毎年、十月三十一日のハロウィンになると人間の住まう世界と物の怪たちが住まう世界が繋がって、その日の間だけ行き来することができる、なんて話がある。
そんな物の怪たちの住まう世界はいくつか存在し、その中に『黒猫列車』という、銀河を駆ける不思議な列車が存在する世界があった。
「ん……ううっ……」
ある満月の晩、駅の仮眠室で『黒猫列車』の運転士、吸血鬼の樹里は吸血衝動から来る発作に苦しんでいた。
満月は多くの種族に様々な影響を及ぼす。吸血鬼は影響を受けやすい種族であり、満月のときは特に人間の血への渇望が一段と強まる。
樹里は額に脂汗を滲ませ、歯を食い縛りながら頭を抱えて月光の当たらぬ仮眠室の隅でうずくまっていた。
「くそっ……まただ……アタシは、ニンゲンの血なんか……!」
唸り声を上げ、カッと見開いた瞳は赤く爛々と光る。ぜぇぜぇと荒い息遣いが仮眠室に響いた。
「樹里ちゃん、大丈夫っ……⁉」
慌てた様子で仮眠室の壁を外からすり抜けて来たのは『黒猫列車』の車内販売員、ゴーストの智代子。その手にはパック飲料の入った袋が握られていた。
「ハァ、ハァ……その声……チョコか……?」
「うん! それより樹里ちゃん、早くこれ飲んで!」
智代子は袋から飲料を一つ取り出すと、付属のストローを挿して樹里の口元に持っていく。ストローから香る匂いに目を見開いた樹里は、勢いよくストローに吸い付いて中身を一気に啜った。その間に智代子は次のパックにストローを挿しておき、空になったパックとすぐさま交換する。これをもう二回ほど行ったところで、樹里はようやく落ち着きを取り戻した。
「はぁ、すまねぇ、チョコ……」
「少しは落ち着いた、樹里ちゃん?」
「ああ……」
智代子の持つ袋の中に放り込まれた、複数のぺしゃんこに潰れた飲料のパック。その中身は、正規ルートで契約を交わしている人間から提供された血液を加工した、血液飲料だった。パックに印字された「吸血が苦手な方にオススメ」の文字。
──『黒猫列車』の運転士、西城樹里は吸血ができない吸血鬼だった。
◇◇◇
新たな吸血鬼の誕生には、大きく分けて二つのパターンがある。一つは他の種族と同様、父親と母親の間に誕生する場合。そして、もう一方は──吸血鬼に噛まれ、その眷属となる場合。樹里の出自は前者、吸血鬼の両親から生を受けた。
樹里の生家は上流階級で、いくつかある家柄の中でもそこそこ名の知れた一族の娘として生まれた。樹里の上には兄がおり、兄の影響か周りに比べると少々お転婆に育った。
「良いかい、二人とも。お前たちは西城家の血を引く者、ヴァンパイアという崇高な種族として、立派になるんだよ」
お転婆娘の幼い樹里だったが、両親から度々言われてきたこの言葉を素直に受け止め、兄と共に様々な教養をたくさん身につけていった。
「ヴァンパイアは強くてカッコいい」、幼い樹里はそれを信じて止まなかった。──ヴァンパイアという種族がどのような存在なのか、吸血という行為がどういうものなのか、まだよく知らない間は。
そんな樹里が違和感を覚え始めたのは、外に出る機会が増えた頃のこと。
街を歩いていると、向けられる視線の多くに畏怖の念が籠もっているのを肌で感じるようになった。
(ヴァンパイアだ)
(怖い)
(近寄らないでおこう)
店に寄っても、大抵は店員の態度がどこかビクビクしている感じがして「アタシはただ買い物しに来ただけなのに、変なやつ」と思うことが幾度もあった。
極めつけは通っていた学校。最初の頃は、組み分けの意味を樹里は理解していなかったが、しばらくして種族が関係していたことに気付いた。樹里のクラスは吸血鬼の他に、オオカミ人間がほとんど。同族やオオカミ人間の生徒は普通に接してくるが、他のクラスの生徒には避けられてばかりだった。
(あの子はヴァンパイアだ)
(怖そう)
(目を合わせたくない)
確かに、他の種族に比べると足が速かったり、力持ちであったりと様々な能力で頭一つ抜けている面が多い。だが、この頃の樹里には、何故それが多くの種族から距離を置かれる原因となるかがいまいち結び付けられずにいた。少女は「アタシはただ、色んなやつと仲良くなりたいだけなのに」と思うばかり。
どうして自分が周りから避けられがちなのか、両親に打ち明けると、心配されるどころか寧ろ逆で「樹里にも種族としての貫禄が出てきたか」などと喜ばれてしまった。何故なのか? クラスメイトに聞いても、同じような境遇且つそれを良しとしている者ばかりで話にならなかった。どうしてなのか?
