2021/2/4 22:03遠けき私の名を呼んで
 茜は、窓を叩く雨音にゆっくりと目をさました。
 雨音がビートを刻むごとに、少しずつ意識が覚醒していく。あぁ、洗濯物を取り入れなければ――寝ぼけた頭でぼんやりと考えるが、窓へ目をやれば洗濯物の影は無い。よく考えれば、干していなかったような気もする。
 もぞり。決して大きくないフレームベッドがきしむ。身をよじって再びぬくもりへと意識を委ねる。
 心臓の鼓動と肌の熱、微かな吐息がその存在を感じさせてくれる。
 その胸元へ口づけるように鼻を擦り付けて、茜はゆっくりと意識を揺り起こしていく。
 茜は彼女の、文香の白い肌が好きだった。だから犬や猫が甘えるように、自らの鼻をすりつけてその肌を感じた。少し視線を上へと向ければ、文香の顔が見えるだろう。けれど茜は、裸体の文香に対しては、その顔を真正面から見つめたことはなかった。
「ん……」
 身をよじる茜に気付いて、文香が目を覚ました。
「茜さん?」
 その名を呼ぶ声がする。
 茜は答えない。裸身の茜は、名を呼ばれて返事をしたことが無かった。文香もそのことには何となく気付いていたから、茜の身動きからそれとなく寝起を察してきた。
「おはようございます」
 その名を呼ばぬようにしながら、その髪に口付ける。
「あ……おはようございます」
 普段の茜からは想像もつかぬほど小さな声で、彼女は挨拶を返した。そう返すだけで精一杯と見えて、文香の身体を抱きしめる。彼女は、恥ずかしさを感じた時には距離を詰める種の人であったから、互いの胸が重なることなど、その顔や姿を離れ見つめることと比べればさりとて恥ずかしくもないらしかった。
 文香は茜のそうした気質を好ましく思ってきた。
 だからなるべく調子を合わせて、努めて視線を逸らし、その身体も、顔も、見つめることをしなかった。時には、わざとそうすることもあたけれど。
 雨がひと吹きの風に流されて、トタンをバラバラと叩いた。
 文香は茜の髪を少し弄びながら、肩越しに窓の外を見やった。
「雨……洗濯物が……」
「大丈夫です。ありませんでした」
「そう、ですか……」
「同じですね。私もさっき、洗濯物、大丈夫かなって思ったんです」
 小さく笑った茜が肩を揺らした。
「同じ夢でも、見ていたのかもしれませんね」
 茜さんがいたからかもしれませんよ、文香も笑った。
「私がいたから、ですか?」
 ちらりと、茜が目を上げた。胸元にうずもれていた赤いくせっ毛の合間から、ちらりと瞳が覗いた。その瞳は、文香が視線を向けると素早く伏せられた。
「ひとりで寝ている時に見る夢は、どれも物語仕立てで……ただ洗濯物を干したり、観葉植物に水をやったり、お皿を棚へ並べたり……そういった日常が活写されることは、稀なのです。ただふたりで眠っている時だけは、なぜか、そういう夢を見ます」
 思い出される夢を浮かべて、文香はくすくすと笑った。
 けれど茜は顔を赤くして、ますます文香に頭をおしつけて首を振った。
「きっと私のせいです。私そういう夢しか見ないんです!想像力が無いんですきっと!」
「いいのです。私は嬉しいのです……日々の暮らしに見えるものに、茜さんが気付いてくれていて。私は、見落としてしまいますから。本のことで頭がいっぱいの時は、特に……」
 文香は何かを思い出し、笑みをこぼす。
「昨日も……ふふ、私がお茶を飲むか聞いたときも」
「お茶? ……あぁ!」
 言われて茜も何のことか気付き、肩を揺らした。
 そうだ。あれは、こうやって目を覚ますずっと前、昨日の昼頃のことだった。
 ふたりは久々にお互いのオフが重なって、どこかへ出かけようと計画していた。しかし天候には恵まれず、午前から訪れた雨足は午後に至ってなお強くなり、外出は当然のように中止になった。
 文香は座椅子にもたれかかってストールにくるまり、ただ黙々とページをめくっていた。
 茜もベッドに寝転がって少し本を読んでいたが、やがて、遠足が雨天中止となった子供がやるように、ぼんやりと空を見つめていた。
 鈍色の空から降り注ぐ雨が窓に流れる。
 雨に包まれたこの部屋は、文香がアイドル活動をはじめる前から借りている古いアパートだった。
