平原の中を、一台のモトラド(注・二輪車。致死薬剤を散布しないものだけを指す)が走っていた。木も川も道もない平原を、モトラドは滑るように走っていた。
細身の運転手は黒い防寒ジャケットを二本のベルトで身体に括り付けるように着て、時折風に身体を震わせながら器用に草と凹凸で滑る平原を進んでいた。ヘルメットとゴーグルの隙間からは、長く青い髪が二房溢れていた。
モトラドが運転手に言った。
「ねえ飛鳥ちゃん、ホントにこの先に国なんてあるの?」
飛鳥と呼ばれた運転手は答えた。
「そもそもこっちに進もうと言ったのはシキだっただろう」
「あれ、そだっけ?」
飛鳥は溜息をついた。視界は見渡す限りの緑だった。
「兎に角、丘から周りに何かないか見ることにしよう」
「さんせーい♪」
飛鳥は右にハンドルを切って、体重を思い切り右に寄せた。草の上をシキのタイヤがけたたましい音をたてながら滑った。
「ちょっと、飛鳥ちゃん? アタシに何かあったらどうするのー? そもそも仕返しの仕方がちょっとアレじゃなーい?」
飛鳥は既にヘルメットをしっかりと被り直していた。
「緑だな」
「緑だね」
丘の上からどうにか見つけた灰色のものを目指して30分ほど走ると、ほとんど蔦に覆われた外壁の下へ辿り着いた。
「人いるのー? ここ」
「入ってみないと分からないさ」
飛鳥は辺りに入国審査用の窓口がないか確認して、それが無いことを認めると門を探した。
ちょうど外壁を四分の一周ほどして入口を見つけると、飛鳥はモトラドから降りて周囲を警戒するように見回しながら門をくぐった。
入口の門をくぐりきり、小さな広場に出たところで頭上で機械が蠢き、そこから音声が流れ始めた。
『ようこそ旅人さん! 観光ですか、商業ですか?』
「観光だよ」
『何名様ですか?』
「一人と一台。出来れば部屋にモトラドを入れられる宿があるといいんだが――」
『滞在予定は何日間ですか?』
「……三日だ」
「やーい飛鳥ちゃん無視されてるー」
「うるさい」
飛鳥がメーターを小突くのと、機械が元あった場所に戻っていくのはほぼ同時だった。
『入国は許可されました、ごゆっくりどうぞ』
「……完全に自動だったな」
「まあ、楽なぶんにはアタシ達は困らないからいいんじゃない?」
飛鳥はモトラドをふたたびゆっくりと押し始めた。
「人、いないね」
「ああ」
飛鳥は生返事をして、もう一度辺りを見回した。入口から続く大通りを進んでいった先にある中央広場に飛鳥とシキはいた。広場の噴水には蔦が生い茂っていて、水は枯れていた。
「んでもってさらに不思議なのがー、家はキレイってとこなんだよねー」
シキが呟いた。住宅街らしい建物たちには蔦も埃も見られなかった。飛鳥はもう一度周囲を見渡してから、大きく息を吐いた。
「これじゃあ情報は得られそうにないな」
「それどころか今日は野宿かもねー?」
飛鳥は噴水に腰掛けた。それを咎める人はいなかった。住宅街はどこまでも静かだった。
「廃墟の街、か。全部が自動化されたせいで、街は自分が死んだことすら気付かない」
「まあそんなこと言ってもベッドは出てこないんだけどねー」
「シキ、縁起でもないことを言わないでくれ」
溜息をついて、飛鳥は立ち上がった。足を動かさないと情報は得られないという判断だった。
「それにしても大通りを真っ直ぐ行って住宅地とは、無計画な宅地化だな」
「なんにも考えてなかったかー、この建物が元はお店だったかじゃない? ま、それにしても全部閉まってるのはおかしいけどさ」
「前に行った全てが機械で自動化した国のように個人で店を出す必要が無くなったか、住宅地のような姿をした店を置いて全国民が消えたか、か。どちらにせよボク達のすべき事は変わらない、人かベッドを探すだけさ」