(おかしいのは、アタシの方なのか……?)
小さな違和感を日々少しずつ自身の中で積もらせていく中で、樹里の身体に種族としての“成長の兆候”が現れ始めた。
ある日、樹里がクラスメイトのオオカミ人間と取っ組み合いの喧嘩になったときのことだ。互いに譲らず、組んづ解れつを繰り返す。激闘の末、樹里は相手に組み敷かれてしまう。勝ち誇った様子の相手の重い一撃を食らわんとした、そのときだった。
「っ、やめろ……!」
樹里が相手をキッと睨んで叫ぶと、目と鼻の先まで迫った相手の拳がピタリと止まったのだ。押さえつけられたわけでもないのに、腕が動かない。そうして相手が困惑している隙を突いて、樹里は逆に相手を組み敷いた。
(今のは……?)
直後、組み敷かれた相手が白旗を振ったことで、この喧嘩は樹里に軍配が上がった。だが、この白星に納得の行かなかった樹里は、すぐに職員室へ赴き、同族の教師に事の顛末を語った。
「それはきっと“魔眼”が発現したんだ。すごいじゃないか、クラスの中で西城が一番早いぞ」
魔眼。それが何かと訊ねると、一部の種族が扱える能力のことだと教えられた。吸血鬼の魔眼は、相手に催眠や魅了を施すことが可能で、先刻の現象もそれによって引き起こされたものだと教師は嬉しそうに話す。
「西城、おめでとう。魔眼が使えるようになったということは、ヴァンパイアとして大きく成長した証拠だ」
教師は笑っていたが、樹里は恐れていた。魔眼を使えば、相手を意のままに操ることが出来る。──正しく扱わなければ、他人を酷く傷付けることに繋がってしまう。
「せ、先生、これは……魔眼は、危険な能力じゃないんですか」
「そうだな……分別の付かない者が扱えば、良くない結果をもたらすかもな。でも──西城なら、大丈夫だろう」
何が大丈夫だ。樹里は心の中で激しく憤った。自分がこの先、絶対に道を踏み外さないという確証はない。それなのに「大丈夫」と言われる意味が分からない。
「そう……ですか……ありがとう、ございます……」
どうして多くの種族の者から距離を置かれていたのか、樹里がようやく理解した瞬間だった。自身が、ヴァンパイアが実はとんでもなく恐ろしく危険な存在なのかもしれない。
この翌日、樹里が抱き始めた自身や種族への恐怖心に追い討ちを掛けるかのように、学校でヴァンパイアとオオカミ人間に関する特別授業が行われた。樹里が前日、魔眼を発現させたからだ。毎年、在席するクラスの中で誰か一人が能力を発現させると、この学校では特別授業が組まれて自身の種族について深く学ぶことになっていた。ここで生徒たちは己の種族について理解を深め、より「らしく」成長していく。
「ヴァンパイアとオオカミ人間は共に、ニンゲンという生き物をルーツに持つ種族です」
「ニンゲンは進化の末に凄まじい知能を得て、文明を作り上げて行きました」
「我々はニンゲンの知能に加え、身体能力や異能を併せ持ち、ニンゲンより更に進化を遂げた存在なのです」
「いずれの種族も、食性はニンゲンとほぼ同じで雑食ですが……ヴァンパイアはニンゲンの血液、オオカミ人間はニンゲンの血肉の摂取が必須です」
「これはおそらく、ニンゲンをルーツとするからだと考えられています。より近いものを食した方が、生命の維持が容易なのでしょう」
「故に、ヴァンパイアやオオカミ人間はニンゲンの多くが活動を休止する夜に活動するようになりました」
「ニンゲンは様々な文明を発達させてきましたが、それでも夜を恐れています。我々の存在があるからです」
「我々は『夜の支配者』と言っても、過言ではないでしょう」
「そんなニンゲンですが、彼らは今、我々と違う世界に住んでいます。何故住まう世界が変わったのかは、まだ詳しく分かっていません。しかし、何らかの条件を果たすと、向こうとこちらの世界が通じて行き来することが出来るそうです」
