2021/2/4 01:32遠くの夜になったら
 インターホンの音がした。
 夜も更けたこんな時間に、ちょこ先輩の家を訪れるひとなんて、あんまりいるものじゃない。そのうえ、当の先輩は、撮影の打ち上げでまだ外出中だった。
 廊下を歩きながら、考えを巡らせる。ちょこ先輩が帰ってきてもおかしくない時間だし、もしかしたら打ち上げでお酒を飲んで、相当酔っているんだろうか。玄関を開けた瞬間に、「ただいま、果穂」なんて緩みきった表情で言って、あたしを困らせたりするのかもしれない。うん。ありえる。
 ある程度の不意打ちを覚悟しつつ、玄関ののぞき穴から様子をうかがう。そこには、樹里ちゃんに肩を担がれているちょこ先輩がいた。
「ちょこ先輩⁉」
 慌てて鍵を開けて、扉を開く。気まずそうな顔をした樹里ちゃんと目が合った。
「あー、その。果穂、悪い」
 樹里ちゃんが肩をすくめるような仕種をして、あたしに頭を下げた。その動きにつられて、樹里ちゃんに身体を預けたままだったちょこ先輩の身体も揺れた。
「チョコのやつ、偉い人からすげー飲まされててさ。断るわけにもいかなくて……その、なんだ。アタシと二人になる前までは、ちゃんと立ててたんだけど……怒んないでやってくれな」
「い、いえ……怒ってるわけじゃない、んですけど……」
 うまく言葉が見つけられない。怒っているわけじゃないのは本当だ。ただ、この状態のちょこ先輩を見ていると、なんだか、言葉が出てこなくて――
「まあ、果穂が怒ってないならよかった。なら、あとは任せていいか? 水でも飲ませて、寝かせてやればいいからさ」
 ばつが悪そうに頬をかいて、樹里ちゃんは言った。そして、肩に担がれたままのちょこ先輩を揺り起こしながら「おい、起きろよチョコ。お前んち着いたぞ」「うーん」と会話をしている。
「ダメだなこれ……。果穂、悪いけど、このまま受け取ってくれ」
 樹里ちゃんの肩から、あたしの胸元にちょこ先輩が手渡される。漂ってくるアルコールのにおいがやたらと鼻をついた。
「……やっぱ、酒臭いか?」
 顔に出てしまっていたのか、樹里ちゃんが気まずそうに、声をひそめた。
「少しだけ……」
「そっか。まずいな。アタシも夏葉からなんか言われそうだ」
「あ、よかったら樹里ちゃんも泊まっていけば……」
「遠慮しとくよ。酒飲んで帰らなかったら、それこそ、なに言われるか分かったもんじゃねーしさ」
「そうですか?」
 夏葉さんにはあたしから言えばと思ったけれど、樹里ちゃんは「いいんだよ」って優しく笑って、あたしの頭を撫でてくれた。
「アタシなんかより、チョコの心配してやれって」
 あたしの頭から手を離した樹里ちゃんが、今度はちょこ先輩の眉間をぐりぐりと押し始める。流石に痛かったのか、逃げるようにあたしの胸元に顔をうずめてしまった。
「んじゃ、帰るな」
 実は下でタクシー待たせてるんだ、と付け足して。樹里ちゃんはさらりと帰ってしまった。
 そして。
 樹里ちゃんを見送って、腕の中にいるちょこ先輩に目を落とす。真っ赤な顔で、うんうんと気持ち悪そうに唸っていた。
「ちょこ先輩」
「うーん……果穂の声の幻聴が……助けて樹里ちゃん……」
「幻聴じゃないです」
 あと、手をわきわきさせないでほしい。
「ちょこ先輩。もうお家についたんですよ」
「んー……? 果穂?」
「果穂です!」
「果穂かあ」
 ふにゃりと顔を緩ませて、安心したみたいに笑う。そこで気を緩ませるのは、ずるい。あと、息からお酒のにおいがする。アタシの腕に顔をすり寄せて、甘えるようにするのもやめてほしい。
「……あんまり、無理をして飲まないでくださいね」
 どうにか理性をつなぎとめて、声をかける。ちょうどいい位置を探っているのか、腕の中でもぞもぞと頭を動かされている。こそばゆくて、身体を持ちなおすと、不満そうに声を漏らされた。
「無理はしてないつもりだったんだけどねー」改めて身体の位置を探り直しながら、続ける。「打ち上げ終わったなーって思ったら気が抜けちゃって」
