ダンスレッスンの後、帰り道の途中での突然の豪雨。寮に雨宿りさせてもらったのはいいものの、今日は少しでも弱まればすぐ帰るはずだった。久々に羽那ちゃんとゆっくり話せる機会だと思って、羽那ちゃんのお部屋でカーテンを閉じたまま話が弾みに弾んじゃって。少しだけ視線を上に向けて真っ白な時計を見ると、この部屋で唯一の黒といってもいいくらいの時計の短針は6を指したまま長針がご丁寧におじぎをしていた。
この状況をどう切り抜けようか、いっそ寮に泊めてもらった方が…と話す内容を考えるより先に、背後からカーテンが思いきり開けられた音がした。
「もうこんなに暗くなっちゃった…!」
 窓の外はすっかり暗く、あんなに分厚かった雲もなくなって、あっというまに部屋はまんまるな月の光で満たされた。
 しまった、そう思った時にはもう遅かった。心臓がばくばくと音を立てるのに合わせ、授業で見た化学反応よりも早く身体が熱を帯び始める。口の中が痛痒くなる感覚と肌を逆撫でされているような感覚はあっという間に全身に広がっていく。いつもは熱と共に何かが解けるようなこの感覚は嫌いではないのだが、抑えようとするとここまで気持ち悪いものなのかと考える余裕すらあった。
 今夜は月があらゆるものを照らす。それは…わたしも例外ではない。だから、楽しい羽那ちゃんとのおしゃべりを中断してまでも絶対に家に帰らねばいけない理由があったのだ。
「ヴ…は、羽那ちゃん、ごめ、カーテンしめ………て……?」
 大きくなった犬歯の奥からなんとか言葉を並べようとしたその時、私の視界を捉えて離さなかったのは、月を背に立った羽那ちゃんの…爬虫類のように少しだけ縦に裂けてほんのり赤く光っている、いつもの羽那ちゃんのものとは程遠い瞳だった。
 こんなにおそろしくて怖いほど綺麗な瞳なんて見たことないはずなのに、わたしはなぜか、この血のような瞳の色を、知って……だめだ。慣れない場所で変身が始まったせいか、五感から入ってくる多すぎる情報に目と頭がぐるぐるしてきて、喉からは時折グルルといつもの声とはかけ離れた音が出ている。
「はな、ちゃん…その、め…」
「目?…それよりはるきちゃん汗すごいよ⁉ほらこっち、横になれる…?」
 今のわたし、きっとひどい顔してるだろうな。羽那ちゃんが近づいたとき自分の中にいる獣が威嚇してしまうと思ってきゅっと肩をこわばらせたが、肩に手が触れた瞬間に不思議と心のざわめきが収まった。
「はるきちゃん、もう大丈夫そう?」
「多分…!心配かけちゃってごめんねぇ…」
 お互いのとんでもない秘密を知ってしまってから十分後、ベッドの上で休ませてもらったうえに、わたしの代わりに尻尾をブラッシングしてもらっていた。いつも変身しきった後はこの身体を馴染ませるために腕や尻尾をお気に入りのブラシで梳かしてしているのだが、手と足にはしっかり伸びて尖った爪があるので危ないし、今回はもう体力が残ってなかったので助かった。実際尻尾はくたくたになっている本体に反して気持ちよさそうにゆらゆらと揺れている。…うん、こっちもだいぶ気分が戻ってきたかも。ゆっくりと上半身を起こす。
「ねえ、羽那ちゃん。その目のこと、聞いてもいい?」
「そうだった!確か…あたしのひいおばあちゃんがね、そういう人?だったんだって」
「…羽那ちゃんも血、吸ったりするの?」
「ううん全然!お母さんがね、お肉をちゃんと食べておけば基本大丈夫だって言ってた…んだけど、最近ライブの準備とかで意識しすぎて、あんまり食べてなかった、かも…?」
 あまりにもけろっとした羽那ちゃんの話を聞いて、今日まで人狼としての本能が全く反応しなかった理由が分かった気がした。実際、羽那ちゃんの目は既に見慣れた薄紫色に戻っている。
「今更、なんだけど、わたしのこと、怖くないの?」