樹里はノートにペンを走らせるが、内容が全然頭に入ってこない。ペンを握る手がガタガタと震える。知りたくなかったことが、次々と耳に入ってくることが怖くて堪らない。それでも授業は授業なので、逃げ出すわけには行かない。
「……西城さん、大丈夫ですか? 前の晩、興奮し過ぎて寝不足にでもなりましたか?」
「え? あ、はい……すみません、先生。ちょっと寝不足気味なだけなんで、大丈夫です。……続けてください」
本当は今すぐにでも逃げ出したい。でも、これはきっと「正面から向き合わなくてはならないこと」。そう自身の心に言い聞かせて、樹里は必死に湧き上がる恐怖心を押し殺して教師の話に耳を傾ける。
──ヴァンパイアとオオカミ人間は強い種族故に、月の影響を受けやすい。特に満月の日は強いニンゲンに対する吸血衝動や摂食衝動が強まり、発作を起こすことがある。発作を抑えるには、ニンゲンの血や肉が必要。
教室のあちこちから、生唾を飲み込む音が聴こえてくる。樹里はバレないように身震いした。
「──と、これがヴァンパイアとオオカミ人間の大まかな特性になりますが、質問はありますか?」
「……無いようですね、では次の話に進みます」
「次は──」
「『血族の増やし方』について」
けつぞくの、ふやしかた。脳内で何度も反芻させる。教師の口から出てきた言葉に、樹里は本能的に恐怖した。よく知らない言葉のはずなのに、とにかく恐ろしいことであることだけは何となく察した。
「ヴァンパイアやオオカミ人間の誕生には、他の種族のように、両親の間に誕生する場合の他にもう一つあります。それは──」
「ニンゲンを噛むこと」
「ヴァンパイアかオオカミ人間がニンゲンを噛むことで、血族を増やすことが出来ます。このとき血族に迎え入れられた者は、噛んだ者の『眷属』となります」
「この場合の『眷属』は“従者”や“配下の者”という意味を持ち、付き従わせることができます」
「血族に迎え入れるということは、一度その者をニンゲンとして殺し、新たに命を与えるということ」
「このようにヴァンパイアやオオカミ人間は血族を容易に増やすことが出来ることから、この世界に於いて強い種族であるとされ、貴方たちはその矜持と責任、自覚を持たなければなりません」
命を与え、従わせる。そのためには一度、命を奪う必要がある。相手の命を冒涜し、弄ぶ行為をする能力が自分には備わっている。そう強く自覚すると共に、樹里は過去に自宅の書庫で読んだ、ある本に載っていたワンフレーズを思い出した。
『命は尊きもので、これを汚すようなことは何人たりとも赦されない』
この本を読んでいたとき「ヴァンパイアたるお前が、なんてものを読んでいるんだ」と樹里は父親に叱られた。そのときは何故叱られたのか分からなかったが、ようやく樹里の中で点と点が繋がった。
(いくらヴァンパイアだからって、命を……こんなこと……ダメに決まってんだろ)
樹里は思った。自分はとんでもない呪いに掛かっているのだと。知らなければ、どれほど幸せだったのだろうかと。無知は罪だが、多少は幸福であった。しかし、もう知ってしまったからには元に戻ることはできないし、許されない。もし、自分がヴァンパイアじゃなければ──
「──では皆さん。ここで、実際にニンゲンを眷属に迎える様子を収めた映像があるので、観ていきましょう」
ふと教師の言葉にモニタへ目を向けると、画面の中には吸血鬼と人間の姿。吸血鬼やオオカミ人間が一人前と認められた際に執り行われる“通過儀礼”の様子だった。
