2021/2/4 01:23想い出ばかりを積み上げて、ゆくんだ
 胸にとどめてきた穴を、少しずつ、少しずつ塞いできたはずだった。バスケを辞めて、アイドルになって、ぽっかりと空いていた場所に宝物をしまい続けたと考えていた。この先も繰り返していくのだろう。そして、いつか空洞を埋めきったとして。
 残るものはあるのか。
 放課後クライマックスガールズは無事にW.I.N.G.の審査を抜けられた、とプロデューサーは言っていた。一週間後には準決勝が始まるということも合わせて。彼女たちはそれに向けての特訓中だった。特に夏葉の張り切りようはこれまでの比ではなくて、とうとうトップがこの手に届くところまで来たのだと、目を輝かせて語っていたのを樹里は覚えている。
 樹里は頂点というものに夏葉ほど執着しているわけではなかったけれど、ここまで来たなら、目指すしかないと信じていた。夏葉ほどの努力ジャンキーではなくとも、全力を尽くさなければ、嘘だろう。誰もが血の滲むような努力をして、目指しているステージなのだ。それほどの舞台なのだから、立ち止まっている暇もないはずだった。なのに。
「呆けた顔ね?」
「んー……」
 休憩中だしいいだろ、と続けた言葉にも力が入っていないのが、樹里自身にもよく分かった。レッスン場の片隅で、ぼんやりと天井を眺めて座り込んでいる。レッスンがきつかった訳でもない。多少のブランクがあった身体は、度重なるレッスンのおかげでバスケに没頭していた時と同程度……もしかしたらそれ以上に仕上がっているだろう。息もさほど上がっていない。それでも、思考はどこか錆びついたかのようで、あまりいい考えというものができそうにはなかった。なので、ぼうっとしている。
 それでも待てないのが有栖川夏葉という人間で、相手にしないのもお構いなし、といったふうに隣にしゃがみ込んで樹里の顔の前で手をひらひらと振った。
「樹里? 大丈夫?」
「なんともねーよ」
「そう?」
 ならいいけど、と夏葉は会話を区切った。樹里と夏葉の会話は、どちらかが突っかかって、どちらかがそれに乗っかる、というパターンが出来上がっていたから、ケンカを買わないということ自体が珍しかった。
 そのせいで若干心配をかけてしまったのだろう、いつもなら放っといても自主レッスンを続けている――身体を休める時間があるなら、反省会を開きたがるのが有栖川夏葉である――のに、樹里の傍から離れようとしない。
「戻れって言われても、行かないぞ」
「ええ。私も急かすつもりないもの」
「珍しいな」
 いつもの夏葉なら、こんな時間すらも惜しむはずだった。立ち止まっている誰かの背中を叩いて、無理矢理にでも前へ進ませるだけの力が彼女にはあった。ピンと伸びた背中に負けまいとして走ってきた自分を、樹里は知っている。
 今、樹里の背筋は伸びてはいない。呆けている自分はどのような人間に見えているのだろう。そんなことを考えていたけれど、口には出さなかった。
「W.I.N.G.に出るのに、休んでる暇はないでしょ、くらい言うもんだと思ってたんだけどな」
 代わりに口をついたのは冴えない憎まれ口だった。いつもの自分なら、もっと――思い出せないけれど、もっと、夏葉を焚きつけられるような言い回しをできていたはずだ。
「そうね。樹里が言ってほしいなら、話は別だけど」
 樹里の言葉に、夏葉は考える素振りも見せずに頷いた。そのまま、樹里の瞳を覗き込んでいる。
「今は、言わなくてもいいような気がしたの」
 ただただ、確信した表情をして。
「…………」
「樹里?」
 がつんと殴られたような気が、した。
 夏葉の言葉は、まっすぐな信頼に満ちている。いつだって頑張ってる人間に、認められるほどの努力を自分はしてきたのだろうか?
