夜、宇宙を旅する夢を見た。
アタシはぼんやりと星の海に漂っていて、気が遠くなるほどの長い時を過ごしている。
星を探している――たったひとりで、どこから来て、どこへ向かうのかもわからないまま。アタシだけの星がどこかにあるはずだって願いながら、たぶん、どこにも辿り着けずに。
だけど、不思議と悲しくなかった。
これって、諦めだったんだろうか。そうじゃないって、思いたかったけど。
宇宙開発の企画展絡みの仕事が決まった。
例の「銀河級」が目に留まったらしかった。
ユニットのみんなで宇宙開発について紹介して、同年代、主に中高生くらいをターゲットにこれからの宇宙開発に親しんでもらおう、そんな企画だった。
樹里は学術関係と聞いて地味なものをイメージしていたが、その予想はいい意味で外れた。
企画には色々なコーナーが盛り込まれていて、CG映像を前に解説したりするのはもちろん、宇宙と文化の関りや最新技術の紹介、身近なもので縮尺模型を作ったり、果ては宇宙食の試食に至るまでバリエーションに富んでいた。
樹里は無重力訓練機をはじめとして、実際の宇宙飛行士の訓練と生活を体験することになっていた。担当パートは身体を使う体験企画が主だったが、それでも最低限の知識は要る。だから仕事が決まってから、送ってもらった資料以外にも、入門書などを幾つか教えてもらって読み始めた。
高校生向けの入門書とのことだったが、それでも樹里には少し難解だった。元々理科学系はあまり得意ではない。身体的な直感からかけ離れ過ぎていて、どうにも実感が沸かないせいだろう。
それでも、理論やその原理まで理解するのは無理だとしても、その帰結としての事象くらいは何となく掴めてきたように思えた。何もかもスケールが違って、とんでもなく派手な世界で、それでいてふいに何もかもが不確かに思える、そんな世界。
(だからあんな夢見たのかもな)
試験前みたいなものだろう。手元の資料をぱらぱらとめくりながら、そんな風に答えを出した。あまり、夢に深い意味を見出したくないのかもしれない――ふいに浮かんだ推測を、素早く思考の外へ放り捨てた。
(何か飲んでから寝よ)
喉の奥に何か絡みついてる感じがする。
食堂に向かおうとして、電気を消す。時計の短針は既に零時をまたいでいて、暗くなった部屋の中、蛍光塗料だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
電気ポットが小さな音を立てている。
樹里が食堂に降りてみると、折り悪く電気ポットは空だった。こんな季節に冷たい水を飲んで寝る気にもならなくて、素直にお湯が沸くのを待つことにした。
カップにハーブティーのバッグをひとつ落として、椅子に腰かける。
そうしてみると手持無沙汰なのに気付いて、スマホを持ってくればよかったなんてぼんやりと考えているうち、食堂の引き戸が静かに開かれた。
音のした方へ顔を向けると、見慣れた佇まいを見つけ、樹里は笑みを投げかける。
「あ、凛世か」
凛世も樹里に小さく会釈を返し、カップを手に電気ポットへと目を向けた。樹里はそれに気付くと、手を小さくひらひらとさせる。
「悪い、もうちょっと待ってくれ」
「はい……」
微笑みかけ、凛世は向かいの席に腰を下ろした。
「まだ、起きておられたのですか……?」
「ん、今度の企画の予習しててさ。そういう凛世はどうしたんだ? 珍しいよな、こんな時間に起きてるなんて」
凛世が両手で包んだカップを小さく掲げる。
「凛世も……同じく、企画の予習を……しておりました……」
「えっと、凛世の担当は確か、星座と、それから……」
「宇宙と人の……文化の関わりについて……ナレーションを……」
「そう、それそれ」
企画書をプロデューサーから渡された時、彼女たちは各担当を自分たちで割り振った。特に智代子が張り切っていて、プロデューサーが提示したプロット案を下敷きに、質問役の果穂と解説役の夏葉をセットで案内役とし、各パートでそれぞれ担当メンバーが出迎える形を提案するなど、中々の名采配ぶりを発揮した。
