2021/2/4 01:56ALL I WANT
 ぼんやりと、吐いた煙を眺めていた。
 周囲をアパートや壁に囲まれた裏庭には、女性がひとり腰掛けていた。かつて隣に腰掛けていた者の姿はなく、彼女はひとり、黙って煙草をふかしていた。ベールは解かれて肩に垂れ、褐色の肌からはウェーブがかった黒い髪が溢れている。
 喉が、渇いていた。
 手にした灰皿で煙草を叩き、再び咥える。
 あなたが、もっといい加減な男であったなら、私は、こんな想いを抱え込まずに済んだだろうに。半年が過ぎた。あなたは約束を破るような男ではなかった。守れずとも、決して誤魔化したりしなかった。
 だから――解っている。
 割れたガラス窓に、薄手のベニヤ板が打ち付けてあった。
 一人の青年が、椅子に腰掛けてじっと窓を睨みつけている。二十二、三歳くらいの青年は不満そうに腕を組み、板に覆われた、光差し込まぬ窓を睨みつけていた。
「窓ガラス一枚直せないんだからな」
「仕方ないわ。あそこの工務店は爆弾で吹っ飛んでしまったんでしょう?」
「砲撃だよ」
「似たようなものだわ」
 青年の言葉に、彼女は肩をすくめた。僅かばかり年下らしい褐色の女性だった。ベールできちんと前髪を覆い、落ち着いた所作でカップを机に置く。青年は煙草を銜えた。
「止めてちょうだい、わざわざお茶淹れたのに」
「解ってる。咥えるだけだよ」
 彼女は椅子に腰を降ろして、カップに口を付ける。
「爆弾でも何でも、戦いに巻き込まれたのは一緒じゃない?」
「そりゃそうさ」
 振り返った青年も椅子に腰掛けた。
 彼は疲れた様子で机に肘をつき、もう一度ベニヤ板を見やった。
「なあ」
 そうして、唐突に、
「俺、イタリアに行くよ」
「はい?」
 彼女は呆れたような声を上げて、彼の顔をじっと覗き込んだ。
「ここはこんな状況だろ。大学でも一応イタリア語を勉強していた訳だし、向こうへ行けばもっといい仕事がある。それに……」
 睨み付けるように、窓へ顔を向ける。
「窓一枚直せやしない」
「窓って……」
「俺は、急いてると思うか?」
 眼をため息混じりに伏せる彼女を前に、青年はばつの悪そうな表情を浮かべた。これは反対されるな。そう感じて。だが。
「反対よ。でも、行くべきだわ」
「……妙だな。どっちなんだ」
「どちらかじゃない。両方よ」
 胸を逸らせて、彼女は指を組み頷く。そんな大仰な仕草を作っているのが見えて、どこかおかしかった。矛盾してるように聞こえるが、と問う言葉に、彼女はふっと息を抜き、
「両方なのよ」
 ティーカップの淵を指でなぞった。
「できれば行ってほしくないし、行かないほうがいいとも思うの。けれど……怒らないでね」
「うん」
「このままここに残っても、あなたは腐ってしまうわ。身動きが取れないでいるから……」
「何も大袈裟な理想や夢を掲げたいんじゃない」
 言葉に怒気はなかった。落ち着いていた。
「この一手で何もかもが上手く行くと思っているんでもない。だけど、せめて自分の人生くらい自分で選びたいじゃないか。そりゃ、生きてはいけるさ。けど、それだけだ。ここにいる限り選択肢は無いんだ。俺は何もできないんだぜ、ただただ“そうする”ことしかできないんだ」
「だからって、その理由付けに窓はないわ。窓は」
「だってそうじゃないか。外の景色を眺めることもできない、板なんか打ち付けちゃった窓なんて、窓とは呼べないだろ?」
「馬鹿ね」
 彼女は呆れたように頬杖をついた。そうして一言だけ、
「真面目過ぎるのよ」
 笑って、消え入るような声で付け加えた。
 ここには独裁者がいた。
