智代子は、樹里に避けられていることに気がついていた。
 この前まではいつも一緒だったのに。もしかして嫌われたんじゃ。そんな考えが頭に居座って、一向に離れなかった。
「それで……凛世に、相談ということでしょうか」
 寮にある凛世の部屋で二人は向かい合っていた。智代子は美しい居住まいの凛世に倣い、珍しく正座をしていた。
「うん。凛世ちゃんなら寮でも一緒だし、なにか知ってるんじゃないかって思って」
「特段、変わった様子というものは……」
 そう言って首を振る凛世に、智代子はがっくりと肩を落とす。普段とは違う雰囲気を纏っている智代子に、凛世は事態の深刻さを感じ取らざるを得なかった。
「ですが、嫌われていると考えるのは……些か、早計かと」
「そうかなぁ」
「はい。間違いありません」
 不安気な様子の智代子に、凛世はそう断言してみせた。
「こういったことは……当人同士で話し合われるのが、一番でございましょう。凛世には、樹里さんの気持ちを……代弁、できません故……」
 当事者同士で話し合うのが一番。そのことは智代子も、痛いほどわかっていた。だけど、それが難しい。智代子と樹里は、普通の友人関係ではない。もし嫌われていたとしても、同じユニットで活動する以上縁は切れない。
 そのことを改めて思い知らされる状況に、智代子は心底嫌になった。
「アイドルって大変だよ」
「……例え、当たって砕けたとしても……放課後クライマックスガールズの絆は、揺るぎません」
 あくまで優しい表情で、凛世はまっすぐに智代子を見据える。
「その事を……ゆめゆめ、お忘れなきよう」
 樹里が智代子から距離を置いて、二週間程したある日のこと。
 あれから樹里の心は錨みたいに重くなっていて、海底に突き刺さったまま一向に抜ける気配を見せなかった。
 樹里は、このままの状態が一生続くようにすら思えていた。
「……うん。樹里ちゃん、ちょっと休もうか」
 雑誌の撮影中、カメラマンが唐突に中断を促す。
「え? いや、アタシまだ全然疲れてなんか……」
「いいから。ちょっと休んでおいで。それでも厳しいようなら、また後日でも大丈夫だから」
 そう言って、カメラマンはスタジオの外へと去ろうとする。
「ちょっと! 待ってください!」
 樹里はカメラさんの背中を必死に引き止める。ここで、意味の分からないまま休憩へと向かう訳にはいかなかった。
「その、なにか悪かったなら理由だけでも教えてくれませんか」
「理由か……うーん」
 カメラマンは顎に手を当て、少し逡巡して答えを出した。
「別に、なにか特別悪いところがあるわけじゃないんだ。ただ、ちょっと抽象的な表現になるんだけど……表情に光が足りないかな」
 その答えを聞いた樹里は、錨がズシリと、より一層重くなったように感じた。
「……光、ですか」
「うん。太陽がなくなった空みたいな……前みたいな輝きが消えちゃってるように思うんだ。撮影日を改めることはできないわけじゃない。樹里ちゃんの予定さえ許せば、後日でも本当に構わないから……ゆっくり考えて」
 そう言ってカメラマンは再び歩き出し、スタジオの外へと出ていった。スタジオにはプロデューサーの声が微かに響いていたが、樹里の耳に届いてはいなかった。
——そういうことかよ
 それから数時間程経って、太陽もすっかり身を隠した頃。暗い事務所の廊下、部屋へと続く扉の前に智代子は立っていた。
 冷たい空気を大きく吸い込んで、智代子は心を冷却させる。
 この先の部屋には、樹里が一人でいる。プロデューサーから、今日の撮影であったことは聞いていた。
 部屋に入って、いつもみたいに明るく話しかける。智代子の中では、イメージトレーニングまで万全だった。
 決意を固めて、智代子がドアノブに手をかけようとした、その瞬間。扉は無情にも、内側から開かれた。
「えっ……!」
 まさかの不意打ち。この時点で、智代子の予定は完全に崩壊していた。
「あー……チョコ、お疲れ。アタシは帰るから、戸締まりよろしくな。それじゃあ」