「はい」
「樹里ちゃんにも、迷惑かけちゃったな」
「……はい」
「果穂?」
「なんですか?」
「ごめんね?」
「……どうして、ちょこ先輩が謝るんですか?」
「困らせてるから?」
「困っても……怒っても、ないです」
 違う意味で、困らされてはいるけれど。この状態がちょこ先輩のせいじゃないことくらい、あたしだって分かっているのだ。
 ただどうしても、思うことがひとつだけあって。
「ちょこ先輩」
「んー……?」
 吐息まじりの眠たげな返事。
 どうやら睡魔が襲ってきているみたいだ。
「ちょこ先輩は、あたしとお酒を飲みに行くことがあったら、頼ってくれますか?」
「んん?」
 腕の中の頭が揺れる。あたしの質問がどういう意味なのか、ふわふわであろう頭の中で、ゆっくりと考えてくれている。
「あたし、お酒飲みすぎちゃったのは、別にいいと思ってるんです」
「うん……」
「でも、あたしはそこにいなくて――ちょこ先輩を助けられたのが、あたしじゃなくて。樹里ちゃんだったのが、なんだか」
 もやもやとした気持ちだけが、お腹の奥にある。もし、あたしがそこにいたとしたら。ちょこ先輩が飲みすぎて、あたしと二人きりになったとしたら。
 ちょこ先輩は、あたしの前で、そんなところを見せてくれただろうか?
 そんな考えばかりが、頭の中を巡っている。
「あたし――絶対、ちょこ先輩に頼ってもらえるような大人になりますから」
「うん。果穂は素敵な大人になるよ」
 迷わずに即答される。
 信じてもらえているのは嬉しいのだけど。
「……ちょこ先輩、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
 まったく安心できない口調だった。
 なんせ、ろれつがきちんと回っていない。
「歩けますか?」
「うー……」
 ついさっき、大丈夫と言ったばかりだと言うのに、首を振って答えられてしまった。とはいえ、このままの態勢でいられるのもよろしくない。ちょこ先輩はいまだにあたしの腕の中にいて、ぐったりと体重を預けてきているのだから。こんな状態で、寝られてしまうのは、ちょっと。
「お水は、飲めますか?」
「むりー……」
 相当限界らしい。動けないし、お水も飲めない、となるといよいよどうしたらいいか分からなかった。
 ここから、どうしたものかと考えている間にも、ちょこ先輩は夢の世界に連れて行かれそうになっている。
「酔ってる時に、変な話しちゃってごめんなさい」
寝息まじりになってきた呼吸に、声をかけた。
「平気……。記憶、なくなりそうだし……」
 ふにゃふにゃになった声色で、ちょこ先輩は返してくれる。確かに、いま何を言ったところで、脳みその中までは浸透してくれやしないだろう。
 あたしとしては、忘れてもらえるのは助かるような気もするけれど……。まったく覚えられていないのも、困る。
 こうしている間にも、ちょこ先輩の体重はどんどんとあたしにもたれかかってきていて、支えるのが大変になってきた。
「ちょこ先輩。このまま寝られると……」
「うん……」
 頷いてはくれるものの、どうにも足元がおぼついていない。手を離すわけにもいかなくて、どうしようかと考えていると、ちょこ先輩がこちらを見上げた。
「果穂、お願いがあるんだけど」
「はい?」
「運んで……」
「もちろんやります!」
 ちょこ先輩の方から、頼んでくれるなら、願ったりだった。運びやすいように、体勢を直して、ベッドまで連れていこうと抱え上げた。
「ちょこ先輩」
「なーに?」
「記憶、なくなっちゃうって言ってましたよね」
「もうないー……」
「こんなこと聞くの、よくないんですけど」
「いいよ」
「いいんですか?」
「果穂はいい子だもんね?」
「う」
 言葉に詰まる。酔っているというのに、ちょこ先輩は、あたしのことを信頼しすぎだと思う。
「あたしのこと、好きですか?」
「だいすき」
 ああ。
 早くお酒を、飲めるようになりたい!