夕方。
 自室のカーテンは遮光ではないけれど、夕陽が部屋を染め上げたりはしない。方角が悪いわけでもない。今日は朝から灰色の雲が空を覆っていて、昼過ぎから雷とともに土砂降りの雨になった。エアコンを除湿設定にするくらいには湿度が高い。散発的な雷の音が窓の向こう、遥か遠くから聞こえてくる。
 しかしながら、そんな空模様と裏腹に、私の気持ちは晴れやかなものだ。
「課題終わり、と」
 ノートとテキストを片づけて、ひとつ伸びをする。連休前に出された課題は少しだけ普段に比べて手強かった。
「円香ちゃんおつかれさま、雷すごいね……」
 スマホからの声に意識を向ける。部屋着であろう服には控えめにフリルがあしらわれていて、小さな肩が綺麗に収まっている。液晶の中で、私よりも先に課題を終えた小糸が所在なさげに笑っていた。
「大丈夫? 雷」
「だっ、大丈夫だよ! わたしだっていつまでも子どもじゃないんだから……!」
 小糸は言いながらも、僅かに肩を竦めているのが分かる。小糸は何かに怯える時、そうして縮こまる。きっと、課題中に家の近くに落ちた雷が尾を引いているんだろう。頻りに窓の方を気にしているようだった。
「そうね、小糸ももう高校生だし」
 壁にかかった時計の針がこちりこちりと鳴っている。五秒ほどその動きを追ってから、私はため息をついた。
時間というものは気づけば流れていて、色々なものを変えてしまう。小さかった私達は、気づけば大きくなって。それでも私達は私達のままだって、そう思っていたけれど。どういう運命の悪戯か、『ノクチル』なんて名前を与えられて私達はアイドルになった。
「円香ちゃん?」
 だから、昔から変わらない小糸の振舞いを見ると安心することがある。その丸い目や小さな指先が、どうしようもなく愛おしくなるときがある。
「どうしたの」
「え、ううん……なにか考えごとかな、って」
 小糸の瞳が、部屋の照明を跳ね返して不安げに揺れる。心なしか、顔にスマホを近づけているようにも見えた。
「なんでもないよ」
 安心させたくて、そう聞こえるように話す。もし今隣にいたなら、頭のひとつでも撫でてしまいたかった。そうしたらきっと小糸はまた子ども扱いして、って怒るだろう。それもいいかも知れないな、なんて益体もないことまで考える。
「そう? だったら、いいんだけど……あ、そうだ──」
 どうやら心配を収めてくれたらしい様子でなにか切り出そうとした小糸が、突然言葉を切った。かと思ったら、今度はみるみる顔が真っ赤に染まっていく。ぎぎぎ、と音の聞こえてきそうな動きでカメラの画角に戻ってきて、
「聞こえた?」
 へそを隠すみたいにお腹を両手で押さえながら、私にそう訊いた。
「うん」
 雷鳴に慣れた耳に、小さな音が聞こえるはずはなかった。でも予想はつく。
 現在時刻は午後四時二十分。いつもの小糸なら一時間以上前におやつを食べている。しかし今日は課題で時間が押して、そのままこの時間。形のいい耳まで真っ赤に染まった小糸の顔。お腹を隠す両手。導き出される結論。つまり。
 鳴ってしまったのだ。小糸のお腹が。
「ぴゃぁ……」
「それ以上赤くなるんだ」
 ひとつ鳴き声のような音を発して、俯いたきり動かなくなってしまった。耳どころか首まで赤みがさしているような。流石にやりすぎたな、と思って平坦な声で画面の向こうに問いかけてみる。
「夕飯まで、だいぶ時間あるんじゃないの」
「……へ?」
 ようやく顔を上げてくれた。恥ずかしさにうっすらと涙まで浮かべている。罪悪感。
「だから、夕飯まで時間あるけど大丈夫なの? って」
 小糸の家は夕食をとる時間が遅めだ。それでも、バラバラの時間じゃなく一緒に食べるよう決めているのは良いことだなと私は思う。小糸のこれまでを知っているから、尚更。
「あ……う、うん! 大丈夫だよ、ほらこれ」
 そう言って小糸が何かを鞄から取り出してこちらに見せてくる。私はそれに見覚えがあることに驚いて、微笑んでしまいそうになる。
「それ」
「うん、円香ちゃんがくれたビスケット」
 連休に入る前日、レッスン終わりの小糸に渡したビスケット。『私がいない間はお菓子あげられないから、少しずつ食べて』と冗談半分で渡したそれは、未開封のままだった。
「開けて、ないんだ」
「えへへ……円香ちゃんと一緒に食べたいなって思ってたから」
「……湿気ったら美味しく食べられないでしょ」
「あ、確かに! だ、大丈夫かな……⁈」
 慌てて袋を開けて中を確認しはじめる小糸。視線が外れたのを確認してから、堪え切れず私は笑みをこぼした。
 時間というものは気づけば流れていて、色々なものを変えてしまう。小さかった私達は、気づけば大きくなって。それでも私達は私達のままだって、そう思っていた。
「ありがとう、小糸」
「? うん!」
けれど、今この瞬間だけは。