暗くなる前に西に向かおう、と呟いて、飛鳥はシキのグリップを握り直した。
ホテルが見つかったのは夕方になってからだった。受付は、入国の時と同じように機械が自動でやってくれた。部屋はどこも空いていて、部屋代はべらぼうに安かった。
飛鳥はロビーから一番近い部屋を選んで、機械が反応しないからとモトラドを部屋に持ち込んだ。
「いいのかにゃー、飛鳥ちゃん」
「言われなかったのだから問題はないさ」
扉の傍にモトラドを寄せると飛鳥はシキのスタンドを立てて、それからコートを脱いでコート掛けに放り投げた。コートは掛からずに手前に落ちた。
「やーい」
「……うるさい」
飛鳥はシキに背を向けて椅子に腰掛けると、太腿に巻き付けたベルトからナイフを抜き取りはじめた。シキは床に落ちていくナイフの一本一本の入手元と長さを呟いていた。シキは暇だった。
飛鳥はナイフの本数が間違っていないことと錆が出ていないことを確認すると、ナイフの山の中から三本を抜き出した。飛鳥のお気に入りの「オーキッド」「シトラス」「トワイライト」と名付けられたその三本のナイフを飛鳥は両腿のベルトと枕の下に一本ずつ仕込んで、残りはシキのトランクの中に纏めて仕舞った。
「アタシ、別にナイフ屋じゃないんだけど」
「奇遇だな、ボクも違う」
それだけ言うと、飛鳥はベッドに倒れこんだ。夕焼けは、最後の一片が外壁の向こうに消えようとしていた。
「着替えなくていいのー? クサいのヤなんだけどー」
「明日どうにかする、走り通しで疲れたから起こさないでくれよ、頼むから」
「飛鳥ちゃんも大変だねぇ、モトラドは寝ないで済むし疲れないのに」
「ボクとしてはキミが寝ないでいられるということの方が不幸だと思うね」
白いモトラドを一瞥してから、飛鳥は壁を見る方向へ転がった。
部屋の中には、すぐに寝息が響き始めた。
アスカは、夜明けの少し前に目を覚ました。日課の素振りと手入れをしようとして、まだ日が昇っていないことに気付いてやめた。
それからアスカは視線をベッドサイドに移して、見慣れない少女がそこにいることに気がついた。
「……ふわぁー……」
「……おい、志希」
「にゃははー、外歩いてたからつい声かけちゃった」
「親でもいるなら誘拐だぞ…… ……しかし、ということはそもそも、彼女はこの国の住人なのか?」
「んー、そうみたいだね? アタシ、ちっちゃい子と話すの好きだけど得意じゃないし」
「……のりもの、しゃべってるー……」
少女はそう言って、目を二、三度瞬かせた。一人と一台は暫く黙って、小声で話し始めた。
「この辺りでは珍しい、ということだろうか」
「わかんないよー? そもそもこの国の技術レベルから考えて、乗り物が無いっていうのは考え辛いでしょー?」
「……喋らないモトラドがあるんじゃないか?」
「むしろアタシはそっちを見たことないから何とも言えないかにゃー」
太陽の光が東の窓から差し込むと、少女は眩しそうに目を細めた。朝だった。
「……それで、キミはこの国の人なのかい?」
「こずえはー、ここで、ぱぱとままとくらしてるのー……」
「どうやらこの国は亡びてはいなかったようだな」
「んじゃあ、なんで他の人が出てこないかーなんだけどー」
シキは暫く呻ってから少女に尋ねた。
「ねえねえキミ、アタシに声かけられる前ってなにしてたのー?」
少女は斜め上に視線を移した。部屋の中に沈黙が流れた。たっぷり十秒かけてから、少女は口を開いた。
「……ふわぁー……」
飛鳥は溜息をついた。既に三十分はこの調子だった。
「整理しよう」
「整理するほどの情報、あったっけ?」
「うるさい」
飛鳥はモトラドを軽く小突いた。
