ヒーローに、なりたかった。
     *
 とぼりとぼり、歩き慣れた坂道をひとりで歩く。ヒーローはこんな姿を見せないけれど、私が手に持っている紙は変身ベルトじゃないし、かつてのアーマーも今は部屋のクローゼットにしまい込まれている。妹も弟も居ない私のランドセルは、もう三年も日の目を見ていない。私がただの小学生でいられた時から、三年が経っている。──私がヒーローに憧れていたときから、三年の、月日が。
 三年の間に、私の一人称は「私」になって、マメ丸も子犬とは呼べないくらい大きくなって、着る服は私服からかわいいチェックの制服になったし、進路なんてものを考えなくては行けなくなった。てっきり成りたい夢を書けばいいものだと思っていたけど、どうやらそれではいけないらしい。小学生の頃、「ヒーローになりたい!」と書いてはなまるを貰った将来の夢は、今でも私の部屋に飾られているのに。
「……第一希望、……。……」
 十三歳はまだ、ヒーローに憧れることが許された。
 十四歳になると、「誰しも通る道だから」と笑われた。
 そして、十五歳になってしまうと、「そろそろ真面目に考えなさい」と言われてしまうらしい。級友たちも今年ばかりは真剣な顔で机に向かっている。──受験って、こんなに大変なんだ。ちょこ先輩と樹里ちゃんがウーウー唸りながら勉強を教えてもらっていた姿がふと蘇る。大学受験、っていうのは、高校受験よりも大変らしい。まあ、まだ三年は先のことだ。──そんなふうに考えていたから、今こうして悩んでいるのかもしれないけれど。
 ちょこ先輩も樹里ちゃんも、難なく……って言うのはふたりに失礼かもしれない。とにかく無事大学に合格して、今はキャンパスライフを満喫しているらしい。ふたりの翌年に受験だった凛世さんも、そのまま東京の大学へ進学している。ご両親を説き伏せるのが一番の難題だったそうだ。
 ──みんな、どんどん進んでいく。
 私が、私だけが、今もあの頃の〈放課後クライマックスガールズ〉に取り残されている。
「……向いてる未来、と同じくらい、…………」
 明日に向かって歩くのは怖くなかった。だって、みんなが横にいてくれたから。一番年下の私をリーダーにして、周りを支えていてくれたから。──それは、今も変わらないのに。年齢が変わったからと言って、放クラの仕事量が減ったわけじゃない。むしろ、大学生になった三人は今までよりも自由な時間が増えていると聞いた。実際、私抜きでレッスンをしていることもたくさんあるらしい。……当然、わざと仲間外れにしているわけなんかじゃない。私は中学生、それも受験のある年で、四人はすでに大学生以上。使える時間に違いが出るのも当たり前だった。
 ──そう。三年前に大学生だった夏葉さんは、去年に大学を卒業している。私は、それが、──それが、ひどく怖かったことを覚えている。もしかしたら、実家に帰って、社長令嬢として過ごすのかと。もう、放課後クライマックスガールズは、解散しなくちゃいけないのか、と。
 けれど、そんな心配は杞憂も杞憂で、夏葉さんはアイドルを続けてくれた。「まだ世界一になっていないもの!」と豪快に笑ったあの人なら、きっとこの進路希望調査票にだって堂々と「ヒーローになる」と書けるのだろう。
 ──そんなことを、考えていたからだろうか。突如鳴り響いたクラクション音に肩が跳ねる。もしや事故になる寸前だったかとあたりを見回せば、──見間違えるはずもない。あの人によく似合う、真っ直ぐな、白。駆け寄りながら、なぜだか紙は後ろ手に隠した。
「果穂じゃない! 学校帰り?」
「夏葉さん、こんにちは。えっと、私はそうですけど、夏葉さんは?」
「私はこれからレッスンでもしようかと思って。樹里たちもいるそうよ。果穂も乗っていく?」
