「どうっすか、響子ちゃん?」
 響子ちゃんに問いかけてみる。今回のはだいぶ時間がかかった大作で、ガレージにギリギリ入ったキャンパスにはアタシの塗りたい色、描きたいものを詰め込んだ。響子ちゃんにもそれはちゃんと伝わったみたいで、キャンパスの上を何度も往復する響子ちゃんの目はなんとなく輝いてるように見えた。
 本人はアートの勉強をしたこともなかったし上手じゃないって言ってたけど、響子ちゃんの感性はすごくきれいなまるさをしている。尖っていることも、まるいままでいることも綺麗なことなんだって、アタシは響子ちゃんを見て改めて感じたぐらいに。見たものを見たまま、感じたことを感じたまま、ありのままを受け止めてきれいに飾っておけるのが響子ちゃんだった。
そう、だから。
「ね、一番最初に思ったこと、聞かせてほしいっす」
 一瞬だけ響子ちゃんの視線が宙をさまよったことを、
「――すごすぎて、なんというか、言葉になりません……!」
 心の底から出ているらしいその言葉の奥に飲み込んだ何かがあったことを、アタシはどうしても振り払えないでいた。
「――沙紀、さん? 何を……」
「何って、料理っすよ」
「えっ、いやっ、それはそうなんでしょうけどっ!」
 自分ちの台所に立ってるのを心配されるのもおかしなことだけど、うちの台所に立つ時間だけで言ったら間違いなくとっくの昔に響子ちゃんのほうが長くなっていた。
「どうしたんですか沙紀さん、急に」
「アートも一段落ついたんで、ちょっとは響子ちゃんの気持ちになってみようかなって」
「はい、はい……?」
 納得いかなさそうな顔をした響子ちゃん。でも何もウソは言ってないし、隠し事をしてるってわけでもない答えだ。
 あの時に響子ちゃんがなにか言いかけたことの答えを、アタシはなぜか探していた。「言葉にできない」だって最高の誉め言葉だし、それが響子ちゃんの本心だっていうのだって分かっていて。それなのに、もうひとつなにかあったとしたら、それはいったいなんなんだろう。純粋な興味と疑問と、それから少しの申し訳なさ。
「あ、沙紀さんっ」
「大丈夫大丈夫、っと」
 沸騰しきる前にお味噌汁の火を止めて、おたまでひと掬い。よく冷ましてから舐めれば、前に教えてもらった響子ちゃんの味。考えてみたらアタシは吉岡家のお味噌汁より先に五十嵐家のお味噌汁を作れるようになった気がする。親不孝なんだろうか。
「響子ちゃん、味見てください」
 きょとんとしたままの響子ちゃんに、もう一押し。
「一緒に食べるんですから、そりゃ味見はしてもらわないと」
 いつも(アタシの意識がアートにしかない時を除いて)言われてることを使ってみる。響子ちゃんは照れくさそうに笑って、おたまを受け取ってくれた。
「――あっ」
 響子ちゃんの顔がほころぶ。上手くいったらしい。
「アタシとしてはもうちょっと濃くてもいいかもとは思ったんですけど」
「いえいえっ、私はこれぐらいのほうが――」
 声に出せない一瞬の間。まただ、と思った。
「これぐらいのほうがいいと思いますよ?」
 言い直したように聞こえたのも、もしかしたら幻聴なのかもしれない。それぐらい自然に、でも絶対に、響子ちゃんはなにかを回り道した。
「……ん、そうっすか」
 アタシも態度に出さないように笑顔で返して、どうしたものかと考える。響子ちゃんはアタシの感性に、何か言えない隠し事をしているんだろうか。
 アートも、料理も、音楽も。いろんなことを試して、そのたびに響子ちゃんはなにかを飲み込んでいる。その飲み込んだ言葉の検討ぐらいはついてはいるけど、もやもやはもっと大きくなった。
 キャンバスにスプレーを吹き付ける。ぐちゃぐちゃに塗られた青と黄色と緑を、淡いピンクで枠をつけて形にしていく。買った時からどこかで見た色だなとは思ってたけど、使ってみると想像以上に響子ちゃんのイメージカラーと似ていて自分でも笑ってしまった。しばらく、頭の中が響子ちゃんだ。
「沙紀さーんっ、そろそろ……」
「あ、了解っす」
 返事があったことにちょっとビックリしたみたいな顔をして(もちろん冗談だろうけど)、エプロン姿の響子ちゃんがガレージに入ってくる。まだここから先何をするか考えてない、アートのたまごみたいなキャンバスを見て、それでも響子ちゃんは目を輝かせてくれた。
「これ、新しい作品ですか?」
「んーまあ、そうっすね。まだこっからどうするかなんにもっすけど」
 へぇ、と小さく呟いた横顔を見て、アタシは覚悟を決める。
 ――今このタイミングで聞いてみよう。
「ね、響子ちゃん」
「? はい」
「響子ちゃんはこれ、どう思いますか?」
 一瞬だけ、また間が空く。
「素敵だと思います、けど」
「んー……」
 やっぱり、響子ちゃんからその言葉は出てこなくて。
 日常的に聞いていたはずの響子ちゃんのその言葉がなくなってしまえば、いつかアタシが気づくっていうのはわかってるはずなのに。
「響子ちゃん、いっこいいっすか」
 勢いで口から出たその質問に、頭があとからついてくる。
 そしてそれから理解する、そこそこ長い間響子ちゃんのことばっかり考えてたのにアタシがずっとこの質問を口にしなかった理由。それから、響子ちゃんも同じ理由だったらいいなっていう願望。
 ――その言葉を口にしたら、本当にその気持ちがかたちになってしまうから。
「――響子ちゃん、なんで『好き』って言ってくれないんですか」