「……彼女は、この街で暮らしていて、年齢は十歳、名前はコズエ」
「ブロンドに碧眼、これだけちっちゃいと人形みたいだよねー?」
「……ふわぁー……」
「……それと、どうやらとても眠いらしい」
もう一度飛鳥は溜息をついて、自分の目線の下にある少女の頭に触れようとした。その瞬間だった。
ジリリリリ、と窓を揺らすほどのけたたましい音のサイレンが少女から発せられた。飛鳥は跳び退いて少女から離れ、窓と扉からも距離を取った。シキは楽しそうにしていた。
「なになに、飛鳥ちゃんタイホー?」
「やめてくれ、ボクは触ってもいない」
「……? なんの、おとー……?」
睨み合いは、部屋の扉が勢いよく開かれて女性がひとり入ってくるまで続いた。
「旅人さんでしたか、コズエがご迷惑をおかけしました」
血相を変えて部屋に飛び込んできたその女性は、少女を見つけると自分のもとに引き寄せた。
「その子の――」
「母です」
「ん、それじゃあこの国にはちゃんとヒトが住んでて、オトナがコドモを養ってるってこと?」
「はい、この国は素晴らしい発明たちによって、素晴らしい発展を遂げたのです!」
女性の白磁のような肌が陽光を浴びて輝いた。飛鳥は眉を顰め、シキはふーんと興味なさげに呟いた。女性は聞いていないようだった。
「そうです、この子がご迷惑をおかけしたお詫びに、何か発明品を進呈します! この国の良さを旅人さんに知ってもらって、他の国に伝えてもらいましょう!」
女性は満面の笑みで一人と一台に提案した。飛鳥は驚きとともに、シキは無関心とともに、その言葉を沈黙で受け止めた。
「いや、ボク達は生憎この国の通貨をまだ持っていないし、物々交換が成立しそうなモノも持っていない。その申し出は有難いけれど、お断りさせてもらうよ」
「本音は?」
「荷物が重くなると面倒だし、そうでなくとも面倒そうだ」
「だよねー」
女性は、足元にいた少女を強く引き寄せた。少女は眠そうに女性の手を握った。女性は笑顔だった。
「いえいえ、お代は頂きませんよ! その代わり、しっかりと周りの国にこの国の素晴らしさを伝えてください! 大きいものから小さなものまで、この国にはなんでもありますから!」
「……だそうだけど、どうするの飛鳥ちゃん?」
「……まあ、楽なぶんにはボク達は困らないさ」
飛鳥は諦めたように首を振った。
「本音は?」
「部品取りと資金源としては便利そうだ」
「飛鳥ちゃん、顔はいいのに妙にシビアだよね、嫌いじゃないけど」
女性は聞いていないようだった。
女性の家は宿屋から数百メートル離れた場所にあった。似た建物が七つ並んでいるうちのひとつに女性は一人と一台を招いた。扉は勝手に開いた。
「さあさあどうぞ、私はこの子を寝かしつけてきますから」
飛鳥は説明を求めるか迷っている間に、女性はそう言って少女を押し込むように階段の上の部屋に入っていった。
「……で、どうするのー?」
「仕方ない、適当に見て回るさ」
「え、アタシ置いてけぼり?」
「人様の家に土足でモトラドをあげるほどボクは常識知らずじゃないんでね」
「土足ってそもそも飛鳥ちゃんだって靴履いてるでしょ」
飛鳥は居間に入ると、入ってきた扉を閉めた。土間からの声は聞こえなくなった。
居間には大きなテーブルと椅子が四つ置いてあり、壁際には所狭しと大小の機械が並んでいた。飛鳥はそれをぐるりと見渡して、シキを連れてくるかを悩んだ。
結論が出るよりも早く、階上から女性が戻ってきた。
「すみません、うちの子が…… お茶をお出ししますね」
飛鳥が返事をするよりも早く、女性は扉の横に大量につけられたスイッチから一つを選び出して押した。テレビの電源がついたが、自然の映像が流れるだけだった。
「あら、違った……」
