2021/2/4 01:48死がふたりを別つまで
 桜に死生観を最初に見出したのは誰なのだろうか。
 彼女は桜の木を見上げた。澄み渡った空の下、桜の花は、太陽の光を浴びてきらめき輝いていた。
 今日は気分が良い。黒い長髪が風に揺れ、眼を細めて深呼吸する。久々に外の空気を吸った。春の香りだ。彼女はジーパンとシャツにジャケットだけを羽織ったラフな格好で、がっしりとしたカメラを手にしていた。自然な所作でカメラを掲げ、静かに、しかし確かな姿勢でシャッターを切る。
 世界が輝いて見えた。
 全てをこの眼に焼き付けておきたかった。何一つ見逃すまい。桜の色、太陽の光、風の香り、遠く街の喧騒、アスファルトの感触、そして、君の姿。
「おーい、みづきー」
 振り返って、その名を呼んだ。
 呼ぶ声に、少女がひとり、ひょいと振り返った。水月と呼ばれた少女は、その身に似合わぬ大きな日傘を差して、丈の長いワンピースにカーデガンを羽織っていた。
 覗き込んだファインダーの中、少女はカメラに気付き、傘を持ちあげた。ワンピースに似合わぬキャスケット帽から、白い髪の毛がはみ出ている。ぱちくりと藍色の眼をしばたかせて、ぱっと笑顔を咲かす。そしてその口元には、白く鋭い犬歯がまるで牙のようにちらついていた。
「……」
 合図は出さなかった。合図抜きで一瞬を切り取る自信があったから。
 電子音と共にシャッターが走る。自信と共に私は顔を上げる。水月はまた傘を目深に差し、とことことこちらへ駆け寄ってくる。私は少しばかり背を屈め、画面を操作して今切り取ったばかりの一瞬をそこに写してみせると、その出来栄えに満足そうに笑った。
 私は、もうじき死ぬ。
 治せないそうだ。
 雪原楓は、ぽかんと口を開いて、ぼりぼりと頭を掻いていた。一方で、マヌケ面を晒している彼女に比べ、そう告げた医師は、無念そうに口元を結んだ。生真面目そうな医師だった。ともすると、医師のほうが辛い思いをしていたのかもしれない。
「……はあ」
 医師の丁寧な説明を前に、そんな言葉しか返さなかったような気がする。医師は色々な言葉を並べたが、専門用語を丁寧に噛み砕くその努力は、彼女にはあまり大した意味は無かった。医師は最後に、延命措置を望むかどうかだけ問うたからだった。
 答えは、すぐに出た。
「ねえ、二人で撮りましょう」
 水月の言葉に、楓は顔をしかめた。カメラを覗き込んでいた水月の体を抱えて、カメラを掴む腕をぐいっと伸ばした。これでいい写真は撮れない訳だが、止むを得ない。ちらと水月を見やると、少女は白い頬を朱に染めながら、心弾ませた様子で楓の身体にその身を寄せた。そんな様子を見せ付けられては嫌とは言えない。
 楓はカメラをできるだけ離しながら、凡その検討を付けて自分たちに向けてシャッターを切った。
「家に帰ったら、プリントしていい?」
「いいよ。好きなだけ」
 答えは、すぐに出た。
 だから私は、今、ここでこうしていられる。
 日は傾き、黄色い光が横合いから地を照らし始めていた。
「今日天気よかったねー」
「そうね」
 先を行く水月の言葉に、楓は小さく頷いた。水月にはとても嫌な天気だったろう。私に合わせてくれているのだと、楓は思わず笑みを漏らした。申し訳なさや感謝の意は浮かんでこず、ただ少女の振る舞いに好意を抱いた。
 幾つかの路地を曲がり、古びたアパートに足を踏み入れる。