画面の中で鎖に繋がれた人間に吸血鬼が近付き、その首筋に牙を立てる。激しい叫喚を上げながら痙攣する人間に構わず、吸血鬼は血を吸い続けた。吸血鬼が離れてからも人間は部屋をのたうち回り、暫くして糸が切れたように倒れた。そして、吸血鬼が声を掛けると──ゆらりと人間は起き上がり、自身に新たな命を与えた“主”に対して跪いた。
「映像は成功例ですが、稀にニンゲンが身体の急激な変化に耐えきれず、絶命してしまう場合があります。しかし、これを恐れず儀式に向き合うことが──」
頭の中に浮かぶ“稀”が起こってしまったときの光景。想像するんじゃなかった、と樹里は心底後悔した。込み上げてくる吐き気を無理やり抑え込む。
「……先生、少しだけ席を外します」
結局耐え切れず、樹里は手洗い場へ駆け込んだ。
教室に戻ると教師の話はまだ続いていたが、樹里はノートを閉じ、残りの話は頬杖をつきながら聞き流した。──自分だけは、絶対に命を粗末に扱うような外道になるものか、と心に誓いながら。
「樹里、今日は学校を休みなさい」
特別授業から数日後、朝食の際に父親から告げられた。樹里の兄が、通過儀礼を受けることになったとのことだ。
通過儀礼は一族を挙げて執り行われる。樹里もこの先、通過儀礼を受ける者として参列しなければならない。──頭に過るのは、特別授業で見せられた映像。儀式に利用された人間の叫喚が再び脳内に響き渡った。
(兄貴が、あれをやる)
胃に流し込んだ朝食が逆流しそうだった。いつもより多く水を飲んで、なんとか胃へ押し戻す。
通過儀礼は夜に行われるが、半人前である樹里は準備に参加しないために日中は暇になる。そのため、気分転換に裏庭で樹里が寝転んで呆けてると、装束を纏った兄が樹里の元へやって来た。
「……樹里、気分が優れないみたいだけど」
「別に、んなことねーよ」
「ウソだ、ずっと顔色悪い。なんかあったのか? ……隣、失礼するよ」
兄は装束なんぞお構いなしに、樹里の隣へ座り込んだ。
「……その、兄貴はさ、怖くねーの? 通過儀礼」
「うーん……あんま怖くはないかな。ようやく一人前として認めてもらえる喜びの方がデカい」
「そっか。兄貴はアタシと違って立派だな」
「そういう樹里は怖いのか?」
「ああ。通過儀礼だけじゃない、ヴァンパイアって生き物自体が怖い」
「どうして? 昔は『強くてカッコいい』って散々言ってたじゃないか」
「確かに、そうだけど……あれから色々学んで、考えが変わった。なんか思ってたのと違ったんだ」
「違った?」
「ああ。なんつーか、自分勝手……っていうのかな。自分らさえよけりゃ、他はどうなってもいい……みたいな感じ。アタシはそうじゃなくて、色んなものに手を差し伸べたい、守りたい……そのために、持てる強さや力を使いたいって思うんだ」
「……なるほどな」
「通過儀礼を受けたら、兄貴も他の大人たちと同じようになるのか? 考え方とかさ」
「さあな。受けてみなきゃ分からん。でもまあ、なるようになるだろ」
そう言うと兄は樹里の頭をポンポンと撫でる。
「お前は二番目で一応女の子なんだし、家のことは考えなくていい。周りのお望み通り、俺が跡継ぎになるからさ」
「“一応”が余計だっつーの」
樹里が恥ずかしがって手を払い退けると、兄は名残惜しそうに立ち上がった。
「……樹里」
「なんだよ」
「お前は、自分の思うように生きろ」
「……」
優しく微笑むと、兄は「じゃ、俺は戻るから」と樹里の元を離れていく。見送る兄の背中は、何処か凄く遠くへ行ってしまいそうに感じられた。
それから数時間後、辺りが夜闇に包まれた頃。樹里の兄の通過儀礼が執り行われた。特別授業では画面越しに起こっていたことが、身内によって目の前で起こされていた。儀式は無事に終わり、樹里の兄は眷属を作ることに成功。晴れて一人前の吸血鬼となった。
目に飛び込んできたおぞましい光景、鼻を突く鮮血の匂い、鼓膜をビリビリと震わせた人間の絶叫。どれも鮮明に樹里の脳裏に焼き付いた。
