2021/10/30 23:35レッド・レッド・ペレニアル
「美琴ちゃん? それが気になるの?」
 水を湛えた硝子みたいな声で私の意識は朝目覚めてから二度目の覚醒を迎える。その透きとおった声音の持ち主は知り合いのスタイリストで、口元に少し笑みを浮かべながら私の顔を見つめていた。
 それ、とはなんだろうか。知人の顔を見つめ返したところで答えはわかりっこないだろうと思ったけど、彼女がくるりと翻した視線を追うことで、予想に反して私は『それ』の正体に辿り着くことができた。
 赤い花。燃えるように真っ赤な花を咲かせた、一枚のマキシワンピースだった。近づいてよく見てみれば、黒地の上に細やかな刺繍によって描き出された花々は今にも動き出しそうに——花が動くわけなんてないのにね?——有機的で、こちらに何かを訴えかけているような奇妙なエネルギーを秘めているように思えた。
「んーとね、それは×××の去年の秋冬。自分じゃ気づいてないかもしれないけど、ずうっと見てたんだよ? 心奪われたように、っていうか——」
「——そうなんだ」
 どうやらうっかり気を抜いてしまっていたのもお見通しらしい。ごめんね、せっかく時間作ってくれたのにと伝えると、彼女はふるふると首を横に振る。
「美琴ちゃんのぼんやりはぼんやりじゃないけどねー。姿勢綺麗すぎ、体幹強すぎ! 普段からステージの上に立ってるみたい」
「——……そんなことはないよ。立っているだけじゃ、ステージには上がらせてもらえないから」
「……そっか」
 ともかく、と知人が言葉を続ける。
「これ、似合うと思うよ! 私からもオススメしちゃう。美琴ちゃん、いつも『あなたの選ぶものなら』って言って何でも着てくれるけど、美琴ちゃんからこういうのが着たいっていうのはあんまり教えてくれないでしょ。だから今嬉しくって!」
「そう? ……そこまで言ってくれるなら」
 人懐っこい笑顔に釣られるように私の頬も自然と緩む。軽やかな動きでワンピースの掛かったハンガーを手に取りながら、彼女は私の目をまっすぐ見てこう言うのだった。
「だってこのお花、ちょっと美琴ちゃんに似てるんだもん」
 *
「————あ」
 事務所の扉を開けた瞬間、ふわりと花の香りが私の顔を撫ぜるようにすり抜けていく。思わず声が漏れ出たけど、この事務所の玄関は常に鉢植えの何かしらの草花で彩られているから、今さらその匂いに驚いたというわけでもない。
 あの赤い花のワンピース。薦められるがままに受け取ったけど、自分でもどうして目を吸い寄せられたのかは結局よくわからなかった。だけど今、この香りのおかげで思い出せたことがある。
(……私、あの子の言ってたこと、ずっと気にしてたんだ)
 この事務所ではしばしばアイドルたちが花の水やりをしている姿を目にするけど、その中でもひときわ植物たちに向き合っていることが多いあの子。レッスン室に向かう私を見つけると、いつも必ず『いってらっしゃい』を言ってくれる子。こないだ顔を合わせた時に、ここでは花の水やりもアイドルの仕事なのかと聞いてみた。彼女は少し怪訝そうな顔をしていたし、得られた答えも明瞭なものではなかったけど、その後かけられた言葉は今でも印象に残っている。
 ——美琴さんの好きなお花も……いつか、教えてください……
 確か名前は、幽谷霧子ちゃん。ゴシックな衣装が目を引く283プロ屈指の人気ユニット・アンティーカの最年少メンバーだ。
 正直に言って、私には花のことはよくわからない。上京してからずっと、どうすればステージの上に立てるのかということだけを考えて生きてきた。歌と踊りでみんなを感動させられるアイドルという夢を見つけてからは、それを一心不乱に追い続ける日々。自分のことで精いっぱいだから花の面倒を見る余裕なんて持てたためしはなくて、283プロに来てからもそれは変わらないはずなのに、鼻をくすぐるこの香気は妙に私の心をざわめかせて仕方がないのだ。
 だから、まずはあの子に花の名前を教えてもらうところからはじめよう。私に似ていると言ってもらえた、あの赤い赤い燃え立つように咲く花の名を。刺繍の花が枯れることはなく、袖を通すたびに何度だって咲き誇るのだと思うと、私の胸は不思議と焦げ付くようなせつなさを覚えるのだった。