洗濯機に脱ぎ捨てたホットパンツを放り込もうとしたとき、チャリ、と甲高い音が聞こえた気がして、多田李衣菜は手を止めた。何か突っ込んだままだったかといくつかポケットをまさぐって、探し当てたのは数十分前まで一緒にいた前川みくの合鍵だった。
 しまった、返すのを忘れていた。
 一週間にも及ぶ、彼女の家への宿泊から帰って来たところだった。仕事はほとんど一緒に入っていたが、終わりまでいつも同じとは限らなかったし、時には早引けするようなこともあった。そのためか、りーなちゃんも鍵があった方がお互い楽にゃ、と意外にもすんなりとみくは共同生活の初日から李衣菜に合鍵を貸してくれた。
 何から何まで好みの合わないみくとの共同生活は、何かひとつ行動するにも大騒ぎで――それこそ食事からテレビのチャンネルから、シャンプーリンス歯磨き粉の種類に至るまで!――忙しいことこの上なかったが、……かと言って辛かったかと言えばそうでもなかった。
 いや、どちらかと言えば、楽しかった、気、さえ、……する。
 先程仕事を終え彼女と別れて帰宅したときは、なんだか名残惜しいような気までしてしまったぐらいだった。無論おそらくきっと間違いなく、一時の気の迷いに違いないが。
 ともあれ、合鍵は明日会ったときに返せば良い。そう決めてしまって、李衣菜は鍵についての思考をそれきり打ち切った。
 *
「病欠? みくちゃんが?」
「ええ、そう聞いております」
 プロデューサーが図体に似合わぬ小さな動作で、こくりと頷いた。
「えー……じゃあ、今日の仕事は? みくちゃんいないのに、どうしたら」
「今日はレッスンだけですので、多田さんだけでできるところまでお願い致します」
「うーん……分かった、まあ、一人でレッスンってのもロックだよねー……」
 もごもごと呟きつつプロデューサーに頷いて見せ、李衣菜はレッスンへと向かった。
 みくは真面目な少女だ。猫耳に猫語という目立つキャラ付けをしてはいるが、その根はアイドルという仕事に対して真摯すぎるくらいひたむきだ。
 となれば、仮病ではないだろう。軽い病状なら押して出てきそうだ。それなりに辛い症状が出ているものと、思われる。
「……一人暮らしなんだよね」
 李衣菜が寝込めば、母がお粥を作ってくれた。冷やしたタオルで汗を拭いてくれた。身の回りのことは、心配する母が代わりにやってくれていた。だが、一人暮らしのみくには寝こむ彼女の世話をしてくれる人はいない、はずだ。
 ひとりぼっち、か。
 無意識にポケットに突っ込んだ手が硬い何かに当たった。取り出してみると、――みくの家の合鍵だ。
 そうだ、今日会って返そうと思っていて……でも結局、病欠で会えなかったわけで。となると明日、明日になったら治っているんだろうか? あまりそのままにしていると、ずるずる返すのを忘れてしまいそうな気もしてしまう。
 しかし、会えないものはどうしようもない。はぁ、と溜息を吐いて李衣菜は合鍵をポケットに戻そうとして――いや待て、ここに合鍵が、ある。
「サプライズって、ロックかも……」
 誰にともなく、そんなことを呟いた。
 *
 体調管理には人一倍気を付けていたつもりだった。それが、この、体たらく。
 前川みくは自宅のベッドで布団にくるまりながら、ぐるぐると同じ場所を巡る思考に身を任せていた。アイドルとして病気で休むなんて、いや体調が悪いときは休むのも仕事のうち、そもそも体調管理に気をつけていれば休む必要なんて、だけど崩れてしまったものは休んで立て直すしか、でも最初から崩さないようにするのがアイドルというもので――
 朝計った体温は三十七度八分、平熱よりは高いが高熱と言う程でもない、熱だけなら仕事に出れないこともないが、こうくしゃみと鼻水が止まらないのでは仕事にならないだろうし、でも無理すれば出れなくもなかったわけで、いや無理して質の悪い仕事をするなんてアイドルとしてあるまじき、いや、いや、いや
 朝からずっとこの調子だった。
 寝ているのか起きているのか自分でも判然とせず、熱のせいか思考も上手くまとまらない。
 つらい
 朝こそ様子を見に来てくれていた同じ寮の面々も、今は各々仕事に出てしまっていて、みくを看病してくれる人はいなかった。それが当然だ。それぞれやるべきことがあるのだから。だが、こうして体調が悪い時に頼れる人がいないというのはなんというか、どうにも、やっぱり、心細く、
「……さびしい、な」
「え、何? どうかしたの?」
「ひゃあっ⁉」
 自分以外誰もいない――と、思っていたところに、突然聞こえた誰ぞの声。みくは思わず飛び起きた。
「あ、ちょ、まだ寝てなきゃ駄目じゃん。熱あるんでしょ?」
「熱どころの話じゃないにゃあ! なんでりーなちゃんが家にいるにゃ⁉」
 ビシッと人差し指を突き付ける。その指の先には、きょとんとした顔でベッドの傍に座っている多田李衣菜の姿があった。
「なんでって、合鍵で入ったから」
「あっけらかんと言ってんじゃにゃいッ‼」
「具合悪いなら騒がないほうが良いと思うよ?」
「誰のせいだと……ッ!」
 と、そこまで言ったところで、みくは目眩を感じてベッドに倒れ込んだ。
「……うぅ……りーなちゃんのせいで、風邪が悪化したにゃあ……」
「ひどいなあ。せっかく看病してあげようと、レッスン終わってからわざわざ来たのにさー」
 りーなちゃんが、レッスン終わってから、わざわざみくの看病をしに……?