溜息を我慢した飛鳥は、画面の中を子羊が駆けまわるのを見ていた。お茶が出てきたのは二分後だった。
「――ではこの国は、侵略の危険が無いから機械工学が発展した、と」
「はい、この国を攻めようとする軍隊は唯一隣接する森以外からは何もない平原を通る必要がありますから、最初はその森を監視するための自動機械やカメラ技術が発達しました」
女性は話し始めて三杯目のカップをやや震える手で呷ると、四度目のボタンを押した。五秒もかからず机の上にはお茶の入ったカップが現れた。
「それが十分になったころに、航空力学の研究が完成して、今度は他国の空襲や遠隔兵器に対応する技術が発達しました。――ああ、旅人さんはご存じないかもしれませんが、なんと人は空を飛べるんです!」
「期待に沿えなくて申し訳ないけれど、ボクが生まれた国もある程度科学は発達していてね」
「そ、そうですか…… でも、やはり我々の危惧は間違っていなかったということですね」
飛鳥はお茶を一口口に含んで、渋さに顔を顰めた。
「栄養や病原体に対する経口摂取型ワクチンも入った、正真正銘の体にいいお茶です」
「なるほど、どうりで苦いわけだ」
飛鳥はカップを置いて、ソーサーごと自分からわずかに遠ざけた。
「そのお茶が開発されたのがこの国の安全が確保された後でした。外からの安全が確保された以上、私たちの身を脅かすのは健康問題でしたから当然です。環境整備や衛生管理、病気と老衰の予防――」
「老衰も予防できるのは初耳だね」
「そうでしょうそうでしょう! 他の国が私たちの国を攻めることができないのは、やはり技術力で勝っているからなのですね!」
女性は興奮した面持ちで身を乗り出した。飛鳥は溜息交じりにそれをやり過ごした。
「近くに他の国なんてなかったよー?」
扉の向こうからのシキの声は、女性には届かなかったようだった。
「……失礼しました、そして完全なる安全が確保された後、人々は娯楽を求めました。これに関しては、私たちの磨き上げられた技術力をもってすればいともたやすいことでした」
女性が椅子の肘掛けにあるボタンを操作すると、テーブルの横に大きな戸棚が現れた。彼女はそこから指先でつまめるくらいの金属の塊を取り出すと、それをテーブルの上に置いて強く押した。すると部屋は暗くなり、金属の塊は光を発し始めた。
飛鳥は部屋を見回してから、女性を見た。女性はとても満足げだった。
「なるほど、これは――」
「ええ、夜空です! 部屋全体の壁に夜空を投影できる、私の大好きな発明です! 学生の頃におやつを一か月我慢して購入して以来、たまにこうして眺めるんです」
もう一度女性が金属の塊を押すと、光が消えて部屋が明るくなった。飛鳥は椅子に座り直すと、ややためらってからカップに手を伸ばした。そして顔を顰めた。
「この国は本当に便利ですよ! 食糧だって毎日自動で補充されますし、あらゆる自由と娯楽がここにはあります! 特に――」
そこまで女性が言ったところで、居間の扉が小さく開いた。女性と飛鳥がそちらを見ると、ブロンドの少女がそこに立っていた。
「……ふわぁー……」
「まったく、この子は! すみません、今すぐに寝かしつけて―― いや、ちょうどいいですから旅人さんにもこの国最大の発明を見てもらいましょうか」
女性は笑顔でそう言った。飛鳥は少し考えてから口を開いた。
「……構わないけれど、表で煩いモトラドも一緒でいいかい?」
「これが、その発明です」
階上から降りてきた女性が持っていたのは枕だった。
「枕だね」
「ええ、枕です」
女性は枕を床に置いて、少女をそこに寝かせた。
「この枕は、眠っている人間に働きかけて様々な夢を見せることができるんです! 自分の望む楽しい夢も見られますし、眠ったまま勉強をすることだってできますよ!」