 やや手狭とはいえ家賃は手頃で、部屋の壁という壁が本棚で埋め尽くされも抜けない床を備え、神保町からもほど近いとあって、文香はこの古アパートをいたく気に入っていた。もちろん茜も、このアパートが好きだった。けれど茜がここを好きなのは、条件がどうかではなく、ただ空間全てに文香の存在を感じられたからだった。
「茜さん」
 ページをめくっていた文香が唐突に問いかけた。
「なんでしょう?」
「……何か、お茶を……淹れましょうか」
「はいっ!」
 文香の提案に元気よく頷く茜。けれど文香は、そう言ったっきり、次のページ、また次のページと読み進めていく。
 だから茜は自ら立ち上がってやかんを火にかけた。やがて注ぎ口から蒸気が吹き上がって、茜は手早く番茶をいれて揃いのマグカップに注ぎ、今も本を見つめて微動だにせぬ文香のもとへ差し出した。
「お茶、置いておきますね」
「……あ、はい。ありがとうございます」
 小さな声で返事をして、読書に集中する文香。茜はそんな文香を少し見つめて、嬉しそうにベッドへ戻った。そしてスマホからラジオアプリを起動すると、お茶に口をつけたり、本を読んだり、ちらちらと空模様を気にしたりしていた。
 そうして注いだ番茶もとうに飲み終え、幾度目かの休憩がてらに空を見上げならがらラジオに耳を傾けていた時、その背後で、ぱたんと本が閉じられる音がした。
 文香が、その本を読み終えたのか一区切りをつけたのか、とにかく本を閉じて、振り返った茜に微笑みかけて、優しげに言ったのだ。
「『お待たせしました。お茶、淹れますね』」
 文香の腕の中で、茜は一字一句同じ言葉を繰り返した。
 笑みに肩を震わせ、対照的に、文香は恥ずかしさに顔を赤くした。
 あの時文香の傍らでは、番茶が、口もつけられないまま冷え切っていた。一時間は経っていたろうに、文香は十分くらいと思っていたらしく、マグカップの中に揺れる番茶を見て狐にでも化かされたように目を白黒させ、返事してましたよと茜に驚かれるや、顔を真赤にしてこうも言った。
「『すいません。本の内容しか思い出せません』」
 今度はふたりで同じ言葉を繰り返し、そうして一緒に笑った。
 あれからも雨は降りやまず、昨日はそのまま外出することはなかった。
 夕食にはふたりでありあわせの材料でパスタを作って食べた。ふたりで一通り片づけた後、文香は今度こそ紅茶を自分で淹れて、茜にマグカップを差し出した。茜がそれを受け取ると、文香は机の向かいには戻らずそのまま隣に腰を下ろした。
 温かなマグカップを手に肩を並べるふたり。茜は言葉少なげに、ゆっくりと紅茶をすすっていた。文香は紅茶にはあまり口をつけず、ややして机の上にマグカップを置いた。茜も、マグカップを手で包んだまま、文香のほうを見やった。
 文香は肩を寄せ、茜は顎を持ち上げる。
 そうして、静かにキスをした。
 雨音の他には、相手の吐息や鼓動が聞こえていた。それしか聞こえなかったような気さえした。雨音さえ消えいる数秒が過ぎ去って、ふたりはゆっくりと唇を離した。お互いに視線を合わせるでもなく、言葉なくうつむいていた。
「……ベッドで、寝ましょうか」
 目を伏せた文香が、消え入るような声で囁く。茜は赤い顔のまま、ただ無言で頷いた。
 それが、ふたりの決まりごとだった。
 文香は、まだ半分も飲んでいないマグカップを台所へ片づけた。茜は普段通りエアコンのタイマーを設定して目覚まし時計を調整し、けれどそれから、常とは違って机を上げることも、布団を敷くこともしなかった。
 ただラジオアプリの音量を少し上げただけだった。
 自分の鼓動が、あまりにもうるさかったから。
 眠る前のことを思い出してしまって、茜は、今一度加速の兆しをみせた自らの鼓動を必死になだめようとした。文香に気付かれたのではないか――そう思うと気が気でなく、おずおずと様子をうかがうようにその顔を見やった。
「……」
 けれど文香は、茜を抱きとめたまま、書棚のある方角を見やって何か考えているらしかった。
「……?」
 そんな文香の様子に、茜もまた首を傾げる。文香は少し黙っていたが、やがて決意の表情を浮かべて茜に視線を向けた。慌てて顔を伏せる茜。けれどその一瞬に垣間見た表情に、輝くような力強さを感じて、茜はゆっくりと視線を戻した。
 視線の向こうでは、文香の瞳が前髪の合間で揺れていた。
