学校が終わると、そのまま智代子の家に向かうのが最近の果穂の日常だった。智代子の家で宿題を片付けて、智代子が作った夕飯を食べ、そのまま泊まるかは翌日が休みかどうかによる。
 しかしこの数日は智代子がロケのために不在だった。さすがに家主のいない家に上がる理由もなく、ここしばらくはまっすぐ帰宅していた。まぁ、あまりにも智代子の家に入り浸りすぎた結果、家に帰ったら「帰ってくるなら連絡してくれないと、ご飯作ってないわよ」なんて、珍しい叱られ方をしてしまったのだけれど。
 智代子がいないのは今日までだ。明日になったらまた家に行けば良い。いつもみたいにのほほんとした笑顔で迎えてくれて、「そんなに毎日来るくらいご飯おいしいかなぁ?」などと照れながら夕飯を作ってくれることだろう。いや、そこは改めて欲しいんだけど。ご飯を食べに行っているわけではないって、いつ気がついてくれるかな。
 考えながら玄関前に着いたところで、果穂は己の過ちに気づいた。
 ここ、ちょこ先輩の家だ。
 考え事をしながら歩いていたら、足が自然と向かってしまっていたらしい。習慣とはかくも恐ろしいものか。
 果穂は逡巡して、鞄の奥から鍵を取り出した。チョコレートのキーホルダーを取りつけた小さな鍵は、智代子の家の合鍵だった。仕事で遅くなる日もあるからあったほうが便利だよねなどと言って、あっさりもらってしまった合鍵。なんだかずるのような気がして、まだ一度も使ったことはなかった。
 鍵穴に差し込んで、回す。
 カチャリ。
 緊張とは裏腹に手応えは軽く、果穂は唾を飲んで息を整えてからノブを捻った。
 いつもは電気がついていて、何かしらのテレビ番組が垂れ流されている室内。智代子がソファに寝そべっていたり、台所で夕飯の準備をしていたりする空間。暖かくて、いるだけで安心する場所。
 誰もいないと、こんなに冷たいんだ。
 果穂は居間に向かい、ソファに腰掛けた。部屋の中は静かで、先ほど電気をつけたにも関わらずなんだか薄暗いような気がした。
 宿題を広げてみたがはかどらず、勝手に上がり込んでいる罪悪感もあって居心地が悪い。特に何をしているわけでもないのに、いけないことをしているという感覚だけが胸の奥に積もっていた。もぞもぞソファに寝そべって、二度三度寝返りを打ち、そして果穂は決意した。
 うん、帰ろう。
 夕飯時が迫っていた。そろそろ帰らなければ、また晩ご飯がなくなってしまうかもしれない。上半身を起こしたところで、玄関ドアから物音がした。
 カチャリと、鍵が閉まる音。何度かドアを開けようとして、鍵につっかえる音。
 どうやら鍵を閉め忘れていたらしい。人の家でひどい失態だ。だがそもそも、智代子不在の家の鍵を開けようとする人間とは?
 一、空き巣。この場合、自分の身が危ない。しかし、空き巣がいきなり鍵を開けられるとは思えない。少なくとも、本当に家主が不在かどうか確認するのではないだろうか?
 二、智代子の恋人。考えたくない。
 三、鍵を持っていて、確実に家主が不在と知っている人物と言ったら当然、
「あれ? 鍵開いてる……えぇっ、開けっぱなしで出てた⁉」
「ちょっ……ちょこ先輩⁉」
「へっ、果穂⁉」
 居間にバタバタと走り込んできたのは智代子だった。
「来てると思わなくてびっくりしちゃった。鍵はかけなきゃダメだよ、もう」
「ご、ごめんなさい……。あの、帰ってくるの、明日のはずじゃ?」
「あぁ、うん。そのはずだったんだけど予定より早く終わって、今日帰ってこれることに……と、あ」
 話している途中で思い出したように智代子は言葉を止めて、ふふっと笑った。
「ただいま、果穂」
「あ……」
 智代子の家でこれを言うのは初めてだった。
「おかえりなさい、ちょこ先輩」
「うーん、良いねぇ! 帰ってきて果穂がいて、『おかえりなさい』って言ってくれる……なんだか暖かい感じがするよね。一緒に住んでたらこんな感じなのかな?」
「いっ……い、一緒に⁉」
 思わず声が裏返る。そんな果穂の様子に、智代子は不思議そうに首をかしげた。
「あ、あの、あたし、あたしは……」
 今なら言えるかもしれない。ちょこ先輩が帰ってきて、暖かい感じがして、一緒に住むなんて話が出て、今なら、きっと。果穂は拳を握りしめ、決意を込めて智代子を見つめた。
「大丈夫、わかってるよ」
 智代子は優しく微笑んだ。
「ちょこ先輩……!」
「夕飯、食べていくんだよね」
「は?」
「果穂は私のご飯が、大好きだもんね?」
 照れくさそうに笑う智代子を見て、果穂は膝から力が抜けるのを感じた。
「ちょこ先輩……」
 ぜんっぜん、何も、わかってない‼