それからというもの、メンバーは皆それぞれに自分の担当範囲について予習を始めた。凛世の担当は、文化面と一口に言えば簡単だが、夏葉に言わせれば幅広い知識を要求される多面的な分野だ。けれど凛世は、予習も心から楽しんでいる様子で、レッスンや仕事の休憩中にも必ず本を開いていたほどだった。樹里は、そうして本を開く凛世のことをつい目で追っていた。
しおりを手繰り、頁をめくる。ただそれだけの所作が、美しかった。
「今って何読んでるんだ?」
「はい、星座と、その歴史などを……。せっかくですので、もう少し読み進めてしまおうかと……」
はたと気付いた様子で、凛世は時計を見た。
「樹里さんは……もう寝られるところ、だったでしょうか……?」
「あー、いや、特にどうってつもりじゃないけど」
問われて、樹里は思わずそう返していた。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、そうだと答えたら、凛世は、邪魔してはいけないからと早々にこの場を辞するような気がして、それでかもしれなかった。だから続く凛世の言葉は、全くの予想外だった。
「それでしたら……」
凛世が瞳を輝かせる。
「ご一緒に……星を、見ませんか……」
電気ポットが、電子音と共に湯が沸いたことを告げた。
息が白い。
照明の落とされたリビング、窓の向こうに星空が広がる。
二人はカップをタンブラーに持ち替え、毛布にくるまって夜空を見上げていた。深夜、街の明かりは暗がりに薄らいで、いつもは遠い星々も明るく輝いて見えた。
思い返すと、こうやって星空を眺めるのはとても久しぶりだった。街で見る夜空は、地上の灯りに照らされた茫洋と広がる紫黒色の帳に過ぎなくて、その只中に僅かな星々が月と共に儚げに浮かんでいるばかりだった。
「この時間じゃなきゃ、こうは見れないかもな」
「はい……。それに、かように寒き日は……空が澄むといいます……」
「そっか、どうりで」
膝を寄せながら、感心したように呟いた。
凛世は毛布から腕を差し出し、少し顔を寄せて空へと掲げる。
「あちらに……冬の大三角が、ございます……」
「どれだ?」
「見えるでしょうか……。澄んだ輝きを、放っておられる星……あちらが、しりうすにて……」
樹里は凛世の肩に頬を寄せた。白くか細い指先に、青白い光が輝いていた。
「あぁ、あれか! あのすんげー光ってるやつ!」
「はい……。世界各地で……様々な伝説と、結びついた星にて……和名を、暁星や青星とも、申します……」
「へぇ……まあそうだよなぁ。確かにすごく目立つもんな、あの星」
「地球から見ても……太陽の他、いっとう、明るい星です……」
「それから、少し上に、ぷろきおん……右へ下った先に、べてるぎうす……」
樹里は、ひとつずつ星を指し示す凛世の指を――その指こそを、思わず目で追った。
指の先に星が瞬き、夜空を泳ぐ指は星々をなぞっていく。だが、プロキオンは何となくわかったが、その先にベテルギウスが見当たらない。おそらくはそこにあるのだろうが、星々の海に紛れてこれと見分けられない。
「んー、ベテルギウス、っていうのが……よくわかんねーな」
首を傾げる樹里の様子に、凛世も指を迷わせる。
「ここ一年……べてるぎうすは……とに暗くなられたとのこと……。かの淡き赤光が……べてるぎうすに、ございます……」
言われて目をこらしてみると、その先に赤星がゆらめいた。
凛世はベテルギウスが変光星であり、時期により明るさを変化させることも語った。樹里の中には冬の大三角のイメージしかなかったから、他の星の力強さ、それもシリウスの輝かしさを思うと、それと言われなければベテルギウスとは解らなかっただろう。
凛世はそれからも少しずつ星の来歴を語って聞かせた。
ベテルギウスの赤光と比して白きリゲルを源氏になぞらえ、アルデバランをすばるのあとぼしと呼び、当のプレアデス星団――昴にちなむ詩を諳んじる。