 彼は俺が生まれるより遥か以前からこの国の独裁者として君臨していた。老人の中には、王国時代と比較して消極的に支持する人も多かったが、俺にとっては、彼は、生まれたときからそこに存在していた人物だ。比較対象は無く、かの存在は不変を象徴していた。
 食っていくには困らなかった。裕福ではなくとも、割れた窓ガラスを修理するくらいは訳無かった。
 けれども、そこから覗く景色は鈍色だった。
 選択肢は二つしかなかった。口をつぐんでおこぼれに預かるか、口を開いて全てを取り上げられるかだ。俺は、前者を選んだ。友人たちのように、この社会のあるべき未来なんかを喧々諤々やりあうという気にもなれず、友人たちが次々と銃を手にする中でも、俺は、彼女の隣でただぼんやりと煙草をふかしていただけだった。
 選択肢が、その二つしかなかったから。
 独裁者は死んだ。
 不思議な感じだった。
 激しい感情は湧き上がってこなかった。友人たちがやっていた戦勝会には、一応、差し入れひとつぶら下げて顔を出しておいた。
「あんなオッサンでも死ぬもんなんだなぁ」
 まじまじと漏らしたその言葉に、友人たちは大笑いしていた。
 けれども窓は、板で塞いだっきり、まだ直せていない。
「持ち出し超過だよ」
 そういって、白髪交じりの小太りな男性は大口を開けた。
 店先には、テレビや冷蔵庫といった家電製品から、彫刻の入った椅子のような家具までが所狭しと並べられていた。
「そんなに?」
「しかもガラクタばかりだ」
 その言葉に、青年は、きまりが悪そうに苦笑いを浮かべた。店主は小さく手を振るう。言ったとて詮無いことだった。当然のことだった。こんな状況だから。
「まぁ、状況が落ち着いて金の巡りが良くなれば、追々売れ始めるさ」
 店主は煙草をくわえた。
「しかし、イタリアな……止めておいたほうがいいと思うがね」
「もう決めたんだ」
「そうか」
 煙草に火が灯る。
「手配はもう済んでるのか?」
「あとは金を払うだけだよ」
「信頼できる奴を選ばんとダメだぞ」
「大丈夫。感じのいい奴だったよ……親父さんは心配性だな」
「タチの悪いのもいるからな」
 丸いお腹が大きく膨らんだかと思うと、口元からは煙が立ちのぼる。扇風機が首を振った。もやもやと糸のようにほつれ漂う煙が、窓の外へと流されていく。青年は受け取った紙幣をもう一度確認して財布に詰め、席を立ち上がる。
 店主は煙で腹を満たしながら、廻る扇風機を見やった。
「俺は……」
「え?」
 足を止める青年。
「親父の仕事を手伝ってるうちに自然と店を継いだんだ。まぁ不満は色々あったが、悪くはなかった。神にも親父にも感謝してる。だから……いかんな、上手いこと言おうと思ったんだが」
 言葉が出てこない。口ひげを歪め、店主は腹を揺らして笑った。
 月明かりに照らされて、幌の張られたトラックが土埃を舞い上げる。
「しかし意外だな」
「何が?」
 ガタガタと揺れる車内、隣の助手席から友人のスレイマンが声を張り上げた。軍服を着ているが、のっぽで、体格はあまり良いほうではない。つい一年前までは詩を書き散らすだけの自称文学青年だった。
 青年の問いに、スレイマンが歯を見せる。
「君だよ。もっとこじんまりと生きていくのかと思ってた」
「どういう意味だ?」
「イタリアへ渡るとか、こんな仕事を手伝うとか、そういうのとは無縁だと思ってたって話さ。僕らが誘っても全然動かなかったじゃないか」
 友人が、青年を肘で小突く。
「そう意地悪を言ってくれるなって」
 思わず口元を歪め、青年は軽くおどけた。
「じゃ、また、どうしてそんな心変わりを起こしたんだ?」