 みくは一瞬息を呑んで――それから、李衣菜に背を向けもぞりと布団にくるまった。
「……頼んでないにゃ」
「あーはいはい、そーですかー」
 投げ捨てるような言葉と、わずかな衣擦れ、遠のく足音。あ、待って。本気じゃなくて……ホントは、ホントは
「え?」
 気が付くと、李衣菜の服の裾を掴んでいた。頬が紅潮するのを感じる。な、な、な、何をしているにゃあ、みくはっ!
 李衣菜はそんなみくの様子に微笑を浮かべ、やんわりと彼女の指を自分の服からどかした。
「大丈夫、帰んないから」
 そう言いながらみくを改めてベッドに寝かせ、布団を被せる。
「ゆっくり寝ながら、待ってなよ」
 頭を撫でる李衣菜の手がなんだかとても暖かく感じられた。ゆるゆると心までほどけていくような感覚に包まれながら、みくはただこくりと頷いて。そのまま眠りへと落ちて行った。
 *
 李衣菜ちゃんが看病に来るなんて、変な夢を見たな。
 覚醒してすぐ、焦点の合わない思考の中で、ぼんやりとそんなことを思いつつ体を起こした。
「んうぅ……」
「あ、起きた?」
「ひあっ⁉」
「……私って、そんな一々驚かれるほど? さすがにショックなんだけど」
「だ、だって……、……。……ごめんなさい、にゃあ」
「あはは、冗談だって」
 ひらひら手を振りながら李衣菜が笑う。どうやら夢ではなかったらしい。本当に彼女はみくの看病に来て、その上みくが起きるのを待っていてくれたようだ。……あの、李衣菜が。
「お粥作ったんだ。食べるでしょ?」
「え……りーなちゃんが作ったの?」
 看病に来て、みくが起きるのを待っていてくれて、しかも、お粥まで作ってくれていた、らしい。
 驚いて目を瞬かせるみくに、李衣菜は半眼で言った。
「何、別に変なものなんて入れてないよ?」
「そっ、そういう意味じゃないにゃ! 食べる、食べるにゃ」
「そ? じゃあ、持って来るね」
 ぱたぱたとキッチンに消える李衣菜の背を見つめつつ、みくはどういう風の吹き回しだろうか、とぼんやり考えていた。
 嬉しくないのかと聞かれれば、……嬉しい。だが、あれほど喧嘩した、反りの合わない相手なのに。みくならば、できるだろうか? 李衣菜が風邪で寝込んだ時に、同じことを、何のてらいもなく。
「はい、熱いから気を付けてね」
 答えが出る前に李衣菜が戻って来た。ベッドの上に呆けて座るみくに耐熱皿を渡そうとして――はたと、
「あ、冷ましたりして食べさせてあげた方が良いかな」
「いっ、いらないにゃあ! 自分で食べられるからっ!」
 叫ぶように言葉をぶつけて、みくは李衣菜から耐熱皿をひったくった。耐熱皿は思ったほどは熱くなく、どうやらきちんとみくが火傷しない温度を考えて温めなおしてくれたようだった。本当に、いつもの李衣菜とは思えないほどに、気が利いていて。みくは何やら心がもやもやと揺れるのを感じた。
「ちょっと言ってみただけだって、そんな全力で拒絶しなくてもさぁ」
「うううるさいにゃ! りーなちゃんに『あ~ん♡』されるのなんて、断固として、お断りにゃあッ!」
「な……わ、私だって、別にやりたくないからね⁉ てか、さっきのも本気じゃなかったし!」
 売り言葉に買い言葉、ふん、とそっぽを向く李衣菜を見て、みくは何故か少なからぬ罪悪感を感じていた。
 先に変なことを言ったのはあっちなのに、何でみくがこんな気持にならなきゃいけないの……。
 ぐるぐると心の中で渦巻く言葉を押し込めて、みくはお粥を一さじ、口に含んだ。口の中を火傷しない程度に温められたお粥は、控えめな塩気が風邪の体にも受け入れやすく感じられて、ほのかに利いた生姜の風味がそれをさらに引き立てるようで。
「……おいし」
「本当? 良かったー」
 みくの“思わずこぼれた”という風な、小さな呟きを聞き逃さずに拾って、李衣菜は破顔した。