「おめでとう、樹里。遂にお前も一人前になる時が来たんだ」
それは樹里にとって、呪いの言葉でしかない。兄の通過儀礼から僅か半年余り、三日後に迫る樹里の誕生日に自身の通過儀礼が執り行われることになった。
本来はもう少し歳を重ねてから儀式を受けるものであったが、樹里は能力の発達が早かったために、通過儀礼のタイミングが早まったという。兄妹揃って大変優秀だと、一族はお祭り状態だった。
「お前たちのような立派な兄妹を持って、鼻が高いよ」
両親の機嫌は最高潮だが、樹里の気分はどん底まで落ちていた。儀式をどうにか回避出来ないかどうかだけが、樹里の頭の中をぐるぐると巡っていく。
動揺していたせいなのか、口にした朝食は何処か味気なく食べている感覚がしなかった。朝食だけでない、昼食も夕食も、腹は膨れても物足りなく感じた。いよいよ自分は本当におかしくなってしまったのだろうか。樹里は一人、頭を抱える。
考えろ、考えろ、考えろ! まだ何か、上手く通過儀礼をやらずに済む方法が、何か、あるはず──
(アタシはこのまま、バケモノになるしかないのか?)
希望を掴むには多くの苦労や困難を要するが、絶望に飲まれるときは驚くほど呆気なく。あっという間に樹里は通過儀礼の日を迎えてしまった。
最悪な気分に加え、焼けるような喉の渇きと空腹とは違う“飢え”の感覚が樹里を襲う。固形物を胃が受け付けようとしないので、これでもかと水を飲むが……渇きも飢えも全く収まる気配がない。おかげで思考回路は必要最低限しか動作せず、されるがままに装束を着せられると儀式の刻限までの時間を無為に費やしてしまった。
「いよいよだな、樹里。後ろに手を回して」
儀式を行う部屋の前で、樹里は兄に両手を鎖で縛られた。
「樹里、気分はどうだ?」
「……最悪だ。ずっと喉渇きっぱなしだし、変に腹減るし」
「そうか。……実はな、樹里。親父がお前に今日のことを告げた日から、お前の分の食事から血が抜かれていたんだ」
「……はぁ?」
血が、抜かれていた? 錆び付いた樹里の思考回路に電撃が走る。普段の食事に発作抑制のため、いくらか輸血パックの血液が混ざっていたことは知っていた。それが、抜かれていたということは──血の気が引き、樹里の指先は冷えていく。
「……樹里、いいか。なんとか通過儀礼だけは乗り越えろ。そしたら……前も言ったろ、『お前の思うように生きろ』って」
「……」
「何があっても、俺はお前の味方だ。それに、探せばきっと──樹里のことを大切に想ってくれる仲間も居るはず。だから、必ず乗り越えろ」
兄は項垂れる樹里の背中を軽く叩く。
間もなくして、部屋の扉が開け放たれた。一族の者たちの期待に満ちた視線が、一斉に樹里へと注がれる。
混乱真っ只中の樹里が恐る恐る、ゆっくりと顔を上げると──視線の先に、鎖で繋がれた人間の姿があった。
「────っ⁉」
次の瞬間、樹里の心臓がドクンと大きく跳ねた。鼻を抜ける甘美な匂いに、耳に届く人間の息遣い。渇いた口内が溢れ出す唾液で潤いを取り戻し、喉はさらにジリジリと焼け焦げるように渇いていく。鼓動が速く、バクバクと大きく全身へ伝わり、額に脂汗が滲み、呼吸が深く、荒くなる。──樹里が自身の奥深くに封じ込めていた、内なる怪物が目を覚まして牙を剥いた。
(なんだ、これ……体が言うこと聞かねー⁉)
集まった一族へ向けて父親が口上を述べていたが、一言一句頭に入ってこない。樹里の意思とは裏腹に、身体が強く人間の血を求めていた。
樹里の身体は本能という名の怪物に支配され、樹里を押さえつける兄の腕の中でジタバタと暴れる。とびきりのご馳走を目の前に「早く寄越せ……血だ……早く寄越せ……!」と内なる怪物が、頭の中で呻いた。
(ダメだ、手に掛けるわけには……!)
