ふとひんやりした、同時に暗い空気に気付きレッスン室の外を見てみれば、しとしとと雨が降っている。かなり雨足は強く、傘を持っていても濡れそうだ。
「うわー、かなり強いですねこれ。美琴さん、傘持ってます?」
先ほどまで一緒に練習をしていたにちかちゃんも嫌そうな顔をしながら窓の外を覗いている。この様子だと折り畳み傘も持っていなさそうだ。
「私は…持ってきてないな。家出る時晴れてたし」
「ですよねー……まあ少しくらいなら走って帰れそうですし、大丈夫ですかね?」
「どうだろう、結構本降りに見えるけど」
まだ時間もあるし、もう少し様子を見てから決めようかと思い時計に目をやれば、時刻は既に午後六時半を過ぎている。予定より大分遅くなってしまったようだ。
「えっもうこんな時間⁉ ヤバい、早く帰らないと!」
その焦った声音を聞いてこちらもキリが良かったので帰り支度を始める。というのも『今日はやっても早めに切り上げること!』と昨日早朝までレッスンしていたのがばれてプロデューサーに怒られたばかりだからだ。
「にちかちゃんが帰れなくなったら大変だし、今日はもう帰ろっか。」
「はい!よし、それではお疲れ様で……」
二人で挨拶をして荷物を持ち上げたその瞬間、まるで狙いすましたかのように雨足が強くなった。ザザーッという音と共に大粒の水滴が次々と落ちてくる中、私たちはそれを眺めることしかできない。
「…これは、歩いて帰るのは無理そうかな?」
「ですね…鞄の中までびしょ濡れになりそうですし…今日夕飯作るの遅くなるかもってお姉ちゃんに連絡しときます!」
「分かった。…せっかくだし、ここで雨宿りしよっか」
…正直ここまで降るとは思ってなかったのだけれど。幸いレッスン室の空調はかなり効いてるため寒くて風邪を引くことはないだろう。今日はこの後仕事もないし、私は帰りを急ぐ必要もない。ただ明日もダンスの練習はあるため泊まりはできれば避けたいところだ。
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しかしそんな私の希望とは裏腹に待っても待っても止まることの知らない雨の量である。気がつけば三十分もの時間が過ぎていた。
(天気予報では一日曇りのち晴だって言っていたのだけれど)
ただでさえ雨脚が強い上に横殴りになっている風も相まって外に出ようものなら普通に立ってられなさそうである。
そんなことを一人考えていると、雨の音を遮るように声が部屋に響いた。
「あ、あの!美琴さん!コーヒーいります?カロリー気になるならお茶もあるかもですよ!」
と言うと彼女はすぐさま自動販売機を物色し始めた。
こういう時にすぐ行動できるのは素直に尊敬できる点だと思う。私は何もすることがないなら、とすぐ頭の中で次のレッスンについて考えることしかできないから、あまり真似できない芸当である。
しばらくすると彼女は片手に紙コップを持った状態で現れた。彼女の手に収まるサイズのそれは明らかに一人分しか用意されていないように見える。それを不思議に思いつつ声をかけた。
「あれ、一人分?」
「は、はい!なんか自動販売機のラインナップ、私が好きそうなものなかったので…すみません」
えへへ…と笑いながら彼女は紙コップに入った飲み物を差し出してくる。ありがたく受け取って中身を見るとホットミルクが入っていた。ほんのりと蜂蜜が入っているらしく優しい甘みを感じる。口に含むと久々に感じた優しい温かさといつか味わった味覚が少しだけ舌を刺激し、気持ちが和らいだ。
ふぅっと一息ついて改めて部屋の中に視線を向けると、壁際に横長の椅子が静かに置かれている。よく考えなくてもここはレッスン室なのだから休憩用に設置してあっておかしくないわけだけど、あまりここを使ったことがなかったのもあって全然気付かなかったことを考えるともったいないことをしていたかもしれない。座れる場所があることに気付いた以上じっとしているのも仕方がないので、とりあえずそこに腰掛けることにした。
横に二人で同じようにちょこんと座っているものの、特に会話もない。当然と言えばそれまでではあるがなんと言うべきか……ちょっと微妙な距離感であった。しかし今日は雨音がその微妙な空気を少しかき消してくれているからか、先ほど飲み干したホットミルクの温かさが体に残っているからか、その瞬間少し…魔が差したのかもしれない。
「ねぇにちかちゃん」
「はい?」
「まだ雨止みそうにないし、する?腕相撲」
―一瞬の沈黙。
「……えぇ⁉突然どうしたんです⁉しかもそれ私が負けること確定じゃないですか‼」
「まだ雨止みそうにないし、この椅子なんか使えるかなって」
「だ、だとしてもですよ‼」
「じゃあ、やめとく?」
彼女は一瞬うぐ、と固まり行きどころのなくなった腕が申し訳なさそうに宙に浮く。その一挙一動が大きくてなんだかこの前事務所のテレビに映っていた子犬の動画と重なってしまう。
「……いえ、やりましょう。あ!せっかくなので何か賭けませんか?」
承諾と提案が同時に飛んできたので、腕相撲をやる姿勢になりながら言葉を出していく。
「いいよ。何がいい?」
「じゃあじゃあ、負けた方が勝った方の言う事をなんでも聞く、というのはどうでしょうか!」
「わかった。じゃあ……はい、スタート」
「ちょっ⁉フライングですよそれ⁉えっえいっ‼ あっ……」
想像したより早く自分に軍配が上がってしまった。
「…勝っちゃった」
「あはは…負けちゃいましたねー… ではど、どうぞ!なんでも言ってください‼」
とやや上ずった声で自分の返答を待っている。ならば。
「じゃあ…そういえばにちかちゃん、いつもこの辺で練習しているよね。よかったら次も一緒にやってもいい?」
「えっ、それだけで良いんですか⁉もっと無茶なことでも……」
「うん。だってほら、これからまだまだあるだろうし、やっぱりお互いを知ってる方が良いと思って。それに……」
「?」
「雨の日じゃなくても、こうやって話せるようになれば、もっと息のあったパフォーマンスができると思って」
うわうわ!はいっ!とすぐさま元気良く返事をする彼女を見て、その反応の良さに思わず笑ってしまう。
「わ、笑うことないと思うんですけど…!」
とは言いつつも満更でもない様子がかわいらしい。
「そうと決まれば今度の土曜日はどう?レッスンのスケジュール調整しなくちゃいけないけど多分大丈夫だと思う」
「私も、多分…いや絶対大丈夫です!行きましょう!」
レッスンのお誘いだけだというのに、まるでこれから遊園地にでも行くようにニコニコと喜んでいる彼女を見て、少しほおが緩んだ。
次の予定が決まったところで窓の外に目をやる。どうやら雨雲もこちらの会話を聞いていたのか、すこし帰りやすくしてくれたようだった。