「心変わりがあったんじゃないと思う。ただ……まぁ、お前らの熱気に当てられたんじゃないかな」
「……そういうことにしておくか」
「あぁ、そういうことにしておいてくれ」
 アクセルを踏み込み、町の一角へ車を進めていく。
 友人は助手席で腕時計を見やり、地図を開いて道順を指し示した。道順通りに車を走らせていく。目的地が近づいていることは肌から感じ取れた。手は薄っすらとベタついて、意識的な呼吸が増えていく。
「お前こそいいのか、この武器。内戦ももう終わったっていうのに」
「……」
 スレイマンは、少しばかりの逡巡を見せて、バックミラーへ視線を投げかけた。
「内戦の続きをやろうっていうのではないんだ。ただ、旧政府派だっているし、政府はまだヨチヨチ歩きで頼りにならないんだよ」
「よく解らないな。だって、それじゃ、おまえらの民兵組織は何なんだ?」
「そこだよ」
 割り込むようにして、彼は苦い表情で言った。
「民兵組織は解体しなくちゃならないんだ。治安だってまだ回復していないのに……ようはポーズだよ。解体を進める姿勢は見せるけど、言われるがままに解体していく訳にはいかないんだ。必要最低限の組織は維持しておかざるをえない」
 不満そうに現状を語るその声は、半分も頭に入らなかった。
 それでもおおよそは飲み込めた。よく解らないことにはそう変わりは無かったが。それに古い付き合いだ。みなのことはよく知っているし、彼だって心根の悪い奴ではない。悪意があってやっているのではない筈だ。彼はそう考え、そうして、それ以上難しく考えることを止めて、指定の倉庫へ車を乗り入れた。
 倉庫の中は狭く、電気スタンドがひとつだけ明かりを灯していた。
 トラックに数名の男性が駆け寄ってくる。
「よう、順調か」
 中央の髭面の男性が手を掲げる。
「ええ。ざっと二個小隊分くらいかな。改めてくれますか」
「解った」
 男が指示すると、数名がトラックの荷台へ駆け寄っていく。と同時に、訝しがるような視線が向けられてくる。
「彼は?」
「大丈夫だ、古い友人だよ」
 スレイマンが慌てて手を振る。
 彼に紹介されて互いに軽い挨拶を交わした。男は、荷台からの呼びかけに、裏手へと廻っていった。引渡しは何ら滞りなく済んだ。全員で手分けして荷を運んでしまえばすぐだった。
 淡々としたものだった。
 極秘の裏取引という風でもなく、是非について思い悩む様子もない。
 彼はエンジンのキーを回した。大きな揺れと共にエンジンが軋み、椅子から振動が伝わってくる。倉庫を後にして、一応往路とは別の道を戻る。ぼんやりとハンドルを握っていた。
「なあ」
 ふいに、助手席の友人に声を向ける。
「ん?」
「お前らは、これからどうするんだ?」
「……どうって?」
「身の振り方だよ、いつまでもこんなこと続けようって訳じゃないだろ?」
「まぁ、それはそうだけど……ただ、今まで全てを覆い尽くしていたものが全部崩れてしまったんだ。一年二年じゃ状況は落ち着かないだろうし、三年四年も先のこととなるとね。考えないではないけど」
「大学は? 戻らないのか」
「どう、かな……大学に戻るとしたって、モラトリアムって言うのかな、こうしているうちに終わってしまうよ。目的意識持たないと、戻っても続かない気がして」
 詩の勉強はもういいのか――彼は、喉まで出掛かった言葉を、ぐっと飲み込んだ。そうではない。この友人も本気だったのだ。これこそはと、これならば全てを打ち込めるのではないかと想いを寄せた。どうしようもなく、そうせざるを得ずに、全てを叩き付けざるをえなかったのではなしに、“これならば”と思ったのだ。
「そうか、そうだよな」
 あるいは生きていかねばならない。
