ひとりきりの控え室。机へ台本を置く音すらやけに大きく響いて、気。
イルミネーションスターズとして、櫻木真乃としてたくさんのお仕事やオーディションへ出させていただくようになりましたが、めぐるちゃんも灯織ちゃんもプロデューサーさんもいない私だけの日はまだまだ不慣れでどうにも落ち着きません。朝に「がんばれ!」って画面越しに応援をしてもらったけれど、ひとりきりになるとどうしても弱気な自分が顔を出しそうになってしまいます。
いったん水でも飲んで落ち着こう。そう思いかばんを探ったとき、かさりと小さな袋が指にあたりました。
「あ……」
袋の中にはストライプ模様のネクタイが小さく折り畳まれて入っています。数日前、灯織ちゃんと制服交換をした日からずっと持ち歩いていたものでした。
あの日、お互いの制服を着たはいいものの、妙にくすぐったくなって何も言えずにいた私たち。誰かが事務所へ帰ってくる音が聞こえて慌てて帰り支度をしたのですが……着ていたセーターはなんとか返したけれど、灯織ちゃんのネクタイと私のリボンはうっかり着けたままそれぞれの帰路についてしまったのです。
それから数日経ち、会えたときにいつでも返せるよういつもかばんに入れてはいるのですけれどタイミングがどうにも合わず、なかなか返せないまま今日まで来てしまったこのネクタイ。けれど、見知らぬ場所で心細く感じていた私にとって、それはちいさな勇気を与えてくれるものでした。
袋にしまっていたそれをそっと手に取り、胸元できゅっと握りながら目を閉じます。今朝スマートフォン越しに見たときと同じ優しい笑顔が脳裏に浮かんで、心細かったはずのこころに小さな灯りが点くのを感じました。
……なんだか、灯織ちゃんが見守ってくれてるみたい。
ひとりきりなはずなのに、そばに灯織ちゃんがいてくれているような安心感。さっきまで胸中を満たしていた不安はどこかへ消えて、凪ぐような心地良さが広がっています。三人おそろいのストラップと同じくらいに勇気をくれて、まるでお守りのように感じます。
灯織ちゃんのネクタイを机の上へ置き、もう一度深呼吸をします。いつものポーズを取って気持ちを奮い立たせれば、いつも通りの私になれた気がしました。
「頑張ってくるね。むんっ」
良いお知らせと一緒に灯織ちゃんへ渡せますように。ネクタイにお願いごとをして、控え室を後にするのでした。
◇ ◇ ◇
かたん、かたんと電車が揺れます。
オーディションを無事に終え、事務所へ向かう電車へ揺られること早二十分。事務所の最寄り駅まではあと十五分くらいでしょうか、ちらりと見た車内の液晶には目的地から四駅離れた地名が表示されていました。
プロデューサーさんからの連絡を読みながら先ほどのオーディションを振り返ります。いつも以上に落ち着いた気持ちで臨めたおかげか、確かな手応えを感じることができました。デモ曲を歌い終えたときのやりきった感、審査員の方の満足げな顔。思い出すたびに良い予感と誇らしさを強く感じて、あさっての結果連絡が待ち遠しく思えます。
『──、──、』
アナウンスが駅名を読み上げるとゆるやかに電車が止まります。もう放課後の時間帯になっていたようで、見覚えのある灰色のブレザーを着た学生さんたちが同じ車両へ賑やかにお喋りしながら乗り込むのが見えました。
もしかしたら、と辺りを見渡せば隣の車両によく見知ったお顔がいることに気がついて、声を発するより先にそばへと駆け寄ります。
「こんにちは、灯織ちゃんっ」
「ん……あれ、真乃? 偶然だね」
灯織ちゃんは私に気付くとイヤホンを外して微笑んでくれます。三人で通話やメッセは毎晩しているけれど、こうして直接顔を合わせるのは随分久しぶりなものですから。スマートフォンよりもずっと近くに感じるだけで嬉しい気持ちがあふれ出してしまいそうでした。
「真乃、オーディションお疲れ様。……どうだったか聞いてもいい?」
「もちろんっ。今朝灯織ちゃんとめぐるちゃんが応援してくれたおかげで頑張れたよ……っ」
「そっか。よかった」
「これから事務所に戻るんだけど、灯織ちゃんは?」
「私も同じ。一緒に行こう」
「うんっ」
灯織ちゃんと一緒の手すりに掴まり、再度電車に揺られます。普段は方向が違うから灯織ちゃんと一緒の電車に乗ることはなかなかないのですけれど、嬉しいぐうぜんについ頬が緩んでしまいます。
あのね、と声を掛けたくて隣を見ると、まだ五月の半ばなのに灯織ちゃんの首元がなんだか涼しげなことに気がつきました。衣替えには少しだけ早いような……なんて考えていると、灯織ちゃんが苦笑しながら緩められていた襟を隠すようにいじります。
「……その、やっぱり変かな?」
「え、えっと……っ。変じゃないけど、珍しいなって」
「昨日までは予備のネクタイを着けてたんだけど、ちょっと汚しちゃって」
明日には乾くはずだけど今日だけね、なんて困った風に笑う灯織ちゃん。普段きっちり着込んでいる灯織ちゃんが制服を着崩す姿なんて滅多にないものですからついつい視線がいってしまうけれど、気恥ずかしそうにしている姿に私まで落ち着かない気持ちになってしまいそう。
「あぁ、そうだ。真乃に会ったら渡そうと思ってたんだ」
「?」
「はい、この前借りたリボン。返すね」
「ほわっ」
そう言って灯織ちゃんが取り出したのは、青いリボンでラッピングされた透明な袋。中には制服のリボンと最近よく食べるチョコがひとつ入っていて、ちいさな気遣いに灯織ちゃんらしさを強く感じて、好きだなぁって心がぽかぽか温まります。
私も灯織ちゃんのネクタイを返そうと同じくかばんへ手を入れたのですけれど──袋を持ち上げようとした途端、手が動かなくなってしまいます。
……そんなことはきっとないのに、『オーディションに受かりますように』と願掛けをしたネクタイを返してしまったら、合格も手放してしまいそうな気がして。
固まってしまった私を見て、灯織ちゃんが不思議そうに首を傾げます。何か言わなくちゃ、と焦るあまりに出てきた言葉は、私自身も驚くもので。
「……ご、ごめんね。今日は忘れてきちゃったみたい……」
とっさに出たのは、そんな嘘。言い終えた直後に罪悪感がずんと重くのしかかって、息が止まってしまいそうになります。
こんなのよくないって頭では分かっているのに、すぐにでもネクタイを渡してあげた方が良いのに、取り消しの言葉は喉の奥で引っかかって上手く言えません。けれど私のでだらめを灯織ちゃんは疑うこともなく信じてくれて、いつものように柔らかく微笑んでくれます。
「急ぎじゃないしいつでもいいよ」
「う、うん……」
本当のこともごめんなさいも言えないまま俯いているうちに話題はもう制服から今日の打ち合わせのことへ変わり、本当のことを打ち明けるタイミングがなくなってしまいました。
……どうしてこんな嘘をついちゃったんだろう。
疑いなんてこれっぽっちもしていない、全幅の信頼を寄せてくれている灯織ちゃんの表情にちくりと胸が痛みます。……けれど、ほんの少しだけ、このお守りをまだ借りていられることに安堵してしまった自分がいるのも本当で。ごめんね、って心の中で謝ります。
今度返すときはとびきりのお菓子も添えるから、もう少しだけ。せめてオーディションの結果が届くまではなんて、そう思ってしまったのでした。