 鍵を差し込んで扉を開くと、部屋の中は真っ暗だった。部屋の窓には分厚く、窓を覆うほどの大きなカーテンが日光を遮っている。台所の窓にも板が張られ、大きな採光口は全く残されていなかった。
 部屋の壁には沢山の写真が貼られていた。
 大きなものから、小さなものまで。額縁に入れられたものもあった。艶やかに彩られた作品が多かった。
「ふう」
 部屋の真ん中に来ると、彼女は帽子を持ち上げた。
 ぱさりと髪が広がる。ぐいと背伸びすると共に、背からは黒い靄が伸び、それは液体となり、やがて蝙蝠のような翼を形作る。
「やっぱり我が家が一番だな」
 彼女はぐぐぐっと腕を伸ばし、首をもたげた。
「楓は平気?」
「少し疲れたかな」
 答えて、片足立ちに靴下を脱ごうとした楓の身体がぐらりと傾いた。飛び跳ねるように身を走らせた水月が、その身をそっと支える。
「大丈夫?」
 心配そうに覗き込む瞳に、楓は肩をすくめた。
「ちょっと無理しちゃったわね」
「……とりあえず横になろ?」
「そうね」
 支える肩から手を離し、楓は改めて布団へ歩いて行った。崩れるようにして座り込み、布団の上へ大の字に寝転がった。数回深呼吸をした。身体は酷く重かったが、気分はどこか心地よかった。だからだろう。服を着替えたり、カメラを眺めていたり、そうこうしているうちに、彼女は静かに寝息を立てていた。
「夕飯は……ん?」
 寝息に気付いて、水月は声を潜めた。忍足で楓に近づき、服を少し直してから布団をかけた。
「……うん」
 再びそろっと隣を離れ、台所に立った水月は腕の袖をまくった。決して彼女を起こさぬように、静かに、ひたすら静かに。鍋に湯を張り、雑炊をこしらえ、魚の切り身を煮――その手際はこなれたもので、一分の隙もない。少女は料理を終えると調理器具を水につけたままこれには手を付けず、洗濯物を畳みはじめた。
 八畳一間。シャワー、トイレ付き。家財は少ない。
 アパートの契約者は楓。元々身軽に広く使うことを好む性だ。私物は撮影機材ばかりで他は少なく、服の種類すら少ない。こうして畳んでいても、シャツとジーンズばっかりだった。その身体から生活から、何もかも全て、全く贅肉を感じさせなかった。
 全てを、彼女は生の全てを賭けていた。
 あらゆるものを捨て、あらん限りをつぎ込んで、想い焦がれた魂の拠り所へ、生の全てを賭けて至ろうとしていた。
 であるのに。
(何故……?)
 眠る楓に問いかけて、水月はその寝顔を覗き込んだ。頬をついと突くと、寝ぼけた彼女が身をよじった。肌蹴た布団をかけなおそうと腕を伸ばして、水月は、ふいに動きをとめた。眼下の楓をじっと見つめる。ゆらめくような仕草で、ゆっくりと顔を寄せた。
 顎の稜線にそって鼻を滑らせる。
 耳元に鼻を寄せ、首筋に臭いを嗅ぐ。
「ねぇ、楓……」
 消え入りそうなほどか細い声で、そっと囁く。静かな寝息を聴きながら、水月は、ぐっと喉を伸ばし、その口に牙を覗かせた。どこか逡巡を感じさせる動きで、水月は首筋に牙を寄せていく。そうして、やがて牙は楓の首筋に、ゆっくりと――
「……」
 ふいに、眼が覚めた。
 夜だろうか。外の光が入りにくいようになっているこの部屋では、明るさから咄嗟には判断が付かなかった。楓はぼんやりとした瞳で隣へ視線を投げかける。隣では、水月が洗濯物を畳んでいた。スタンドだけが淡い明かりをその頬に射している。
 楓は静かに、少女の澄んだ横顔を見つめていた。
「……あ、起こしちゃった?」
 視線を捉える水月。
「いや……」
「ご飯食べる? 食べるなら暖めてくるけど」