星を物語る凛世の横顔は、心なしか自慢げだった。新たな世界への扉を開いて、その扉の隙間から向こうをちょっとだけ覗き見して――そうして時折、幼子のように無邪気な顔をする。
「凛世は、星を探すのが得意だな」
「そう、でしょうか……」
謙遜。あるいは少しの照れに、凛世は頬を赤らめる。
「そうだよ。アタシには同じに見えちまう」
樹里は手をかざし、ゆっくりと閉じていく。指の隙間からあふれ出た星が、変わらずそこにある。
「たぶん、手のひらひとつぶんだって、覚えきれねーよ」
「樹里さんは……」
その手のひらを見つめていた凛世が、そっと問いかけた。
「凛世や皆のことを、忘れたり、なさるでしょうか……」
問いかけに、思わず苦笑いを返す樹里。
「なんだよ唐突に。忘れるわけねーよ。当たり前だろそんなの」
凛世は微笑み、頷く。
「人も星も、同じに、ございます……」
「同じって?」
「凛世も……樹里さんや、皆の名を……縁ある方の名を聞けば……その顔が浮かび、今を想います……」
聞き入る樹里に、凛世は言葉を続ける。
「星に、託されているのは……名ばかりでは、ありません……。星には、ひとつひとつ……物語がございます……道があり、宿りがあり……古来……天と人は、密接に結びついて、おりました……」
あるいは、今よりも深く。
「人が、縁ある方を忘れぬのと同じように……星に縁を感ずれば……おのずと、心に残るものと、存じます……」
「……」
樹里は、凛世の横顔をまじまじと見やりながら、少しして、思わず笑みをこぼした。きょとんとした凛世に、悪いなと手を振る。
「いやなんか、担当パートの割り振りがさ、凛世にピッタリだったなって」
「ふふ……。凛世も……楽しみに、しております……」
「そっか、星とアタシらは同じか……ひとつひとつに、物語があって、運命があって……」
空を見上げて、ひとつひとつの星を見つめる。
「それって、なんかすげーな」
樹里の一言に、凛世が不思議そうに首を傾げる。
「だって、そうだろ。宇宙には無数の星があるんだ。アタシもちょっとかじったばっかだけど、確か、アタシらが知らないだけで、今この時も、宇宙では星が生まれたり消えたりしててるんだぜ」
「無数に……」
「文字通りの、な」
付け加えて、笑った。
「アタシらとアイツらがと同じだとしたら……そうやって、誰かに見つけてもらって、そこから物語が始まるんだとしたら、それってすげーことなんじゃねーかって。そんな気がしたんだよ」
「物語の、始まり……」
言葉を反芻する凛世も、思わず笑みをこぼした。
「凛世は……見つけて、いただけたのでしょうか……」
「……アイツにか?」
「……」
言葉なき肯定。その頬を染める、遠き人を慕う心からの微笑み。
「そっか、そうだな。凛世は見つけてもらったんだな……」
自分ではない誰かのために紡がれる想い。
樹里はそんな凛世を、素直に好ましいと思えた。自分にない感性を備えているのだと。たとえそれが、自分の心をどれほど締め付けるものであれ。あるいはそうした仄かな光にこそ、触れたいと欲せずにおれないのだから。
凛世は顔を上げ、ただ空を眺めていた。
言葉が無かったのではない。言葉は、あった。寄せては返し、凛世をすすいでいる。けれど心に潮が満ちるとき、凛世は、暫し寡黙になった。あふれんばかりのさざ波を前にすると、とても、ひとつを選ぶなどできぬように思えてしまう。心のおもむくまま波を梳く、その一渥だけが言葉となってあふれていく――あるいは、その理を介さぬままに。
「天つ星……道も宿りも、ありながら……」
心が、言葉となって象られていく。
「空にうきても、思ほゆるかな……」
象られた言葉は、白い吐息となって星空に消えていく。
そうなってからようやく。凛世はようやく、我に返った。自らの言葉の意味するところを知った。
「あ……」
零れ出る、追いすがるような声。
耳を傾けていた樹里が、凛世へ顔を向ける。
