2021/3/6 01:31時と場合と世界観
とある街の宿屋。夜更け過ぎ、窓を叩く雨音に包まれながら、ランタンの明かりを頼りにペンを握り――日記の内容に四苦八苦している灰色の髪の美しい少女は、一体誰でしょう?
そう、私です。
「…イレイナさん、煮詰まってる?」
「…まあそんな所です…」
もう脳みそは薬品並みにドロドロです。
お風呂上がりのアムネシアさんが気遣うように微笑みます。「今日も、のんびりした日だったもんね」
記憶がリセットされる彼女ですらそう口にしてしまうのも、無理はありません。それというのも、そもそもこの町でもうやることはないのです。現在アムネシアさんの故郷である「信仰の都エスト」について調べている私たち。街にやってきて1日かけて情報を集め、この街も空振りだったということで結論付けました。一泊程度は考えていましたがーーしかし。季節柄の豪雨によって足止めを食らってしまい、私達は意図せずこの街に数泊することになったのでした。
滞在するなら満喫すれば問題なしでは?とお思いでしょうーー観光をしようにもお金を稼ごうにも、とにかく雨の強いこと強いこと。外出なんてもってのほかです。痛みすら覚えるほどの雨粒に晒されて濡れ鼠になりながら、まだ空きのある宿を選べたところまでは良かったのですが。宿の店主さん曰く、この天候は数日降ったらパタリとやんでまた降って…の繰り返しだそうで。
つまり、訪れるその切れ目を待つほかない。
手持ちがあることだけが幸いでした。およそ一週間程度の周期ということで、早くも今日が滞在5日目になります。早ければ明日にでも雨は一旦止むそうですが、その前に尽きそうなのは私の脳みその文章のストックです。
「もういっそあることないこと書けば?」
「捏造じゃないですか」提案の初手からなんてこと言い出すんですか。
私の半眼に、だよね、とあっけらかんと返すあたり本気じゃなさそうで。アムネシアさんにとって文章の真偽はかなりセンシティブな話題でしょうに…。
「あ、じゃあ雨音でも聞いてみる?で、それを採譜するの」もはや日記ですらない。
「…音楽の造詣とかあるんです?」「…あるのかな?」
でしょうね。
アムネシアさんが適当な事しか言わないので私はため息を一つ、会話を打ち切ります。内容が浮かばないのも煮詰まってる原因ですが、それに関連してモチベーションがないことも問題でした。
「…書きたいってならないんですよね…」
いやもう、本当にぐうたらしてるだけだったので。書きたいとは思ってるんですよ?ええ。嘘じゃありません。しかしもう本当にフカフカのお布団がそんな私の意思も覚悟も溶かしてしまうかのよう。
今日も、日がな一日疲れを搾り取るように寝ていました。5日目なのに。平和国ロベッタに戻ったときの将来が不安になります。まあ今しても仕方のない心配ではありますが。
「そういえば」ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせていたアムネシアさんが指を立てます。
「今日、酒場の店主さんと挨拶したけど」
「ほう」私が惰眠を貪ってる間に随分活動的でらっしゃる。
「料理に行き詰まったときは感想をもらうに限るって言ってたよ。それでやる気が出るし、改善点も方針も分かるって」
「……」つまり?
「はい」差し出される手。「イレイナさんの日記、私が読んであげるよ」「シャラップ!」「いたい!」
私の指が的確にアムネシアさんのおでこを打ち抜きました。
何を言い出すのかと思えば。
「いいですかアムネシアさん、私的な日記は他人にホイホイ読ませるものではありません。もしも、万に一つも読ませるとするならその場合は明日のあなたに名乗る前に読ませますから」
「それ何かしらのハラスメントとかだと思う…」明朝、謎の日記を読まされて混乱するアムネシアさんが浮かびます。
いえしませんけど。そもそもそんな読み間違いがきっかけで起こったトラブルを、私は、忘れていませんしね。
「…うーん、なら…全く知らない人に日記を見せて評価してもらうっていうのは?あ、今からじゃ時間がかかっちゃうか…」
「……」
「うーん…」
取るに足らない発案だと思ったのか、そのままアムネシアさんは熟考されてしまいましたが。なるほど。実現は難しそうですが。
もし、『リアルタイムで書いた匿名の日記を』『匿名の誰かにすぐ評価してもらえたのなら』――それは確かに。
少なくとも、モチベーションや意欲には繋がるかもしれませんね――おやおや、これ、何かこう…上手いことできたらもしや何かしらのチャンスに…?
「イレイナさん」
気づけば、じっとりとしたアムネシアさんの目が正面に。「よからぬこと、考えてない?」
「…お風呂入ってきます」
そそくさ逃げ出す私でした。