているのです)が部屋を訪ねて、行き倒れてるめぐるちゃんを起こして、ご飯を作って食べさせて、一緒にお掃除をして、きちんとした日常生活に戻れるお手伝いをするのが定例……だったのです、けれども。
お仕事が大好きで夢中になっちゃうめぐるちゃん。いつも、空色の瞳をキラキラとさせながらお仕事に向かう姿は、出会った頃からずっと変わらなくて、その情熱が愛おしいとは思うのですが……それでも、熱量の強すぎるその情熱にいつか体が追い付かなくなる日がくるんじゃないかって、身体を壊して大好きなデザインが出来なくなっちゃう日が来るんじゃないかって。私には私の仕事があり生活があるから、いつもいつでも見てあげられるわけじゃないから……そうやって、ひやひやと見守っている身としては、もう少し自分のことも大切にして欲しいって幾度となく話して叱って訴えてはきたけれど……もはや諦め半分で送っていたこのルーティンが、突然崩れるなんて、一体どういったことでしょう?
日常生活を送るのに支障がない程度に整ったリビングを出て、まずはめぐるちゃんのお仕事部屋へ……時々、締め切りぎりぎりまで格闘していたらしいめぐるちゃんが自分のデスクで寝落ちていることはあるけれど、今回はそうじゃなかったみたい。
しかし、そっと開けたお仕事部屋は、きっと部外秘なんだろうなって仕様書やら手書きのラフやレイアウトやら、資料だのなんだのとそれはそれは大量の紙類が散乱していて、ここだけいつものめぐるちゃん家な感じで……見慣れた様子に、ちょっとだけほっとしてしまいます。
そうして、大本命の寝室へ。
「めぐるちゃん?」と呼びながらドアを開ければ……いました。遮光カーテンを閉め切りの寝室は朝日もシャットアウトして真っ暗だけど、そんな暗闇の中でも、お日様色の輝きがもぞりと動くのが見えます。と、言いますか……寝室にはこれたけど、そこで力尽きたらしいめぐるちゃん。寝間着に着替える力もなかったのか、キャミソールにショートパンツだけの大変に心許無い恰好をしためぐるちゃんは、ベッドにもたれ掛かるようにしてすよすよと、夢の中を漂っているのでした。
「めぐるちゃんっ‼ ほら起きて、ちゃんとお洋服着て、こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうよ」
「ん……まの……? まの~~~‼」
「ほわっ⁉」
エアコンがしっかりと効いてるとはいえ、このままじゃ風邪をひきそうなくらいに薄着のめぐるちゃん。その、煌めく金髪のかかった肩をゆさゆさと揺らし……てるうちに、目を覚ましてくれたのはいいんですけれど。まだだいぶ、夢の中を漂ってます~と言わんばかりにとろとろに水面を揺らす瞳をうっすらと開けためぐるちゃんは、その水面に私を映した……と思った瞬間、がばりと抱き着いてきたものだから、ふたりで縺れるように床を転がってしまったのです。
驚いて打ってしまった腰がちょっとだけ痛かったので、窘めようとはしましたが……私にぎゅーっと抱き着くめぐるちゃんが、まるで母猫に甘える子猫のように、あまりにも嬉しそうに擦り寄ってくるものだから。最初からあまりなかった怒る気も完全にどこかに居なくなってしまって、私もめぐるちゃんを、ぎゅーって抱きしめ返したのでした。
「もう……八宮先生、今回のお仕事の出来はいかがですか?」
「ふふん、さいっっっっこうですっ」
ほめてほめてと言わんばかりに擦り寄り甘えてくるめぐるちゃんの頭をよしよしと撫でて、【最高】な出来のお仕事は後で見せてもらおう(何を隠そう、グラフィックデザイナー八宮めぐるのファン第一号は私なのですから)と考えながら、そういえば、と……
「めぐるちゃん、今回はお部屋ちゃんと片付いてるし、それなりに顔色も良い……って事は、ちゃんと食べてたの?」
よくよく見て見れば、寝食も忘れて仕事にのめりこみがちだから締め切り明けは青白いお顔をしてることが多いめぐるちゃんにしてみれば珍しく、明るく血色のいい健康的な肌色をしてるような気もしますし。えらいえらいと頭を撫でてたら、なんだかちょっと自慢気になっためぐるちゃんなのですけれど。
