「……りんぜ、さん」
凛世の上に覆い被さるようにしている果穂さんが、何度目かの凛世の名前を呼びます。
普段はきらきらとした輝きを放っている果穂さんの瞳が、今は少しだけ翳り揺れています。まるで凛世に、本当に大丈夫なのか、と問いかけるようなその目に、凛世はどう映っているのでしょうか。
果穂さんとの交際が始まってから、既に数年。未だ本家には話が至っておらずとも、放課後クライマックスガールズの皆さんの間やプロデューサー様には知れ渡る間柄ともなれば、以前よりも気軽に共に買い物に行き、お互いの部屋に泊まることもできるようになりました。
そして、それ故に凛世は知っています。本日、隣の部屋にいるはずの樹里さんは夏葉さんの家へと向かっていることを。それを伝えれば、果穂さんにいつものような明るい顔をしていただけるのでしょうか。
それともやはり、本家への申し開きの方を考えているからこそ、そのような嶮しい顔をしているのでしょうか。そうであるならば、凛世は何か方策を考えねばなりません。
出逢ってから数年経ったとはいえ、果穂さんは未だ成年には至らず、それ故果穂さんにはこれから種々のご迷惑をお掛けすることとなるでしょう。本日も、凛世からそういった行為をしてしまうのはいけないと、智代子さんに固く三度ほど念押しされました。やはり、そういったしがらみが良くないのでしょうか。
「りんぜ、さん?」
そのようなことを考えていると、再び果穂さんの声がしました。再び見遣れば、そこには変わらず不安そうな果穂さんの顔。
「……はい、凛世でございます」
「凛世さん、その…… 本当に、いいんですか……?」
「……そのようなことで、思い悩んでいるのでしたら……」
凛世の考えるよりもずっと簡単で、ずっと優しい迷いを打ち明けてくださった果穂さんの頬に、そっと手を添えます。果穂さんは少しだけむず痒そうに目を閉じて身体を跳ねさせました。
「凛世は、果穂さんにこそ、と思い、これまで過ごして参りました」
「……あたしで、」
「果穂さんが、いいのです」
りんぜさん、と果穂さんの声がしたかと思えば、胸元に軽い衝撃が走ります。凛世の胸元に埋まった果穂さんの頭がそのまま凛世の口を塞ぐまでは、そう長くはありませんでした。
伏せた瞼を僅かに開いて、カーテンを閉めた窓の様子を窺います。その隙間から光は漏れておらず、外は穏やかな晴れであるのか、曇りであるのかは分かりません。
しかし、曇りであればいいと。太陽は、凛世の腕の中にひとつであればと。そう願って、凛世はまた瞼を閉じました。
「――雨、ですかね?」
「今日は昼過ぎより、俄雨という予報だったかと……」
気怠さに身を任せ、どれほどの時間が経ったのでしょう。果穂さんに言われ凛世も耳を澄ませば、微かに雨の音がしました。
しかし果穂さんも凛世も、布団の外に出ようとはしません。凛世はただ、繋いだままであった果穂さんの手の指を、確と絡め取ることのみをしていました。
「……傘を持ってきてない、って言ったらお母さん、凛世さんのお部屋に泊まるの許してくれますかね?」
「……どうでしょうか、果穂さんの日頃よりの行いであれば、そのような言い訳をせずとも、とは思いますが」
目を閉じ、果穂さんのあたたかさを感じながら、午後の雨を聴きます。ゆっくりと、しかし確実に雨は強くなっていき、凛世の街はみずいろに沈んでいきます。
「《筑波嶺の、峰より落つる、男女川――」
「――恋ぞつもりて、淵となりぬる》、でしたよね、凛世さんっ」
「……果穂さん、ご存知だったのですか」
ゆっくりと瞼を開けば、出逢った時と変わらない果穂さんの笑みが、いっぱいに広がっておりました。
「えへへっ、あたし、今古文で百人一首やってるんですっ。凛世さんとおんなじものが見られるように、ちょっと頑張ろうって思って。先生にも褒められたんですっ」
そのような言葉と、その笑顔に、凛世はいったい何度救われたのでしょう。
積もった想いを告げ果穂さんと交際を始めた際には、「代わり」を求めているだけではないかと自ら思い悩む日も多くありました。しかしそのような時にも果穂さんは、先のような屈託のない笑顔で、凛世のことを好きと仰ってくれました。
だからこそ今が、その恩返しをするべき時だと。何の考えもなく、そのように感じました。
「――果穂さん、ずっと、ずっと、お慕いしております」
果穂さんは驚いたように目を開いて、それから照れたように笑いながら絡めた指を強く握り返して。
凛世は、はじまりの時と同じように瞼を閉じました。