 アイドルとしての技術は身についたかもしれない。ユニットでの活動だって楽しい。こんな毎日が続けばいいと強く思う。
 ただひとつ。どうしても。
「…………不安、なんだ」
 ぽつりと言葉を吐き出す。たったそれを呟くだけなのに、樹里の喉は掠れていた。
 隣にある肩が、動揺したように一瞬だけ揺れるのを感じ取って、なんとか続きの言葉を捻りだしていく。
「ずっと目指してたモノが目の前に見えてきたから。なんだか、昔のことを思い出してさ」
 バスケを辞めてしまった頃。大事なものを失くしてしまった自分は、どう過ごしていたのだったか。遠い昔のことのようで、うまく思い出せずにいた。
 それでも、胸に抱えてきた大きな喪失感だけは忘れない。
「もし、アイドルだって辞めちまったら、どうなるんだろうって」
 一度取りこぼしてしまったものだから。また失ってしまったらどうなるのだろう。
 レッスン場の無機質な温度は、当時の体温に似ている。ひやりとしたリノリウムの床は、運動後の温まった身体には有難かったのだけれど、今はただ、熱を奪っていくばかりのものに感じられた。
「そればっかりが、あたしには怖いんだ」
 夏葉の顔は、見られなかった。
 天井ばかりを眺めて、次に来るだろう言葉を待っている。
「樹里なら、大丈夫よ」
 いつも通りの声色なのに、樹里はその内容をうまく理解することができなかった。
「は」
 かろうじて出た言葉と一緒に、夏葉の顔を覗き込む。
 誰かを巻き込もうとするときの顔だ、と思った。きらきらと輝く瞳は、今の状況にそぐわない。そうして、驚く樹里を満足げに見据えて、自信満々に夏葉は言い放つ。
「私たちが、簡単に手放したりしないもの」
 ――バカだ。樹里は時々、夏葉の発言に頭痛を覚える。
「そ、そういう話じゃねーだろ!」
「そういう話よ。それにね、樹里がいなくなったら果穂は泣いちゃうわよ?」
「果穂を出してくるのは卑怯だ!」
 樹里は果穂にどうも弱い。素直じゃない樹里が悪い部分も多分にあるのだが、純粋な瞳というものは問答無用でこちらの良心を刺激する。捨てられた小動物のような表情をした果穂に引き留められるのを想像して、樹里は苦い顔をした。
「果穂に泣かれるのだけは、どうもな……」
「でしょう?」
 果穂に甘いのを樹里は重々承知していたはずだったけれど、こうして考えるだけで罪悪感が襲ってくるのだから相当だった。その場しのぎに下手な回答をして、墓穴を掘っていく自分がありありと浮かんだ。
「……っていうか、夏葉。お前、そんな搦め手使うようなヤツだったか」
「どんな手だって使うわよ?」
「意外だ」
 夏葉は王道が好き……というよりも、自分に恥じるようなコトはしないと思い込んでいたものだから、どんな手だろうと、というのは予想していなかった。長いようで短い付き合いだけれど、夏葉の単純すぎる行動原理はあらかた理解していたつもりなのだが。そんな時もあるのか、と樹里がつぶやく。夏葉はええ、と頷いた。
「私だって、樹里を失いたくないんだもの」
 そのためならどんな手段だって使うのだと。
 ためらいもなく言ってのける姿は自信に満ちている。
「泣くのか?」
「泣かないわよ」
 だろうなと樹里は言った。夏葉はとにかく泣かない人間だった。どんなに悔しくたって、挫折しそうになったって、自分にまだ出来ることがあるのなら、前に進みたいのだと、そう言い切る人間だった。
「でも、そうね。樹里がいなくなったとしたら、とても大切なものを失って――」
 顎に指を当てて、夏葉は考え込むしぐさをする。
 あてもなく天井を見上げる瞳が揺れていた。
「大事なものが胸から抜け落ちた、みたいな気分になるんじゃないかしら」
「……そりゃ、一大事だな」
 頬が緩むような、不思議な感じ。
 その辛さは我が事のように実感できるのに、自分に向けられた感情であるというのはどうにも。放課後クライマックスガールズとしてではなく……自分が、そこまで大きな存在になっているというのは、困惑すらあった。
 レッスン室の壁に背をもたれて、樹里は言葉を詰まらせた。夏葉が、このユニットを好きだというのはとっくに知っていた。それに自分が含まれているというのが、今まで結びついていなかっただけ。こそばゆいような感情をどう言い表すべきか。大きく息をつくようにして、ようやく言葉にすることができた。
「でも、そうだ。あたしも、そうなんだ」
 今が何よりも大切だから、失くしてしまうのを怖いと思う。自分の中から、もう切り離すことが出来ないものになってしまっているのは、樹里だって同じだった。
 二人で張り合って、後のことなんてまるで考えずに走ってきたのを樹里は覚えている。それが当たり前の日常になったのは、いつだったか。
「夏葉がいなくなったら、似たような気分になるんだと思う」
「泣くの?」
「泣かねーよ!」
 食いかかるように言い返す。嬉しそうに笑う夏葉が腹立たしかった。いつも通りのことだ。
 どうしたって、樹里は夏葉のペースに乗せられてしまう。お互いに負けず嫌いなものだから、こうなってしまっては二人でとことん身体を動かすことでしか解決できないのだと知っている。
「……夏葉」
「なに?」
「戻ろう」
「もっと休んでいてもいいのに?」
「ふざけんな、余裕だっての!」
 ここには失いたくないものばかりがある。それは、当たり前の毎日だったり、少しばかり眩すぎるステージだったり、みんなとの絆だったり、いつでも全力で輝いてる瞳だったりする。
「今はとにかく、頑張りたい気分なんだ」
「そうね。樹里は頑張り屋さんだものね」
「バカにしてんだろ」
「凄いと思ってるのよ?」
 夏葉の言葉が、紛れもない本心であることを樹里は知っている。だからこそ、むず痒いような心地になって、表情が険しくなってしまう。それだって、いつものことだ。夏葉は意に介さない。
「夏葉は……。いや、いい。とにかく走ろうぜ」
 立ち上がって、ぐっと身体を伸ばす。座り込んでいたままだった身体は、すぐに切り替えをしてくれた。
 樹里がウォーミングアップを始めると、夏葉も手慣れた様子で準備を始めている。
「どのコースにするの?」
「あー、いつもので行こう。夕日が見たい」
「いいわね。私もそうしたいかも」
 この気持ちが胸に残る喪失感を埋め直してくれるものではなくて、その周りに積み上がっていくしかなかったとしても、確かに残るものがあるはずだ。
 そうして、積み重ねられたものの先には。
 背筋を伸ばした夏葉が隣にいて。
 笑える未来を走りぬいてゆける。