本能と理性のせめぎ合いに、樹里は思わず獅子の咆哮にも似たような叫び声を上げた。樹里を押さえる兄が、耳元で「樹里、しっかりしろ!」と心配して声を掛ける。
「もっとすんなりやるかと思えば……まだ理性が邪魔しているか。なら──」
本人は隠し通しきった気でいたが、実は樹里が儀式に乗り気でなかったのを樹里の父親は見抜いていた。そのため、樹里の食事から血液を抜くことで、儀式中に強い吸血衝動が起こるように仕向けた。だが、思っていたより樹里の理性が暴れる本能を無理やり抑え込もうとして、なかなか人間を噛もうとしない。それを察した樹里の父親は、懐からナイフを取り出すと──人間の手首に傷を付けた。
(──っ、この匂い⁉ まずい、理性が……!)
傷口から、新鮮で温かな血が垂れる。さらに強く鮮烈に漂ってくる甘美な匂いに、目に入る鮮やかな赤。
樹里の腕を拘束していた鎖が、鈍い音と共に引き千切られた。鎖の破片が部屋中に飛散する。樹里の兄は、飛んでくる鎖の破片を防ごうと樹里から離れてしまった。
「樹里っ────」
解き放たれた樹里は、一瞬で人間の元へ移動して血が垂れる人間の腕を掴んだ。近付いたことで、より強く感じる匂いと息遣いに樹里の理性は限界に迫る。
(やめろ、アタシは、ニンゲンの血なんか────!)
樹里の意識の抵抗も虚しく、本能のまま血の流れる腕に吸い寄せられるように顔を近付けて、鼻から大きく息を吸う。エーテルのごとき甘い鮮血の香りが快楽をもたらし、理性による制御が一瞬緩んだ。その隙に舌が伸ばされ──舌先に血液が触れた瞬間、残っていた樹里の理性が文字通り「プツリ」と音を立てて切れた。身体中の神経という神経に強い電撃が瞬く間に走り、思考回路は完全にショートした。
抑えの利かない樹里は、夢中で人間の手首の傷口に吸い付く。暫くして、血が出にくくなると……その視線は、人間の首筋へと移される。
人間の腕を掴んで乱暴に抱きかかえると、舌なめずりをしたのち──樹里は人間の首筋に牙を深々と突き立てた。
耳元で絶叫されようが、暴れられようがお構いなしといった様子で貪るように樹里は血を啜る。樹里が人間の生き血を口にするのはこれが初めてだったが、今の樹里に味わう余裕など皆無であった。
部屋には、樹里の息遣いと血を啜る音だけが響き渡る────。
やがて、樹里に襲われた人間は血をほとんど吸い尽くされ、すっかり生気を失ってしまった。ふと我に返ったのか、樹里はギョッとして慌てて人間から離れる。支えを失った人間は糸が切れた操り人形のごとく、力なく床に倒れ込んだ。
血塗れになった樹里は、わなわなと震えて膝から崩れる。口の中に残る生き血は大変美味であったが、同時に不味くもあった。
兄の通過儀礼や、ビデオではこのあと人間が息を吹き返して眷属となり、再び動き出す様を見てきた。だが──樹里が噛んだ人間は冷たくぐったりとしたままで、とても息を吹き返すようには見えない。
『稀にニンゲンが身体の急激な変化に耐えきれず、絶命してしまう場合が────』
思い出される教師の言葉。
「あ────」
周りで儀式を見守っていた者たちが、動かぬ人間の周りに集まってざわついていた。父親は「通過儀礼は無事、成功した」と宣言したが──樹里は、運悪く“稀”を引いてしまったのだった。いくら待てども、人間が息を吹き返すことはない。