「ふーん、脳波コントロール?」
「お詳しいんですねモトラドさん、医療用だったんですか?」
「このモトラドにも諸事情あってね。 ……シキ、話をややこしくしないでくれ」
「けちー」
シキは不服そうに唸った。飛鳥はシキのヘッドライトを一瞥してから、もう一度少女に視線を落とした。少女は静かに目を閉じて横たわっていた。
「それで、今彼女はどんな夢を見ているんだい?」
「今この子は睡眠学習プログラムを見ているはずです、が……」
「が?」
初めて表情を曇らせた女性に、飛鳥は小さく首を傾げた。
「最近この子、すぐに起きてしまうんです」
「……寝すぎたとかじゃないか?」
「いえ、私も日に十数時間は使っていますが、そんな傾向はまったく」
飛鳥は溜息をついた。シキは話を聞いていないように見えた。
「じゃあ、枕が合ってないとか」
「そんなことはありません! この枕は全技術者の技術が結集された、どんな人でも入眠できる枕なんです!」
「……その枕の技術力が本当なら確かに凄い代物だが、その子は起きてる時も眠そうじゃなかったかい? 後遺症のテスト実験は――」
「飛鳥ちゃん、キミは旅人だよ」
「……そうだった、出すぎた真似をしたね」
「当然、後遺症のテスト実験はしています。後遺症は無いはずです」
女性は少女の顔を見つめていた。不安そうな表情は彼女の顔にはなかった。
飛鳥はまたひとつ溜息をついてから、女性の横顔を眺めて言った。
「……なら、その枕をひとついただこうかな」
「この国の技術力を信じていただけましたか⁉ 行政局に連絡すれば明日には届くと思います!」
女性は目を輝かせて言った。シキはそれをじっと見ていた。
「ねーアスカちゃーん」
「……ボクは思索に耽りたい気分なんだが」
燃料を補給してからホテルに戻った一人と一台は、無料の夕食を食べ、風呂に入り、服を洗濯に出して、ホテルに備え付けられた娯楽らしい娯楽を一通り触ってから部屋に戻っていた。外は既に真っ暗になっていた。
志希とアスカは壁に寄りかかっていた。窓からは満天の星空が見えた。
「あの女の人、そんなに長くなさそうだよ」
「……そうか」
「驚かないんだ?」
「運動していないんだ、どれだけ蛋白質を摂っても筋肉は衰える」
どちらからともなく溜息が出て、その音が部屋に反響した。
「いやー、星がキレイだね」
「人工の光が殆ど無いからな」
アスカは窓の外に広がる星へもう一度視線を移して呟いた。
「……あんなものを使わなくてもいいことに、きっと彼女は気付かないんだろうな」
志希はそれを聞いて、何故か愉しげに笑った。
「もう発たれるんですか?」
「朝のうちに出発しないとモトラドのせいで進めなくてね」
「シキちゃんなんのことだかさっぱりー」
翌朝、枕を携えてホテルまで訪ねに来た女性と少女を飛鳥とシキは旅服で迎えた。少女は相変わらず女性の脚に掴まるように立っていた。
「でも、枕で良かったんですか? あれだけ後遺症がどうとかって仰っていましたけど」
尋ねられると、飛鳥は自嘲するように笑った。
「これが、ボクとシキにとっては一番安全なのさ」
「えー、やっぱ他のモノ貰わない?」
「貰わない。 ――それじゃあ、お元気で」
「ええ、この国の技術力をぜひ他の国の方にお伝えください!」
飛鳥は手を差し出して、女性もそれを握り返した。
「……そういえば貴女は、最近他の人と会いましたか?」
「いえ…… ですけど、私にはこの子がいますから」
女性は少女の柔らかそうなブロンドを掠めるように撫でた。
「元気で、キミも」
「……ふわぁー……」
手を出しなさい、握手よ、と女性に囁かれて、少女は女性のスカートを握っていた手を離して、飛鳥に差し出した。