 それだけ言って、樹里は智代子の脇をすり抜けようとする。だけど。
「……なんだよ」
 その腕を、智代子が掴んで引き止めた。
 明らかに不機嫌な樹里の眼光が智代子を襲う。だけど、恐くなどなかった。樹里が臆病で優しいことを、智代子は知っているから。
「逃げないでよ」
 いつもとは打って変わって、冷たく言い放たれた言葉に怯んだのは樹里の方だった。
「……は? なんのことだよ」
 悟られまいと、樹里は必死に虚勢を張る。しかし樹里には、まさか好意がバレたのではないかという焦りがあった。
「樹里ちゃん、私のこと避けてるでしょ?」
「そんなの、たまたまだろ」
 樹里が視線を逸らす。
「嘘。そのくらいわかるよ……ずっと、一緒だったんだから」
 智代子がそう言い切ると、樹里はなにも言い返せなかった。
「……私、なにかしたかな」
 乾いた声で、智代子が問う。悲しげに微笑む智代子に、樹里の胸はズキリ、ズキリとひどく痛んだ。
「んなわけ、ねーよ」
「ならなんで……!」
 智代子がそう噛み付いた時だった。樹里は智代子の顔を引き寄せると、その唇に自分のものを重ねてみせた。
 柔らかい感触が二人の脳を支配する。同時に樹里の胸には、悲しみの波が打ち寄せてきた。
 夢にまで見たキスは堪能する間もなく終わり、樹里は悲しげに目を伏せた。
「……軽蔑しただろ」
 智代子がなにも返せないでいる間に、樹里はどんどん離れていく。
「じゃあな、チョコ」
「あっ……」
 伸ばされた手も虚しく、闇を纏った扉は重く閉じられた。
 ポツリ、と樹里の鼻先に雫が落ちる。
 そういえば今日、雨が降るとか言ってたっけ。
 思い出して、ぼんやりと空を見上げている内に雨はみるみるその強さを増していった。
「あーあ。傘持ってねーってのに」
 なんてボヤいてはみたものの、ちょうどいいのかもしれない。この雨の中ならきっと、涙にも気づかれないから。
——アイドルは、やめよう
 ユニットのメンバーやプロデューサー達に迷惑をかけるのはわかっていた。だけど、これ以上智代子の隣にいていいわけがないから。樹里が出した結論は、引退だった。
 きっと、これで良かったんだ。これで、アタシを嫌ってくれる。
 そう考えて樹里は自分を肯定してみるものの、頬を伝いだした温い雫は止まらない。
 帰ったら荷物をまとめる。プロデューサーに連絡して謝る。これからやることを整理しつつ、樹里は足早に傘の群れを縫う。
 その中で、ふと、このまま寮に戻ったら心配されるのではないか。そんな考えが過ぎり、樹里は予定外の道へと足を踏み入れた。
 智代子は、事務所の廊下で呆然と座り込んでいた。
——樹里ちゃん、あんな悲しそうな顔
 キスも、樹里の表情も、状況のすべてが衝撃的すぎて。ひとつずつ処理しようとしても、目から零れるノイズが思考の邪魔をする。
「うー……う〜っ!」
 とにかく、追いかけなきゃ。そう思っても、足に上手く力が入らない。
「なんでっ……! 行かなきゃ……追いかけなきゃいけないのに!」
 その時、ポケットの携帯が着信を告げる。取り出すと、暗い部屋にチカチカと輝くその端末は、凛世の名前を映し出していた。
 泣いている声を聞かれるのは恥ずかしいが、切るのも申し訳なくて。智代子は緑の応答ボタンを押した。
「もしもし。凛世ちゃん?」
『もしもし……智代子さん? その……大丈夫ですか?』
 大丈夫という言葉は、泣いてることに対してだろう。そう解釈した智代子は、凛世の優しさをありがたく思った。
「えへへ……ちょっと、色々ありまして。そのうち話すから今は気にしないで」
『……そうですか。智代子さんがそう言うのならば……詮索は、いたしません』
「ありがとう……それで、なんの用かな?」
 詮索はしない。そう言ってくれたのは嬉しかったけれど、智代子が話題を変えても凛世の心配そうな声色は変わらなかった。
『それが……樹里さんが、未だに帰ってきておりませんので……もしかしたら、智代子さんと一緒なのではと……』
「あー、それなら大丈夫。多分もうすぐ……」
——帰るかな?