「うーん…あたしも…似たようなもの?だし、こーんなにふわふわになっても、はるきち  ゃんははるきちゃんでしょ?」
 鋭くて真っ黒な爪も毛深くなった腕も気にせずに、いつも通りわたしの手をとった羽那ちゃんは言う。ああ、わたしはこのすっと優しく染み込むような言葉に今までどれくらい救われたのだろうか。
「は、羽那ちゃ~ん…!」
「もう、どうしちゃったの…!」
 さっき横になったときに背中をさすってくれたように、優しく頭を撫でてくれたた思うと、その手の動きがぴたりと止まった。わたしの耳はいつかのマメ丸くんのように名残惜しそうにぺたんと寝てしまう。
「あはっ、そうしてるとなんだかわんちゃんみたい―!」
「もう!これでもちゃんとはんぶん狼なんだよ!…たぶん。」
「…はるきちゃん、ちょっとだけ、あーんってしてみてくれる?」
 唐突な要求に言われるがままにぱかと口を開ける。羽那ちゃんはずいと顔を近づけて、興味深そうに口の中をじっと見つめ続けていた。
「わー…すごい、おっきい牙だね…」
「ふぁ、ふぁふあいよふぁあひゃん!」
 羽那ちゃんの前では獣の本能もかなわないのかもしれない。ちょっとだけ、確信めいたものが心に生まれた。
***
 あの日から、自然とじぶんを覆っていたシャボン玉の膜がはじけたように、二人の距離がさらに縮まった気がして嬉しかったし、いろんなことをおしゃべりできた。羽那ちゃんは日光もにんにくも平気だということ。わたしは…夕方に聞こえるサイレンの音がちょっとだけ苦手だということ。…ただ、一つだけ気がかりなのが、ほとんど普通の人間と変わらない羽那ちゃんはまだしも、このままみんなに…ルカちゃんに、わたしの正体を隠してアイドルができるのかという不安だった。
 この頭の隅っこに影を落とす問題に答えを出すことができないまま日々はいつも通り過ぎていき…満月の日が明後日に控えたユニットでの練習の休憩中。突然その時は訪れた。
「これ。持っとけ」
 ルカちゃんに急にぽんと何かを手渡された。差し入れかな?と手元を見ると、少し年季の入った厚手の紫色の布で作られた小さな巾着だった。手のひらに簡単に収まるサイズのそれからは微かに懐かしいような、胸がすうっとするような香りがした。
「わあ、いい香りがする…!」
 わたしが素朴な感想を呟いた瞬間、ぴたりとルカちゃんの動きが止まった。すぐにぐるりと振り返ったかと思うと、怖い顔をしながらぐいと詰め寄ってきた。
「る、ルカちゃん?」
「オマエ……やっぱり人狼か」
「えっ⁉」
 ルカちゃんから突然出るとは思っていなかった単語に過剰に反応してしまったのが逆効果だった。手の中で布越しに感じるかさりという感触でかつて兄から聞いた話が頭の中で再生される。確か、人狼を炙り出すために人間にはかぎ取れない香りのするものを持ち運ぶ人が今でもいるとか。そして、そんな用心深い人はきっと…。
「薄々気付いてたが…満月の日だけレッスンだの練習だの異様に避けてただろ」
「そ、それは、その…!」
「だ、ダメーっ!」
 最悪の想像を遮るように、羽那ちゃんがわたしを守るようにルカちゃんとの間に入ってきたのが見えた。
「…何してんだ?」
「その!はるきちゃんを、退治、しない、で……?」
「なんでそんなことしなきゃなんねェんだよ」
「もしかして…ルカちゃんも、そう、なの?」
「ンなわけねえだろ」
「あれ、ハンター?とかでもないの?」
「違う」
わたしたちの質問をルカちゃんはばっさばっさと切り捨てていく。
「…安心しろ。それ、元々私のじゃない。」
「じゃあ、これって一体誰の…」
わたしの質問を遮るように、がちゃ、とドアを開ける音がした。
「お疲れ様で…あれ、まだ使っていたの?」
ドアを開けたのは、なんと美琴さんだった。ルカちゃんの方向を見ると、見たこともないくらい面倒くさそうな顔をしていた。
「練習中、って感じじゃないみたいだね。」