飛鳥はその手を確かに握り返した。
「……最初から、キミは気付いていたんだろうな」
「まあね」
入ってきたのとは反対側の門から出ると、そこは森だった。タイヤが小枝を踏み折る音が、小鳥の囀りとともに森に響き渡っていた。
「……何故言わなかったかは、きっとまともな答えが返ってこないから聞かないでおくよ」
「わかってるじゃん」
「……まったく、キミってヤツは」
しばらく獣道を行ったところで、道は二手に分かれていた。分岐点には看板らしき何かが立ててあったような穴だけがぽっかりと空いていた。飛鳥がその穴の前でモトラドを止めると、シキが思い出したように言った。
「そういえばさ」
「……何だ」
「あの人、近くに国はないって言ってたけど、この森の先に国ってあるの?」
「……攻められることを考えていたんだから、無くはないんじゃないか」
「どっちに?」
「……」
飛鳥はしばらく立ち止まって、それから道の脇に落ちていた棒を拾い上げた。
「またそれ? ちょっと原始的すぎない?」
「前回はキミの意見を聞いて何もない平原だったんだ、今回はボクのやり方で決める」
「えー。 ……ちょい待ち、飛鳥ちゃん」
「何だ、棒の変更は受け付けないぞ」
「そうじゃなくてー、エンジン音。しない?」
「ん……?」
飛鳥が耳を澄ますと、右の道からエンジンの唸る音が聴こえてきた。飛鳥は棒を穴に突き刺すと、シキにもたれかかった。シキは小さく悲鳴をあげて、飛鳥に文句を言った。飛鳥は聞いていなかった。
数分ほどすると右の道から一台のバギー(注・四輪駆動車。空を飛ばないものを指す)が飛び出してきた。長い髪を団子に纏めた運転手の女性は、バギーを横滑りさせながら飛鳥とシキの横に駐車した。
「エンジンの音がしたから来たんだけど、アンタ達あの国に行くとこ? 来たとこ?」
「あ、ああ…… 向こうの道の先の国なら、来たところだが」
「そうか、そいつは良かった! ちょっとアタシに話、聞かせちゃくんないかな」
その女性は快活そうに笑った。シキの視線は既に小鳥を追いかけていた。
バギーとモトラドは、右の道へ暫く行った先のログハウスの前で止まった。モトラドは玄関の前に置いていかれた。
ログハウスの中で女性はお湯を沸かした。程なくして飛鳥の目の前でお茶が注がれた。飛鳥はそれを恐る恐る口に含んで、熱さに顔を顰めた。
「アタシはアヤ、アヤって呼んでくれていい」
「……アヤ、さん、ボクにいったい何を求めているんだい?」
「あの国で見たことさ。……あの国、まだ人がいたかい?」
「……人がいるか聞くということは、あの国がどういう国か知っている、ということかい」
「ああ、アタシは元々はあの国の出身なんだ」
アヤはカップを持ったまま、どこか遠くを見つめた。その視線は、棚の上の写真立てに注がれていた。
「アタシが住んでた頃に娯楽の技術革新があってな、アタシの家族はみんな機械を使わない…… ま、コロシアムみたいなのが好きでさ。機械での代替に反対したら国外退去か賛成するかの二択を迫られて、意固地になった親父がここに家を建てたんだ」
飛鳥が振り返って写真立てを見ると、その内のひとつにログハウスの前で肩を組む家族の写真があった。幸せそうな写真だった。
「別に、技術が嫌いなワケじゃないんだ。現にアタシだって今でもあの国のクスリのお世話になってるしさ。でも、アタシだって親父の気持ちはわかる。どうこう言われすぎたんだ」
「……その家族は、どうしたんだ?」
「格闘術――コロシアム文化を絶やさないようにって、アタシ以外連れて森の外に行ったよ。アタシは、ひとつだけ気掛かりなことがあったからさ」
「フム、気掛かり、というのがボクに聞きたいことに関わってくるのかい?」