「なんか、雰囲気あるな。どういう歌なんだ」
あるいはその意味するところを知っていたならば、樹里は問わなかったかもしれない。いや、問うてはならないと自らを戒めただろう。けれど知らなかった。
その問いが、凛世に否応なく自らの言葉と向き合わさせることも、また。
凛世は俯いて、小さな手のひらに包まれたタンブラーを見つめる。ぽつりぽつりと言葉を続けていく。
「空に浮かぶ星に……自らを仮託し……詠まれた歌に、ございます……」
あるいは、詠み人もこんな寒空の星を眺めていたのかもしれない。そのことが心を寒からしめる。そのことも、樹里は気付かなかった。いつもと変わらぬ様子で、凛世が物語るのを待っている。
「そいつは、星に何を託してたんだろうな。もしかしたら――」
「空の星には」
樹里の声を覆うようにして、凛世は続けた。
不意に立ち上ってきた違和感に、樹里は口をつぐむ。
「道も、宿りもあります……星は……自らの標を、知っているのです……。けれど、星は……星の、またたきは……詠み人は……」
か細い赤錆びた刃が、引かれる毎に軋みをあげている。挙句の先にある自らの現し身を傷つけるためだけに、刃が抜かれようとしている。
なぜ自覚できなかったのだろう、その伏せられた心に。
樹里が悪いなどと、言いたくない。けれど、浮かれた。もし自らが星ならば、見つけられたのだと、そうして物語が始まったのだと、そう想えたことに――願えたことに。その心地よい物語に、ふいに身を任せた。
それでも、抱え込んでいたものが消えるものでもないのに。
心憂きこと――不安。
「凛世は――」
声を遮って、何かが凛世を抱きとめた。
刃を引こうとした手を、その柄もろとも掴まれた。
凛世の身体をぐいと力強く引き寄せて、その腕は、自らの毛布を広げた。広げられた毛布は冷たい空気を含みながら、凛世たちを包み込む。
突然のことに驚く凛世の意識を、聞きなれた声が呼び戻す。
「やっぱ寒いな」
「樹里さん……?」
寄せられた肩から、じんわりと熱が伝わる。
「こうした方があったかいだろ」
樹里は笑っていた。寒い寒いと騒ぎながら、凛世を毛布もろとも引き寄せて、その身を預けてきた。ぴたりと隣り合う肩に、樹里は頬を寄せる。月光に照らされたその髪先から、樹里の匂いがした。
「なあ凛世、知ってるか?」
「……?」
「星って、あんなに小さく瞬いてても、実際にはすげー輝きを放ってんだぜ。小さく見えるのはただとんでもなく遠くにあるだけで、瞬いてるのだって、地球の大気がそうさせてるんだってさ」
何を言いたいのか、その意を掴みかねて、凛世は黙ってうなずいた。
樹里自身、自分が何を言いたいのか解っていなかったかもしれない。
それでも樹里は、次へ、その次へと言葉を続けていく。
「小さいなって思ったり、儚いなって思ったりしても、それはアタシらがそう感じてるだけで……情緒もへったくれもないかもしれねーけど、ホントは太陽の何倍も、何十倍も大きかったり輝いたりしてて、何億、何十億年も輝き続けんだよ」
必死に、言葉を手繰り寄せていく。
もっと言葉が欲しかった。凛世を暖められる言葉が。
「そんな星が、何百光年とかって、訳わかんないぐらい遠くにあって……」
解らないままに、ただ、伝えたくて。
だから。
「それでもこうやって、光は届いてるじゃんか」
言って、笑った。
大丈夫だよ。凛世は大丈夫――その言葉を口にしたかは、樹里にも解らない。
凛世はただ、はいとこたえて、変わらぬ微笑みを浮かべた。
お互いに言葉はなく、ただ静かに身を寄せ合う。
凛世の小さな手に自らを重ねた。
ゆっくりと、全身の力が抜けていく。
あの夢は何だったんだろう。星を探す、終わりのない旅の夢。
誰もが、星を探している。無数の輝きの中、たったひとつを。
貴女にとってのそれが私であったならと、そう願う。
「――さん」
まどろみの中、誰かが髪に口付けたように感じて、呼ばわる声に振り向いた。
夢の続きは、見なかった。