その扉をぐいと開くと、熱帯夜の外気が吹き付ける。爽やかとまでは行かないまでも熱の島の中ではほんの少し気の紛れる、そんな夜風が髪を揺らす。
コーヒーの入ったペットボトルを片手に屋上に出た飛鳥は、他に邪魔するモノがいないことを確認すると、安堵の吐息を漏らして一角にあるコンクリートブロックに腰を下ろした。
「さて、都会のこの街明かりの中でも見られるといいが……」
そう呟きながらペットボトルの蓋が開けられる。水出しコーヒーの香りが飛鳥の精神を上昇させ、いよいよ天に届こうとする。
しかし飛鳥の意識は宇宙に届く前に扉を開く音によってまた地上に帰ってしまった。
「あ、飛鳥ちゃんだ。こんなとこで何してるの~?」
「その台詞、そのままキミに返すよ。志希」
突然の来訪者、一ノ瀬志希に対して、飛鳥は少々の不快感をコーヒーと共に飲み込んで迎えた。
「レッスンの途中で抜け出してきたんだろう、ここに来るまでにプロデューサーが探していたよ」
「まあね~。今日はここに来たい気分だったから」
「ほう、キミが目的地を定めるとは珍しいね。とすると……キミもお目当ては流星群かい?」
「お、その言い方からすると飛鳥ちゃんもなんだ」
今夜は空が賑わう夜だった。ペルセウス座流星群のピークを前に、天気は快晴。絶好の天体観測日和だった。ビルの街明かりだけが悪条件だったが、二人は観測地点として事務所の屋上を選んだのだった。
「キミも宇宙に魅せられるタチだったとはね。いや、科学の徒としては自然な流れなのか?」
「あたしは化学屋だけどね~。宇宙は物理屋のお仕事。でも、宇宙の……こういう言い方したくないけれど、『神秘』ってやつには魅せられちゃうんだよね」
志希もまた天を見上げ、腕を伸ばして星に手をかざす。果てしない遠くを見つめる瞳は、星の煌めきを反射する。
「なるほど、確かにキミらしくない言葉選びだが、共感してしまうね。こんなにも途方もない大きさの宇宙を思うと、いかに人間がちっぽけなものかがよく分かる。宇宙に対する人間の取り組みは、規模からすれば小さなモノだが、それでもその探求は偉大だ」
「『人類にとっては偉大な躍進』ってやつかにゃ~」
「まさしくね。ところで、キミにとって宇宙とはどんなモノなんだい?研究対象か、観察対象か」
「んん~……絶対に飽きさせないおもちゃ、かな。原初にたどり着こうとする人類の試みは、知的好奇心や冒険心をくすぐるね。宇宙は分からないことだらけで、それらはみんなあたしたち科学徒を誘ってるんだ。だって宇宙の九十六%が未知の物質だなんて、今まで残りの四%を研究してたあたしにとっては大興奮だよ」
「科学者の性ってヤツかい。宇宙の創成にたどり着こうとする試みは、それこそバベルの塔を思わせるね。それは傲慢でもあるが……知恵の実を囓ってしまった人間には、識ろうとせずにはいられない」
空を眺めながらコーヒーを啜る飛鳥は、思考を研ぎ澄ませつつ流星を探している。
「バカみたいだよね~。人間は自分がどうして思考するのかさえ自分で分かってないのに」
「身も蓋もないことを……いや、それもまた人間らしさなのかもしれない。人間の意識もまた、宇宙と同じくらいに謎だらけだ。『人間の意識には数学的に説明できない部分がある』なんて言う科学者もいるくらいだ」
「ロジャー・ペンローズだったかにゃ。そのペンローズは今量子脳理論にご執心だね~」
「素粒子の振るまいが人間の思考に与える影響……まさしく人体は小宇宙、か。『我思う故に我あり』だけでは語り尽くせないね」
「そうそう、結局人間が自分たちについて分かっていることなんて、宇宙についてと同じくらい僅かなモノだよ。その上で相互理解をしようだなんて、そんな砂上の楼閣について考える必要あるのかにゃ~?」
「おいおい、分からないことだらけでも足掻き続けるのが人間の知的探求というモノだろう?科学者の言うこととは思えないな」
「にゃはは、わからないことに『わからない』って言うのも科学者の仕事だし~」
「都合のいいときだけ科学者を語るな、全く……」
呆れながらも、飛鳥は志希に目をやる。目線が合って、志希がにんまりと笑うと、ごまかすようにまた空へと視線を移す。
瞬間、黒い夜空に一筋の白い光が走った。あ、と二人の吐息が重なって空に溶けていく。
「……あっという間だね。儚さの象徴か……」
「願い事でもしたかった?」
「星に願いを、なんて性分じゃないが……ロマンチシズムを嫌悪しているわけじゃないさ。こうして広大な宇宙に思いを馳せているとき、心底自分が人間でよかったと思うよ」
「そっか。それにはあたしも同意かな」
にゃはは、と笑う志希を眺めて、不思議な安堵感を得た飛鳥の口が動く。
「そうか、珍しく意見が一致を見たね」
「んふふ、それはあたしと同じ考えなのが嬉しかったからかにゃ~?」
ハッとした顔を赤く染めていく飛鳥の上でまた一筋、流星が軌跡を残していった。