「旅人さんは察しがいいな」
アヤはカップを置いて、首を軽く振った。飛鳥は椅子に座りなおした。
「……アタシの家の近所に、女の子がいたんだ。アタシよりずっと小さくて、ずーっと空ばっか見てる不思議な子だった。アタシはいっつもその子と遊んでやる役で、一緒にコロシアムに観戦に行ったりもした。ま、楽しかったかはわかんねえけどさ」
遠くを見つめて苦笑するアヤに、飛鳥は口を開くかどうか躊躇った。そして言葉を発する代わりに、カップのお茶を一口飲んだ。顔は顰めなかった。
「そいつが今どうしてるのか、もういないのかが気掛かりでさ。いろんな旅人に訊いてるんだけど―― 情報はゼロ。諦めろ、ってハナシなんだけどさ」
アヤは立ち上がって、棚の上から写真立てをひとつ取ってテーブルの上に置いた。そこには背のまだ低いアヤと、ブロンドに碧眼の人形のような少女が写っていた。
「――こんな人、あの国で見たかい?」
飛鳥は息を深く吐いて、アヤに向き合うようにもう一度座りなおした。
「……神に感謝した方がいいだろうね。今が昼で、あのモトラドがここにいないことに、さ」
アヤは身を乗り出しかけて、その体勢のまま飛鳥の次の言葉を待った。飛鳥は楽しむように時間をかけて息を吸った。
「――覚悟は、あるかい?」
「あ、よーやく出てきたー。おそーい」
「すまないね、日が暮れる前に森は抜けよう」
飛鳥がモトラドに跨ったところで、ログハウスからアヤが出てきて叫んだ。
「――旅人さん、気をつけて!」
「……飛鳥だ、キミも気をつけて」
それだけ言うと、飛鳥はエンジンを吹かせた。飛鳥は振り返らずに走り始めた。アヤはそれを見送ると、バギーに乗り込んだ。
夜の闇の中を、一台のモトラドが走っていた。木の疎らに生えた山の中を小石を蹴飛ばしながら走るモトラドのヘッドライトが一本の線になって木の隙間を潜っていた。
「アスカちゃん、『旅人は無駄に国の事情に干渉しない』ー、じゃないの?」
「……あの人はもう旅人だ、国を持たないね」
「ふーん」
モトラドと運転手はそこでしばらく黙った。モトラドは木々を抜けて、見晴らしが良い崖の上に辿り着いた。運転手はそこでモトラドを止めると、ゴーグルをずり上げた。
「あの国、もうどこにあるかわかんないね」
「あの女性が唯一の住民だったんじゃないか? 全部が自動化されたせいで、住民は自分以外が死んだことすら気付かない」
「ま、どっちにしろあの精神状態じゃ気付くのムリでしょ。ねーアスカちゃん?」
志希はそう言うと、黒に二本の青い線が入ったモトラドの車体を叩いた。
「やめないか、志希…… ……いつからあの女性が狂ってしまったのか、薬の影響かはわからないが、確かにあれではもう長くないかもしれない」
アスカと呼ばれたモトラドは、崖の下にあるはずの、一切の明かりが灯っていない国に向けて投げかけるように言った。
「だが、どこにでも希望はあるさ」
「へー。でもやっぱさ、それならあのアンドロイド…… なんだっけ?」
「コズエかい?」
「そそ、それそれ。コズエちゃんを手土産に貰ってきちゃった方が良くなかった?」
「……それは、ボクの役目じゃないさ」
アスカは眼下の闇を眺めた。闇の中を、二筋の光が進んでいくのが見えるようだった。
「それは、『新しい旅人』が欲しがる技術でいい」
そっか、と一言呟くと、運転手の志希はモトラドをターンさせて走り出した。白衣のような防寒ジャケットが、夜の闇にはためいて消えていった。
「でさー、なんでよりによって枕にしたの? 遊べないじゃん」
「当たり前だ。『元がモトラドだが夜は人間』のキミは寝ないし、『元が人間だが夜はモトラド』のボクに枕は必要ない。志希、キミに一番悪用されないのはこれだろう」