 現実に押し潰されたのだとは思わない。友人は自分の意思で選んだのだと彼は考えた。少しばかり、寂しくはあったが。
「いっそシリアにでも渡ろうかな」
「なんだ、向こうで春の続きをやるのか」
 友人の呟きに、顔をしかめる。友人はおかしそうに笑った。
「父さんを黙らせる大義名分がいるね」
「イスラーム復興主義?」
「汎アラブ主義なんてのもある」
「干乾びてるぜ」
「そうでもない。大叔父さんなんか一回りも若返ったみたいだよ」
「血の気の多い一族だな」
「否定できないね」
 そこで止めてくれとの言葉に車を寄せた。友人が懐から紙袋を取り出し、差し出す。
「それじゃ、約束の金」
 受け取って中を確認した。約束より多かった。
「僕からの餞別だよ」
「……餞別か」
 彼はじっと、紙袋から顔を覗かせるリラ紙幣を見つめた。
「悪いし、受け取れないよ……って。格好付けたいところだけどな」
「やせ我慢はするものじゃないね」
「あぁ。ありがたく貰っておくよ」
 胸ポケットに封筒を突っ込む。助手席のドアを開いて、スレイマンはその細い腕を伸ばした。彼の手を取り、ぐっと握り締める。
「ひとつ借りかな」
「そうだね、また十倍にして返してくれればいいよ」
「よし、そうなることを祈ってくれ」
「……それじゃ」
 車から飛び降りた彼は、軽い敬礼交じりに挨拶を投げて寄越す。同じように挨拶を返して、アクセルを踏んだ。人影は、サイドミラーの奥へ、奥へと次第に小さくなっていった。
 あいつは銃を取った。俺は銃を取らなかった。
(何が違ったんだろ)
 変化を望んでいたことは確かだ、おそらくは。二人とも。それでも違う結論を選んだ。あいつらはより積極的で、自分は受動的だったということだろうか。そうではない、という気はする。
 けれど、この選択肢は前々から存在していた。
 彼らが銃を手にするか否かに関係なく。
 それなら、何故、自分はこれまでこうしなかったのだろうか。小さなことに悩んでいたのか。理由を求めて、ただ鬱々と考えるばかりだったのか。行動を起こすべきだったのだろうか。結果なんて考えずに。細かなことに囚われずに。
「どうしたの?」
 彼女の声に、はっと顔を上げた。
 空はオレンジ色をしていた。
 裏庭。二人は勝手口の階段に腰掛けていた。ぼんやりとしていたせいか、煙草の灰が二センチほど伸びていた。
「いや、ちょっと考え事がね」
「ふうん」
 また悪い癖が出た――彼女は苦笑いを飲み込んだ。考えたところでそうそう答えの出ないような問題を、それも結論を出したことまで悶々と考えるのは彼の悪い癖だと思う。
「マジメなフリするのだけは上手いんだから……ダメよ。あんまり考えすぎちゃ」
「解ってるよ」
「それにあなた、そんなに頭だってよくないんだし! ただでさえ少ない処理能力だもの。余計なこと考え過ぎると、処理落ちするわ」
「そんなに言うことないだろ!」
「今もぼんやりしてたでしょう?」
「……」
 押し黙るのを見て、彼女は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。彼はふて腐れたようすで煙草の灰を落とし、ぷいと庭へ眼をやった。ややして、彼女はとんと、肩にもたれかかった。
「はい。お金」
 ぐいと、布袋を押し付けられた。
「……どうしたんだ、お金なんか」
「父にねだってやったわ」
 電気技師の彼女の父の、酷く不機嫌そうな表情が脳裏に浮かんだ。いつでも不機嫌そうな顔をしていた。挨拶に伺ってもうんとかすんとしか答えない男だった。
「いい? これはお土産を買う為に預けるのよ」
 彼女はおかしそうに肩を揺らす。
