【年齢操作/果穂十八歳、智代子二十三歳】
 窓の外からは、わざとらしいほどの雨音が聞こえている。
 小宮果穂はうらめしく外に目をやって、小さく嘆息した。まだまだ止みそうもない。傘もレインコートもないこの状況で、外に出ることは不可能だ。
 いや、そもそも──ずぶ濡れの服をカーテンレールに干しているような状態では、たとえ雨脚が弱まっていたとしても外には出られるはずがなかった。
 頭では分かっているけれど、視線は何度も窓の外へと逃げて、耳も雨の音を聞いてしまう。
 そう、雨の音を。
 雨音に混ざって聞こえる別の水音を、努めて聞かないようにするために。
 先程からリモコンを手に取っては何度か適当にテレビのチャンネルを合わせてみたりはしているが、興味を惹かれるような──気を取られさせてくれるような──番組は何もやっていない。あるいはこの状況だから、番組に気持ちが行かないというだけかもしれないが。
 この状況。
 ここは果穂の部屋ではない。事務所でもなかった。
 飲み物程度しか入らない小さな冷蔵庫、飲み物やカップ麺などを買うことができる小型の自販機、テレビ、電気ポット、それから……一人で寝るには少し広いベッド。
 つまり、ホテルの一室だった。狭い部屋を占有するベッドの上に果穂は座り込んでいるのだ。
 泊まる予定があったわけではなかった。遊びに出かけた帰りに通り雨に降られ、ずぶ濡れで駅まで辿り着くこともできずにそのまま通りのホテルに入った。
 落ち着かない。舌打ちして(めったにしないので上手く鳴らなかった)果穂はベッドに転がった──と、同時に、
「いやぁどうもどうもお待たせいたしました。いやはや良いお湯でした〜、にしても広いねえここのお風呂」
 ドアの開く音と共に、ぽやぽやした声が聞こえて慌てて飛び起きた。
「お、お帰りなさい」
「ただいま〜……ってのもちょっと変かな? 何て言うのが正しいかな……風呂いま? いやもっと変か」
 などと言って首を捻りながら、園田智代子が果穂の隣にちょんと座った。思わず気取られない程度、わずかに身じろぎしてしまう。
 きちんとドライヤーで乾かした髪は、それでもまだ水気を孕んで艶を残している。ホテルに備え付けの寝間着は智代子の体を隠すには少しキツかっただろうか、胸元に強い皺が寄っていた──なんて、つい見つめそうになるのを必死で視線を引き剥がす。
「雨、まだ降ってる?」
「ええ、まぁ。しばらく止みそうにないですね」
「うーん、災難だったね。せっかく一緒に遊んでたのに……」
「そうですね」
 同意をして会話が途切れると、また雨の音が響いてくる。
 つまり、そう。果穂は智代子と遊びに出かけていて、その帰りに雨に降られたのだ。
 ホテルで雨宿りしようという提案を果穂は強めに断ったのだが、このままでは風邪を引いてしまうからと智代子に押し切られてしまったのである。
 ああ、どうしてこうなってしまったのだろう。
 そもそも。そもそもだ。
 これを単に「一緒に遊びに行くだけ」だと思っているのは、智代子だけなのである。
 果穂としては「智代子をデートに誘った」つもりだったし、「一緒に映画を見に行く」のも「買い物をする」のも「ご飯を食べる」のも、全部デートの内容のつもりだったのだ。
 それを「果穂とこうして二人で遊びに行くのも久しぶりだね」だの「もう果穂も大人料金かぁ。ちょっと感慨深いっていうか……樹里ちゃんだったら泣いちゃったりして?」だの、挙げ句の果てには「果穂が風邪を引いちゃったらご両親に面目が立たないから……ここは先輩の顔を立てるために、お願いします! ちゃんと連絡して説明もするから、ね?」と言われてしまっては。断って無理矢理帰ることなど、できようはずもなく。
「ねぇ、果穂」
「うぇっ⁉」
 肩を掴まれて、うっかり変な声を上げてしまった。
 幸い智代子はそんな果穂の様子には気づかないらしく、顔を寄せてルームサービスのメニューを見せてくる。
「晩ご飯なんだけど、果穂は何が良い? 結構色々あるみたいで……カレーとかラーメンとか……オムライスに……ガパオライス? あ、デザートもあるね、ハニートーストかぁ──……」
 つらつらと上げられるメニューが頭に入ってこない。
 ふわりと香るのはシャンプーだろう、ちょうど果穂の鼻先に智代子の髪がある。果穂も同じシャンプーを使ったはずだがどうして智代子のほうが良い香りに思えるのだろうか。
「果穂?」
「あ、えっと……」
 黙り込んでいると不審げに顔をのぞき込まれた。この人は、それが追い打ちになるとも知らない。
「は、ハンバーグ、ありますか? あったらそれが良いです!」
 果穂は誤魔化すためにわざと大きな声でメニューを告げた。とっさに挙げたメニューは小学生の頃からの好物で、きっとこういうところで智代子からの印象を幼くしてしまっているのだろうと心に少し重りがかかる。
「ハンバーグ、ハンバーグ……あ、大丈夫、ちゃんとあるよ! うーん、私はどうしようかなぁ。全部美味しそうだけど、全部食べるってわけにはいかないもんね……。せっかくだしデザートも頼みたいから、ここは軽めにローストビーフ丼とか……」
 メニューに顔を埋めて悩む智代子はきっと、果穂の赤らんだ頬にも気づいていないだろう。この心の音だって、雨音に混ざって届かないまま消えてしまうのだ。
 どうにか智代子を意識しすぎないよう気をつけて、高鳴りそうになる心臓の音を押さえつけて、果穂は漫然とスマートフォンを弄る。どれだけツイスタの新着記事を更新したところで、出てくる内容なんて頭に入っては来ないのだけれど。
 このまま朝まで過ごすなんて、とてもではないが寝られる気もしない。
 ああ雨よ、早く過ぎてください。
 きっと七夕の彦星よりも強く、果穂は見えない星に願った。