 美琴さんの目は部屋の状況を一通り確認した後、わたしの方をまっすぐと捉えた。
「…やっぱりそうだったんだ」
「え、」
 わたしの驚く顔はあまり確認せずに、その目線は手元の巾着の方へ向いた。
「それ、まだ持ってくれていたんだ」
「…まあ。」
「美琴ちゃん、この巾着のこと知ってるの?」
「うん。それ、私のものだから。…ルカ、話してないんだ」
「普通は話さねェよ」
 どことなくずれているような会話がレッスン室に静かに飛び交う。美琴さんは口に手を当てて少し考えた後、「じゃあ」とその場ですとんとしゃがんだ。
 瞬間、先ほどまで美琴さんが立っていた場所には大きな犬…いや、話の流れだと狼の方が正しいだろう。わたしたちと同じジャージを着た赤毛の狼が座っていた。
「これでどう?」
…目の前の狼が美琴さんの声で喋ってる。
 ルカちゃんは目を丸くして顔を真っ青にしながら、「は」「ば」という一音を発しては口を開いて閉じてを繰り返していた。
「……美琴ちゃん、撫でてもいい?」
「ハァ⁉」
「いいよ」
「美琴ォ!」
 羽那ちゃんがゆらゆらと尻尾を揺らしている狼の美琴さんを遠慮なくわしわし撫でて、「この前のはるきちゃんよりちょっと硬いかも!」なんて感想を述べている横でルカちゃんの流れるようなツッコミが響く。そんなにぎやかになったレッスン室のドアが再び開く音がした。
「お疲れ様で……っ⁉え、な、ちょ、え、は、どういう状況です⁉」
にちかちゃんはレッスン室の状況を把握した瞬間、目を丸くしていた。
「にちかちゃん、美琴ちゃんのこと知ってたんだ」
「それは…まあ?同じユニットとして知っておくべき?というか…」
 他の人にも話してるの?という羽那ちゃんの質問には「普通は話さなくないですー⁉」とルカちゃんと全く同じ答えが返ってきた。
 のんきな会話が一区切りついたのを見て、後ろから大きなため息が聞こえて、ルカちゃんが怒っているようなあきれたような顔でわたしたちの目の前に立った。
「そこに座れ。早くしろ。オマエもだからな」
「…もしかして、あたしのことも、バレてる?」
「この前の練習中に…というか、自分で気付いてなかったのかよ…」
「そっかー。じゃあ、はーいっ!」
 羽那ちゃんの返事と共にわたしたちはおとなしく横一列に並んで座った。
「美琴もだよ!」
「どうして?」
「どうしたもこうしたもねェよ…あと、いい加減戻れ」
「わかった」
 ちゃき、と爪を鳴らしながら狼が座る姿勢を変えた瞬間、いつもの人間の美琴さんが戻ってきたのを確認してすぐ、ルカちゃんはぎろ、とにちかちゃんを睨む。
「…オマエはこっちでいい」
「は、はあ…。」
 不服そうな、でもちょっと安心したような不思議な顔をしながら、にちかちゃんはルカちゃんの隣に収まる。
こうして、ルカちゃんによるしっかりとしたお説教が始まったのだった。
「はあ…美琴さんみたいに自由にどっちの姿にもなれたらなあ…!」
 お説教が一区切りしたタイミングでそんな吞気なわたしの言葉に、ルカちゃんとにちかちゃんはほぼ同時に目をそらす。
「…?二人とも、どうかしたの?」
「「なんでも」ないです…」
「でも…もしものときのために、満月の夜を切り抜ける方法は教えといたほうがいいかな?」
「あるんですか⁉」「あるのかよ!」
 再びルカちゃんとにちかちゃんの声が重なる。
「そこまで難しくはないし、私は必要ない体質だから。でも、あくまで抑えるだけだから、来月の満月の日は外に出られなくなると思う。それでもいいなら。」
「ぐ、具体的には…?」
「郁田さんのさっきの反応を見た感じ…多分、さっきの私みたいになるんじゃないかな」
「……お前ら、今『それはちょっといいかも』とか考えただろ」
「うっ…」
「クソ…ここには危機感が犬以下のしかいねえのかよ…!」
 …お説教、続行である。