 優しげな、ようやく顔を見た茜を迎え入れる表情を向けていた。
「茜さん、ここを引っ越しましょうか」
「えっ?」
 突然の提案に茜は上ずった声を上げた。
「文香ちゃんは、ここが気に入ってたんじゃないんですか?」
「それは、もちろんです」
 頷く文香。文香は本当にここを気に入っていた。
 デビューから暫くして活動が軌道に乗ったころ、収入にも少し余裕が出てきたので、プロデューサーがオートロックや宅配ボックス付きの便利なマンションへ引っ越したらどうかと提案したことがあった。その気があるなら、会社が引越し代や敷金を出してくれるという良い条件もついていた。だが、文香は頑として聞きいれず、梃でもここを動こうとしなかった。それほどここを気に入っていた筈なのだ。
「でしたら、どうしてですか?」
「それは……その……」
 言葉少なげに、茜をじっと見つめる文香。その視線の意味するところに気が付いて、茜ははっとした。
「私、ですか?」
「……はい」
 こくりと頷いた。
 それが意味するのは、茜が、ここで一緒に暮らし始めたことだった。
 元々この部屋の主は書棚だった。書棚に囲まれた部屋には他にフレームベッドがあるくらいで、他にはほとんど家具が無いほどだった。そこへ茜が来た。茜の手荷物は鞄ふたつに収まるくらい少なかったが、それでも相当手狭になった。ベッドなどは元よりふたつも置けない。だから茜が布団を敷いて寝ていたのだ。
「やはり、ご迷惑でしたか」
 しゅんとする茜に、文香は静かに首を振る。
「いえ、違うのです。決して、そんなことはありません」
 茜と文香が共に暮らし始めて、三か月ほどが経っていた。共に過ごすこの時間は心地よいものだった。
「ただ、前々から考えてはいたんです……」
「引っ越しをですか?」
「はい……私は、ここが好きでした。けれど居心地がよくて、ついつい長居をしてしまいました。本当は、プロデューサーに引っ越しを提案された時、そうすべきかとも思ったのです……いえ、ここに不満があった訳ではないのです。ただ……」
 言いよどむ文香の言葉を、茜はじっと待っていた。
 文香は言葉を選び、頭の中で少しずつ組み立てていく。
「ここが好きである以上に、怖かったのです。ここを離れることが。この心地よい世界を解体することが……」
「それがいけないことなんですか?」
「そう、ですね……この部屋にいるとき、私は、古書店で店番をしていた時の私に戻れました」
 少し比喩的な言い回しに茜はその意図を察しかね、文香は言葉を探した。
「決して、過去の私を否定している訳ではないのです。それどころか、私は皆さんと……茜さんたちと出会ってから、自分自身を好きになれて、以前の私のことも受け入れられるようになりました」
「文香ちゃん……」
「その、以前の私が感じていたことや、世界は……ここを離れても失ったりしないと、ようやくそう思えるようになったのです」
 かつて世界のすべてがあったその空間は、今や世界の一部となって、二人の間にあった。
 ゆっくりと言葉を紡ぐ文香の、茜を抱きとめる腕に思わず力が入った。茜の実在を確かめるように、自分の意識もまた確かなものと感じたくて。
「本当はもう、とっくにそうすべきだったのです」
 口元に微笑みを湛えたまま瞳を伏せる文香。
 茜は少しまぶたを閉じ、文香の言葉をゆっくりと呑み込んでいたが、やがて視線を戻すと、今度は、その瞳を真正面から見つめ返した。
「引っ越しましょう文香ちゃん」
「はい」
「きっとこれも新たな一歩、ですね!」
「はいっ」
 二度、文香は頷いた。二度目は一度目よりも力強く。
 茜は照れくささを押し隠すように額を押し付けた。
 文香はくすぐったいといい、茜の髪をかきあげて、その真赤な頬を小さく拭った。茜はそんな文香の指に口付けると、手首や腕へと口付けながら鼻先をすりよせていった。それが肩先へ至ったところで、文香はただ茜の頭へ頬を寄せ、その背に腕を回した。吐息はやがて熱を帯び、身体は微かに震える。
 私たちはお互いが必要だと、心からそう思えた。
 途切れがちな意識は互いを探し交錯し、自らに触れる文香を感じて、茜もまたその暖かな感覚に意識を委ねた。
 遠く、貴女の声がする。
「茜さん」
「――はい」
 最中にその名を呼ばれ、茜は初めて返事をした。