「うん」
 楓は頷いた。畳み掛けの服を置いて立ち上がろうとした水月を制して、その名を呼んだ。
「水月」
「……なに?」
 動きを止めて、問い返す。楓は水月の瞳をじっと覗き込んでいたが、やがて、ぽつりと、事も無げに言った。
「私はこのまま死ぬわ」
 眉ひとつ動かさぬ水月。だが楓は、そんな水月からも微かな衝動を感じ取っていた。
「人間は必ず死ぬ。私は、私自身の運命に逆らってまで生きる気はないわ」
「楓……」
「永遠の命を生とは呼べない」
 答えかけた水月を制して、まぶたを閉じた。穏やかにな笑みを口元にこぼして、楓は言葉を続ける。
「生と死は対の鼎。互いに相対立しながらも、互いを必要としている。生がなければ死はその意味を失い、死がなければ生もまた、酷く緩慢なものになってその意味を失うわ。限り有るからこそ、一瞬、一瞬に全てをぶつけられる」
 口元を結ぶ水月。
「ね。要は……メリハリが大事ってこと」
 水月は何も答えなかった。
「……怒った?」
 楓が笑う。水月は目を伏せた。怒るわけなんかない。私は、そういうあなたにこそ、心惹かれたのだから。
 二年ほど前だった。
 私はいつものように大きな日傘を差し、どこへ向かうとでもなく歩いていた。日差しが暑く、どこかで涼みたいと思っていた私は、ふと、ギャラリーの立て看板を見つけた。
 展示内容にはさして興味は無かった。
 なんの展示かすらまともに読まず、私は、照りつける日差しに追い立てられるようにふらふらとギャラリーに足を踏み入れた。それは、一にも二にも冷房目当てだった。入れば腰掛くらいあるかと期待してのことだった。
「……ふー」
 扉を潜ると、冷たい風が吹いてきた。
 ようやく生き返った心地だった。私は日傘を畳みながら、記帳もしないで、椅子を探してずんずんと奥へ進む。
(写真か……)
 歩きがてら、ちらと展示物を眺めた。
 はたと、足が止まった。
 ぱちぱちと瞬き、写真をじっと見つめる。普通の写真のようだが――ひょいと、隣の写真へ視線を転じた。そちらはコラージュ写真らしく、色彩に光があった。
「……」
 順繰り視線を転じていく。技術はまだ拙かった。にも関わらず、私は、貪るように次々と求めた。笑顔、景色、空、植物、被写体は様々ながら、どれもが眩しいほどに輝いて、静かに、拒絶に彩られていた。遠い。何もかもが。そこに被写体は存在せず、写真に写されていたのは、私自身の視線だった。
 微かな衝動に、胸が鼓動する。
 辺りを見回した。髪を後ろ手に束ねてカチューシャをした女性が、椅子に腰掛け、ひとり静かに文庫のページをめくっていた。
(彼女だ)
 直感した。
「いい写真だったわ」
 暗い夜道。水月の言葉に、楓が振り返った。
「……あー」
「さっき、ギャラリーで。あなたでしょう?」
「あぁ、ありがとう」
 街灯の明かりが消えていた。暗闇の中に、白い姿がぼんやりと浮かび上がる。楓はゆっくりと向き直った。畳んだ日傘を手に、カジュアルな服装で、帽子からは白い髪が流れている。特段おかしな姿ではない。にも関わらず、彼女は、少女からまるで現実味を感じられなかった。
「あなた……なに?」
「ん?」
「人間、じゃないよね?」
 無意識に口を突いた。
 少女は、ひょいっと首を傾げた。
「く、くくく……」
 おかしそうな笑みを思わずもらして、水月は口元に手を当てた。そうして、くっと背筋を伸ばした少女が、ゆっくり、一歩を踏み出した。暗闇の中、少女の背後に何かが見える。