「んふ~ひおりがね、毎日おいしいご飯食べさせてくれたから~!」
「ひおり、ちゃん?」
にこにこごろごろふわふわと、未だ夢うつつのめぐるちゃんから出てきた、聞きなれない名前。
明るく快活で、人付き合いの上手いめぐるちゃんは知り合いやお友達も沢山いるけれど……その実意外と、慎重で臆病なところがあるみたいで、めぐるちゃんの一番内側のプライベートであるこの家に招いたりあげたりするのは、その中でも本当に数えるくらい。そんな『この家』で、誰かにご飯を作ってもらってる……? それって……
胸の中で再び微睡みに入りかけているめぐるちゃんを撫でながら、そんな風に思考を飛ばしていた私は……玄関の方の物音に全く気が付かなかったみたいでした。
はっと気が付いた時には、ぱたぱたという軽くて控えめな足音がすくそばまできていて──
「おはようございます、めぐるさん。今日の朝ご飯、は……」
がちゃりと、ノックもなく寝室のドアを開け放ったどうやら年下の女の子と、ぱちりと視線が合い、お互い突然のことにきょとんとしてしまいます。
よく手入れのされた長い黒髪に透けるような白い肌、少し切れ長の菫色の瞳は凛と輝いていて、口元のホクロがワンポイント。背筋を伸ばしてぴんとたった姿は、まるでめぐるちゃんの作ったデザイン画のワンカットのようで……わぁ綺麗な子だなぁなんて、間の抜けたことしか考えられませんでした。そんな綺麗な子がめぐるちゃんの担当さんかアシスタントさんなのかぁとも考えたのですが……よくよく見れば、女の子の着ているのは、この近くの進学校で有名な高校の制服であるブレザー姿。大人っぽく見えただけで高校生なのかな、とあらためて見ると、確かに、凛々しく見えた顔つきもよくよくみればまだまだ子供らしいあどけなさを感じて、手や脚だってまだまだ成長途中の華奢なシルエット。なるほど……に、はて、なんでそんな高校生の女の子がここに? まで疑問が行き着いたところで──
「あっ、ごっ、ごめんなさいっ失礼しました……っ‼」
「あ……」
声を掛けようとしたその一瞬前に、何か焦ったようなその子はくるっと踵を返して走り去ってしまったのでした。
うーん……
「めぐるちゃんめぐるちゃん」
多分あの子がひおりちゃん、なのかな?
その彼女の悲鳴のような声が響いてなお、うつらうつらと舟を漕いでいるめぐるちゃん。いいのかなぁ?
「今、そのひおりちゃん? が逃げて行ったみたいだけど、いいの?」
「ひおりが……? なんで逃げるのぉ……?」
「うーん、私とめぐるちゃんが、いちゃいちゃしてるように見えたんじゃないかなぁ?」
「わたしと、真乃が……?」
寝ぼけまなこをようやく開けて、きょとん、と私と見つめあう、めぐるちゃん。
カーテンを閉め切って暗い寝室。キャミソールにショートパンツって際どいくらいに薄着のめぐるちゃん……に、押し倒されるように床に座り込む私。眠気でとろとろの瞳でぎゅーと抱きつき甘えてくるめぐるちゃん。そんなめぐるちゃんを抱きしめ支えている私。……うん、高校生の女の子には、ちょっと刺激の強そうな光景、かな?
ん? ん? と何か考えながら、ぱちりぱちりと瞬きをして……その度に、夢の世界から現実に意識を切り替えるように……微睡んだ水面の色を澄み切った空の色に変えていくめぐるちゃん。
そして──
「……っ⁉ 灯織っ! 待って‼!」
ぱちっと、完全に切り替わった次の瞬間。
眠気に赤らめていた頬を若干青ざめさせて、がばりと立ち上がって転びかけながら、慌てて寝室を出て行ったのでした。
「ふふっ」
あれ、何か忘れてるような……
「……っ! め、めぐるちゃんダメ‼ お洋服着ないで外出たらダメだよ⁉」
私の叫ぶような忠告と、ドアが開く音は、残念ながらほぼほぼ同時。
その後に続いた悲鳴が一体誰のものだったかは、ご想像にお任せすることにします。