「あっ……えっと、その、」
 行きたかったけれど、これから進路希望調査票を書かなきゃいけない。……クラスで唯一、私だけが出せていないこの紙を。家に置いておけばいいのに、白紙でしかないこの紙を、どうしてだか意味もなく持ち歩いている。……そんなことで、自動的に埋まってくれるわけもないのに。
 いっそ、事務所に行って樹里ちゃんたちの高校を聞くのがいいかもしれない。第一希望もそこにしてしまおう。そこならきっと、楽しめるから。そう思って夏葉さんの誘いに乗ろうとすれば、彼女は険しい顔をしていた。
「あっ、あの、夏葉さん?」
「……ねえ、果穂。なにか嫌なことでもあったのかしら」
「えっ……ど、どうしてですか」
「なんだか元気がないように思えて」
「……嫌なこと、じゃなくて」
 そう。嫌なことじゃない。嫌なことでは、ないはずなのだ。これだって、みんなみたいに行きたい高校と、やりたいことを書けばいい。それだけだ。……それだけなのに。それでも、私は。
「果穂」
 そんなことを考えながら俯いていると、夏葉さんが名前を呼んでくれた。まっすぐで、あたたかくて、やさしい。私はこの人の声が好きだった。
「この後、時間はあるかしら? ──ドライブをしましょう」
     *
「わぁ……!」
「ふふ、いいところでしょう?」
 あれよあれよという間に連れてきてもらったのは、海の見えるドライブコースだった。ちょうど日が沈む時間だったようで、橙色の夕日が青い海を染め上げている。本当に、すごく、きれいな光景だった。
「よく来るのよ。時間帯もばっちりね」
「はい! ありがとうございます、夏葉さん!」
「……うん。やっぱり、元気いっぱいのほうが果穂らしいわね」
 眩しそうに目を細めた夏葉さんがそんなことを言って、私の頭を軽く撫でた。──この距離が、随分と久々に思える。恥ずかしさもあったけど、それよりも嬉しさのほうが勝っていた。
「……私、進路に悩んでいるんです。……自分が何をしたいのか、わからなくて」
「あら。果穂はヒーローになるんでしょう?」
「……それじゃ、駄目なんです。ちゃんと高校とか、そういうのの名前を書かないと」
「ふぅん。……ねえ果穂。少し、聞いていてね」
「? はい」
 夏葉さんの手が頭から離れて、寂しい、と思うのもつかの間。夏葉さんは両手をメガホンのように口に当てて、海に向かって大きく叫んだ。
「わたしはっ! せかい、いちになるー!」
「……っ!」
 どこまでも届きそうな大声が辺り一帯に響き渡る。ぱちくりと夏葉さんのことを見つめれば、彼女は無邪気な笑みを浮かべた。
「ほら、果穂も」
 促されて、海を目前に立ち尽くした。彼女のように手を口に当てて、叫ぼうとする──なにを、どうやって?
「…………、わたしは、」
「そんなんじゃ届かないわよ」
「!」
 見よう見まねでやってみても、私にはどうしたって弱々しい声しか出せなかった。見とがめた夏葉さんの鋭い声が胸に刺さる。
「なにを、……何を言えば、」
「そんなもの、ひとつしかないじゃない。……いいのよ、果穂。宣言しなさい。世界中の誰よりも大きな声で。貴女の成りたい、貴女だけの夢を」
「っ──!」
 がむしゃらにガードレールまで走って、その白い鉄に体を押し付ける。お腹が押されていたかったけれど、そんなことをお構いなしに、喉が壊れるほどに叫んだ。
「あたしは‼ 小宮果穂は‼!」
「ぜったいぜったいっ‼ 正義のヒーローに、なる‼‼」
「……ええ。なりなさい、果穂。私がずっと、見ていてあげるから」
「──っは、はーっ、はっ、……あ゛あ゛あ゛……、っ、」
 訳も分からずに涙が出たから、全部全部、貴女色の、あの綺麗な夕焼けのせいにした。