 翼だ。
 蝙蝠に似た黒い翼が、揺らめき広がっている。
「……」
 楓は、無言でそれを見つめた。
「ええ、そうよ。よく解ったわね」
 水月は帽子を外し、頭を振るった。白い髪が暗闇の中にふわりと広がり、開かれた瞳は蒼々と輝いている。にっと微笑んだ口元から覗く牙に、楓は息を呑んだ。
「あなたの作品、とても興味深かったわ。好きよ、私は」
 無言の楓を前に、水月はとうとうと言葉を投げかける。
 ゆらりと舞う仕草と共に、まぶたを閉じて作品を脳裏に思い描き、少女はすっと指を差し出す。その仕草は、やや幼くも見える外見に似合わずどこか芝居がかっていて、また、少女自身もそれを楽しんでいるふうであった。
 ずずずとにじり寄る闇が、辺りを圧倒しはじめる。
「けれど、まだ拙いわね。幼さが残ってるわ……それで、どうかしら。あなた、悪魔と契約する気はない? 我が名は水月。誇り高き――」
 暗闇の中に、シャッター音が響いた。
「……」
 楓がカメラを構えていた。
 水月はぱちりと目を開き、楓をじっと睨みすえる。楓はカメラを構えたまま姿勢を崩さず、ファインダー越しに水月を見つめていたが、やがて、きょとんとした表情で顔を上げた。
 その表情に、ますます鋭さを滲ませる水月。
 が、当の楓はその鋭さなどまるで意に介さず、にこりと笑った。水月の眉間にしわが寄る。
「何してるの」
「ん?」
「吸血鬼よ。きゅ、う、け、つ、き。少しは驚いてよ」
「あぁ……えっ?」
 眉を持ち上げる楓。どこか一呼吸ズレている。水月は不愉快そうに額へ手をやった。中指を眉間に添え、薄っすらと、どこか物憂げな色を瞳にたたえて、細く長い溜息を吐いた。
「ふー……」
 嘆息がすうっと消え入る。
 額に指を添えたまま、水月は顎をもたげて胸を張り、
「全く。ありえぬ振る舞いだわ。我ら貴き夜の眷属を――」
 再び、シャッター音が響いた。
 ぎょっとして振り返る。やはりカメラを構えている楓を前に、水月は唖然とした表情でいたが、やがて、ぽかんと開いていた口をきゅうっと結ぶと、顔を真赤に染めた。
 三度、シャッター音が響いた。
 とうとうぷるぷると肩が震えだし、拳を握り締め、口先を尖らせてキッと楓を睨みつける。
「あなた、失礼なひとね」
 トドメとばかり、シャッター音が響く。
 カメラからふわりと顔を上げて、楓は照れくさそうに笑った。
「えぇ、知ってるわ」
 アパートの玄関を開いて、水月が姿を現した。
 彼女は小さなレジ袋を片手に提げてい、鍵を閉めるとそれを床に置いた。ポケットから通帳を取り出す。水月は、順繰りにそれを眺めて、眺めた順に全てゴミ箱へ放った。続けて数枚の千円札と小銭を取り出すと、それを机の上にそっと置いた。
「……」
 無言でそれを眺める。
「づき……」
 微かな声に、がばと髪を振るった。
「どうかした?」
 声を掛け、すっと楓の傍らに寄る。
「水月……」
 唇はひび割れ、喉は掠れ、名を呼ぶ声に力は無い。頬や眼孔はやつれ落ち窪んで、土気色の肌には、痣のようなものも浮かんでいる。
「ごめん……ちょっと、喉渇いて」
「少し待ってて」
 先ほどのレジ袋からスポーツ飲料を引っ張り出して、コップに注いだ。とんぼ返りに振り返ると、肘を突いき、引きずり上げるようにして身体を起こす楓がいた。無理しないでと言いながら身体を寄せ、その身を支える。肩に掛かる髪にかつての艶やかさはなく、その身にしがみ付く手にもまるで力はない。