 ふと生まれた小さな疑問は、ぶくぶくと智代子の中で膨らんでいく。智代子にこれを看過することは、もうできなかった。
「ごめん。凛世ちゃん。もし樹里ちゃんが帰ってきたら、また電話して」
『え? 智代子さん……』
「それじゃあよろしく!」
 凛世の言葉を遮り、早急に電話を切る。智代子は明日、凛世にお菓子を買っていくことに決めた。
 そのまま立ち上がろうとして、そういえば腰が抜けていたことに気がついた。
「あーもう……! 立ってよ! こんなところでへたりこんでる場合じゃないだろ、園田智代子!」
 這いずって、壁を支えに無理やり体を起こす。今すぐ追いかけなくては。その一心で必死に身体を動かす。それはもう、執念とすら呼べるものであった。
——絶対に逃がしてあげないんだから!
「あーあ。結構濡れちまったな」
 独り呟いて、樹里は公園のベンチに座りこんだ。ここなら屋根もあるから大丈夫だろう。
「雨……いつ止むんだ?」
 携帯の電源は切っているから、予報を確認できない。そもそも、携帯で予報を見る方法も樹里にはよくわかっていないのだが。
 大きくため息をついて、お世辞にも綺麗とは言えないテーブルに樹里はもたれかかる。顔の角度からして、暗黒を湛えた空がよく見えた。
——太陽がなくなった空、か
「こんな顔してたのか。アタシ」
 それから樹里は、ぼんやりとこれからのことを考えていた。家族への説明や、大学受験は今からでも間に合うのかについて。進学するなら、できるだけ遠くがよかった。
 それと、放課後クライマックスガールズのこと。樹里がいなくなることで、ユニットのイメージダウンは避けられないだろう。メンバーが脱退したユニットにあらぬ噂がたつのはお決まりだ。
 みんなにはどうかアタシのことを恨んでほしいと、樹里は思った。
 暫くそうしていたけれど、雨は一向に止みそうもない。涙は止まっていたので、樹里はこのまま濡れて帰ることに決めて立ち上がった。
 その時。
「見〜つ〜け〜たっ!」
「うおわっ!」
 バシャバシャと音をたてて現れた智代子が、樹里に突撃を敢行する。突然のことに、樹里は為す術なく水溜まりの中へ押し倒された。
「なにすんだよチョコ! まだなんか……」
 樹里が文句を言おうとしたけれど、智代子はそれに構うことなく胸ぐらを掴まれて、引き寄せられる。
「ちょっ——!」
 そしてその口は、さっき樹里がしてみせたよりもずっと乱暴に塞がれた。
 歯は当たって痛いし、なんならほとんど頭突き。ロケーションも泥濘の中——どう考えても最悪のキスだった。
 息苦しくなるほどに長いキスが終わると、雨とは違う雫が樹里の頬にこぼれ落ちてきた。
「これが、私の答えだから……! 逃げないでよ、樹里ちゃん」
 その言葉に、樹里はなんて応えればいいのかわからなくて。ただ、悲しいような、嬉しいような、どうしようもない気持ちが溢れ出して、泣いた。
 心の錨はたしかに、抜けていた。
 それから二人は、放クラの皆やプロデューサーに話した上で付き合うことになった。
 夏葉や果穂は驚いてたけど、凛世はむしろ安心したみたいで。逆に樹里が少し驚いた。そんなにわかりやすいつもりはなかったから。
 そして、交際する上で二人はある契約を結んだ。基本的には芸能活動を優先する。隠し事はしない。今はとりあえず、その二つだ。これは、智代子からの提案だった。
「それじゃあ、今日は送っていかなくて大丈夫なんだな?」
「ああ。この後チョコと予定があるからな……あ」
 スタジオの出口。プロデューサーと話している途中で、樹里は雑踏の向こうに大好きな恋人を見つけた。
「おーい! チョコー!」
 大きな声で呼ぶと、人の川の向こうで幸せそうな笑顔が花開く。
「それじゃあプロデューサー、お疲れ様!」
「ああ、お疲れ。いってらっしゃい、だな」
「ああ! いってくる!」
 樹里はまるで待ちきれない子供みたいに駆け出して、人の群れの真ん中で智代子と合流した。
「お疲れ様。撮影どうだった?」
「上手くいったよ。カメラさん、今日は褒めてくれてさ! 太陽が輝きを増して戻ってきた、なんて言ってたよ」
「ふふっ。あの時の樹里ちゃん、ほんとに暗かったもんねー」
「なっ……! だからそれはその……悪かったって……」
「気にしてないよ! それじゃあ行こっか」
 そんな他愛もない話をしながら、晴天の空の下を二人は歩きはじめる。
 固く、手を繋いで。