「お粥は作ったことなかったからさ、レシピは一応調べたんだけど、不安だったんだよね。ちゃんと上手くできたみたいで、安心したよ」
「え、わざわざ調べて作ってくれたの?」
「まあ、そりゃ、お粥なんて作る機会そうそうないし。何も見ずには作れないじゃん」
「そう……だよね」
 みくは視線を耐熱皿に入れられたお粥に戻した。李衣菜がみくのために、レシピを調べて作ってくれた、お粥。みくの、ために。
 ――あたたかい。
 そう感じたのは、ただお粥の温度だけではないだろう。
 *
「じゃあ私、そろそろ、帰るね」
 李衣菜がみくにそう告げたのは、みくがお粥をほとんど食べ終えて、体温計で調べた彼女の熱がだいぶ下がっていることを確認したときだった。
「えっ、もう帰っちゃうにゃ?」
「もうって、そろそろ夜だし、あんまり遅くなったらお母さん心配するし……」
「あ……」
 李衣菜は実家暮らしだから、あまり遅くまでここにいることはできない。親も心配するだろうし、夕食は家で食べるつもりで、自分の分は何も作っていなかった。それに着替えも持って来ていないから、そもそも泊まるわけにはいかないのだ。
 だが、李衣菜に帰ると告げられて、急に針で突かれたような顔をしたみくを見て。食べきって空になった耐熱皿を握りしめ、わずかに俯くみくの横顔を見てしまって。李衣菜は何故か、悪いことをしているような気になった。
「……え、えっと、お粥はまだおかわりあるから、お腹が空いたら温めなおして食べてね。それから……あっ」
 李衣菜はポケットに突っ込んだままになっていた、みくの部屋の合鍵を取り出した。今の今まで忘れていた。――これが、本題だったのに!
「あ、と! あの……これ、みくちゃんの部屋の合鍵。ごめん、返すの忘れちゃってて……」
 そう言ってみくに合鍵を差し出す。チャリチャリと金属部分のこすれる音が、妙に甲高く響いた気がした。
 みくは数秒、ぼんやりとその鍵を見つめて、ゆっくりと頭を振った。
「それ、りーなちゃんが持ってて良いにゃ」
「えっ……そういうわけには」
「その代わり」
 ふふん、と悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。
「明日もみくの看病に来るにゃ!」
 その、なんとも自信満々な態度が妙におかしくて。李衣菜はつい、吹き出してしまった。
「なっ……なんで笑うにゃあ⁉」
「い、いや……ごめん。うん、明日も来る。明日も……」
 言いかけて、そこで言葉を止めて。不思議そうにこちらを見つめる“相棒”の顔を、正面から見据えて――李衣菜は言葉をさらに続けた。
「明日だけじゃなくて、これからも。来て、良い……かな」
 何でこんなに緊張しているのか分からない。ただ女同士で部屋に遊びに行くか行かないかという話で、何を、そんな、おおげさな。だが、緊張するものは仕方ない、のだ。
 みくは李衣菜の問いに、やや上目遣いに彼女を見返した。
「良いにゃ。……李衣菜ちゃんのご飯、美味しいし。また、作って欲しい、にゃ」
 ぼそぼそ呟いて、たえ切れないというように視線を外す。彼女のその様子を見て、李衣菜は胸の底からふつふつと、楽しさというか嬉しさというか、そんな熱い感情がこらえられないくらい湧き上がって来るのを感じた。
 その感情の波に押し流されるがごとく、李衣菜は真っ直ぐみくの瞳を見つめたまま、コクリと頷いた。
「うん、作る。次は、次は――ハンバーグ、作りに来るから」
 立ち上がり、李衣菜はそっとみくの髪に触れた。そのまま、くしゃりと頭を撫でる。
「また明日、ね!」
「また明日、にゃあ!」
 二人分の笑顔が、少女の部屋に明るくはじけた。
 *
 それは、親友未満の二人が互いに踏み出した、最初の一歩。
 いつか二人が触れ合うまでの、ほんのささやかな始まりだった。