「ありがと」
 ゆっくりと慌てず、こぼれぬよう、ゆっくりとコップを口元に傾ける。
 ぐっと喉を下した楓の顔が苦痛に歪む。二度、三度と飲み下して、彼女はぐいと顔を背けた。
「げほっ!」
「大丈夫?」
 慌ててその背をさすった。楓は小さく頷きながら、ぜいぜいとむせ返る。
「薬を……」
「いい」
「でもっ」
「いいから!」
 その鋭さに、びくと肩を震わす水月。楓は、激しく暴れた喉を落ち着けるため、呼吸を整えて深く息を吐いた。胸元を手で押さえ、開いた涎を視界の中に眺めながら、ようやく落ち着いた喉ですっと息を吸う。
「ごめんね」
 微かな笑み。
 けれどもその笑みは、どこか皮肉めいていた。
 再び布団に身を横たえて、彼女はぼんやりと水月の顔を眺めた。
「喀血でもあれば格好がつくんだけどね」
「……」
「もし喀血したら、飲む?」
「バカ!」
「あはは……」
 小さく笑い、楓はゆっくりまぶたを下ろした。
 身体を動かす度に、まるで、身体中を攪拌されたかのようだ。眠っていた痛みが起き出して、あちこちをズタズタに引き裂いて踊り、行列を作って楽しげに練り歩く。いい気なものだ。私の身体だぞ、もうちょっと遠慮ってものを――夢か現実かもよくわからない。浅く細切れに睡眠と覚醒を繰り返すような状態なのに、意識だけは意外と明瞭で、それだけに、却って苦痛ばかりが激しさを増していく。
 喉はろくにものを通さない。シャワーや着替えは無論のこと、トイレひとつ一人では満足に済ませられず、細切れの睡眠と覚醒は現実感を失わせ、自己を虚実定かならぬ状態に押し込めてしまう。
「……」
 水月が寂しそうな表情で、楓を見つめていた。
「ねえ、水月」
 掠れる声が漏れる。
「私は幸せだったわ……水月と一緒に過ごした時間は、十分過ぎるほど幸せだった。二年半……楽しかった。多分、運命だったんじゃないかな……」
「運命?」
「……私は死ぬ。夢は叶わない。だからせめて、最後の数年間に……水月が……」
「やめてよ」
 うな垂れ、ぽろぽろと涙をこぼす水月に、楓は申し訳なさそうに笑い、静かに口をつぐんだ。ねえ、泣かないで。私を安心して死なせて。私は自分の意思で全てを受け入れたのだから。私は死が為に死なねばならぬのではなく、生き切ったのよ。生と死は対の鼎で――
 楓は眼を閉じた。
 隣に水月を感じながら、ゆらめき、すうっと眠りに落ちた。
 私の愛したあなたは、自由だった。
 眼を開く。おそらくは、まだ夜だろうか。
 どれほど眠っていたのかは解らない。数十分だったような気もするし、まるで数日はこんこんと眠ったような気もする。まるで生まれ変わったようにスッキリとした気分だった。
「……」
 ふいに、違和感を感じた。
 痛みも倦怠感も、まるで感じない。何ヶ月もついぞ経験していなかった感覚だ。意識が覚醒すると同時に、楓は、布団から跳ね上がった。唖然とする眼はその焦点がまるで合わず、思考は鋭く回転して、疑念を切り刻む。開いた掌を見やり、ぐっと握り締めた。掌に血が通っている。激しい鼓動が胸に重く響き渡る。
 かの気配が隣に在った。
「水月ッ!」
 思わず叫んだ。
 毛を逆立てんばかりの形相で、ゆらりとその気配の主へと顔を向けた。
「あなた、まさか……まさか。まさか。まさか!」
 言葉を繰り返す口元に、鋭い牙が覗いていた。
「どういうつもり?」
「……」
 これまで、彼女から一度たりとて感じたことのない怒気が立ち上っていた。水月は、伏せたままの瞳を上げることができなかった。