「お土産かぁ。買う余裕あるかな、暫くは生活で一杯一杯だろうけど」
「そうよ。だからこのお金を生活費に充てて、仕事見つけて。そしたらたんまり稼いで豪勢なお土産を送るの。約束よ」
「怖いな。だんだん借金が膨らんできた」
「もっと楽しいことを考えましょ」
「楽しいことか……」
「楽しいことよ」
 わきの日陰に寝転がっていた猫へ指を伸ばす。
 裏庭の主は面倒くさそうに上体を起こしたが、彼女がチョッカイを出して来ただけと解ると、興味無さそうに再び寝転がった。尻尾を触ってもぴんぴんと跳ねさせるばかりで、それ以上じゃれる様子もなく、無視して暑苦しそうに寝返りをうった。
「無愛想なヤツ」
 夜の海岸線を、月明かりが照らしていた。
 青年は手荷物ひとつを手から提げ、彼女は、紙袋と水筒をずいと差し出した。伏し目がちに差し出されたそれを、彼は黙って受け取った。
 少し離れた場所にはトラックが一台。傍らには運転手らしき男が煙草を吹かして携帯電話を弄繰り回していた。メールを操作し、時計を見やって、ちらりと二人へ視線を投げる。
 携帯をぱかぱかと開閉する音が海岸に響いた。
 彼女がぴくりと肩を揺らす。
「不思議ね。いざ寸前になると行かせるのが嫌になってきたわ」
「……もう行くよ」
 その言葉に、彼女は口元を結ぶ。
 溢れ出そうになったものを、ぐっと堪え、眼の奥に飲み込んだ。耐え切れなかった。青年はくるりと背を向けて足をずいと前に突き出す。がくりと、袖が引かれた。
 反応する間もなく、ぐいと引き寄せられる感触があった。
 彼女は青年の身を引き寄せながらつま先を伸ばし、その背に、耳元に口を寄せる。
「忘れないで。お土産のこと」
「……あぁ」
 頷いた。
 体がふっと軽くなって、青年は歩く。
 ようやくといった体で運転手が煙草を放り、靴でもみ消した。青年がトラックの荷台に乗り込んだのを見て、運転席についた。エンジンの始動音と共に、排気口から黒煙がのぼる。
「……」
 何か考えようとして、やめた。
 何も頭に思い浮かばなかった。いや、色々なことが脈絡もなく頭に浮かんできて、うまく考えられなかった。何を考えようとしているのかさえ、よく解らなかった。
 トラックはゆっくりと走り始めた。
 弱ったな。何が弱ったのかは、よく解らないけど。
「行ってらっしゃい!」
 大声に、はたと顔を上げた。他の同乗者たちが、慌てて幌の外を覗き込む中、彼もまた、ワンテンポ遅れて、同乗者たちを押しのけるようにして身を乗り出した。
 彼女はその口元に手を当てて、丸っこい瞳を少し潤ませて、一際大きな声で叫んだ。
「行ってらっしゃあいっ!」
「サニーヤ……」
 その名を呟いた。
「必ずだ……必ず迎えにいく 約束する!」
 その声は遠く遠く掻き消えて、彼女の耳には微かな響きだけが残った。笑っていた。迷いを振り切ったのか、考えることを止めたのか。何もかも上手く行くとは限らない。保障は何も無い。それでもいい。それでいい。そう決めたんだ。
「ぐず……」
 トラックの姿が見えなくなってから、鼻をすすった。
 堪えていたものを飲み込んだせいだろう。鼻から出たんだ。それだけだ。
 彼の住んでいた部屋には、暫くして別の借り手がついた。
 愚痴の多さは相変わらずだけど、古道具屋は忙しそうになった。スレイマンは父親と大喧嘩してレバノンへ飛んだ。私の父はあなたの名を口にしなくなった。あれっきり姿を見せなかった裏庭の猫は、子供を連れて現れた。私は隠れて煙草を吸うようになった。
 表通りから、あの部屋を見上げた。
 窓を塞いでいた板は剥がされ、新しい窓ガラスと交換されていた。