「水月、私をひきずりこんだな⁉ 信を違えた……私の意志をまるで無視した。こんなこと……永遠の生などまるで望んでいないことを、私がこれまで、どれほどッ!」
 生と死は対の鼎だ。永遠に続く生は、生ではない。死も訪れず、不自由極まりなく、そこに賭けられるものは何もない。
「何故このまま死なせなかっ――」
 頬を張る鋭い音が、部屋に響いた。
「った」
 ぐらと身体を揺らす楓。水月は蒼い瞳を暗闇の中浮かび上がらせて、目尻に涙を浮かべながら、楓を睨んだ。
「私が……」
「……」
「私が、この数ヶ月……どんな気持ちで生きてきたと思ってるの」
 微かに震える、消え入りそうな声。
「あなたは、そんなもの、何百年も続く停滞した時間の中の数ヶ月だと見なすかもしれない。軽々しくも」
 ぐっと、息を呑んだ。
「だけどね……何十年生きても、百年以上生きても、今この瞬間は、永遠に訪れないのよ。たとえ永遠の時間があろうとも、全ては一瞬の連続なのよ……いっそ、あなたが一瞬で命を断たれたのなら、耐えられたかもしれない」
 けれど。
「楓には生を選ぶ道もあった……」
「なッ! それは――」
「黙って聞いて!」
 しんと、時が止まる。
「死と運命を受け入れることなんか、決して自由な選択じゃない。あなたは不自由を、強制された自由を、自らそう望んだわけでもないのに、自分自身の意志であるかのように振舞っただけ。死に酔って、自分の人生を演出して誤魔化していただけよ。緩慢な死を選ばされた挙句に、目の前に転がってる死を拒むなんて。
 なに気取ってるの。馬鹿じゃないの……そんなもの。強制された自殺のようなものじゃない……」
 楓の顔にさっと赤みが差す。
 怒気か。あるいはまた。
 水月は大粒の涙をこぼしながら、口元を噛み締め、小さくかぶりを振った。
「理解してもらおうなんて思わない」
 ぽつりと、言葉を繋ぐ。
「これは強制よ。生を強制する。それは殺すことと同じかもしれない。けれど、これが私の意志よ。私はあなたに強制する。あなたには生きてもらう。あなたの死なんか認めない」
 両の拳が、楓の胸に振り下ろされた。
 そのままずるずるとへたり込む水月の拳が、微かに震える。
「あなたの言葉を借りるなら、あなたはこうなる運命だった……これは運命なのよ。あなたは。死ねずに、生きることを強制される運命にあったのよ……」
 私は――
「……」
 楓は心の中に言葉を捜した。そこには何も無かった。この感情は何だろうか。涙は溢れずとも、まるで、何年分も涙を流したような気分だった。胸に押し付けられる水月の額に、自然と、その背を抱いた。翼の付け根があった。
「水月……ひとつだけ違うわ。これは運命じゃない」
 私は、何を言わんとしているのだろう。
「これは水月が望んだコトだ。水月が自由にしたんだ。ただ君が、私という拘束を振り切って自由になったんだ……本当だよ。そう思う」
 言葉の溢れるままに呟いた。
 私は、激しているのだろうか。どうしてそう呟いたのかも解らぬまま、瞳を閉じた。
 己の背に、翼の広がりを感じた。
 腕の中で水月が声をあげた。
 衝動的に、その肩をより強く抱いて、彼女の白い髪の中にその顔を埋めた。彼女の鼓動を感じて、堪えきれず、情けなくて、悔しくて、不甲斐なくて、何も考えられぬまま、ひたすら彼女を強く抱きしめた。
 頼む。泣き止んで。
 私はただ、ただ、あなたを泣かせたくなくって、それで――