あれだけ強く、命を弄ぶような真似はしないと──あんなおぞましい怪物になるものかと、誓ったはずなのに。横たわる人間は無残な姿になっていた。
心臓の拍動に合わせて全身から脂汗が吹き出す。頭を鈍器で殴られたような目眩に樹里は襲われた。
「あ……ああ……」
樹里は頭を抱えると、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱してその場にうずくまり──喉がはち切れんばかりの喚声を上げた。
次に樹里が目を覚ますと、見慣れた自室の天井が目に入ってきた。強い倦怠感に、上体を起こすことすら億劫になる。
「あれ……アタシ……」
絞り出した声は掠れ気味だった。無理やり起き上がると、頭の中がぐわんぐわんと揺さぶられるような感覚に樹里は頭を押さえる。
窓の外に目を見やると、空は少しずつ明るくなっていた。意識が途切れてから、結構な時間が経過したのだと樹里は悟る。
あまりの気怠さにもう一眠りしようとしたとき、すぐ傍から寝息が聴こえてきた。視線を反対側に向けると──樹里の兄が椅子に腰掛けたまま居眠りをしていた。
「あ……にき……?」
樹里がポツリと呟くと、兄はハッと目を覚ます。
「樹里……! ようやく起きてくれたか!」
兄は飛び付くようにして、樹里のことを抱き締めた。突然のことに樹里は困惑する。
「兄貴、いきなりどうしたんだよ……」
「樹里、お前……三日間も眠りっぱなしだったんだぞ」
「三日……眠りっぱなし……? 何の──」
樹里が言いかけたとき、脳裏に忌々しい通過儀礼の様子がフラッシュバックしてきた。あのとき鼻に入ってきた匂い、目にしたもの、聴こえた様々な音、肌に感じた感覚、舌に広がった鮮血の温かさと味が、鮮明に蘇る。震え出した手を見ると、その両方が血塗れになっているように見えて────
「あ、ああ────」
「樹里!」
樹里は兄の腕の中で、再び叫喚する。
「……落ち着いたか?」
樹里が発狂してから大人しくなるまで、小一時間を要した。兄は、汗だくになった樹里の額を用意していた濡れタオルで拭ってやる。
「兄貴、どうしよう……アタシ……」
「樹里……」
兄は少し考え込んだのち、何か覚悟を決めた様子で旅用の大きな鞄を部屋の隅から手元に引き寄せた。
「なあ樹里、よく聞いてくれ。……この中には輸血パックとかお金とか、色々詰めてある。これを持って、なるだけ早くこの家を出ろ」
「え……」
「この家に居続けるのは樹里、お前自身のためにならない。このままここに居たら……お前の心が壊れちまう!」
そう言って兄は、もう一度樹里を抱き締める。
「本当はお前と一緒に行きたい、けど俺はもう大分周りのやつらに染まっちまったから……それでも、大事な妹のお前だけはなんとか守ってやりたい。お前の優しさを大事にして欲しいんだ」
「兄貴……」
「流石に今すぐ、っていうのは厳しいだろ? もう少し体力を回復させてから、ここを離れるんだ。……二日後くらいなら大丈夫そうか?」
「ああ、多分」
「そしたら二日後の早朝、荷物を持って出発だ。列車を使って、少し離れたところに向かうのが良いと思う。駅までは俺も付いていくよ」
「……分かった」
本当は、唯一の理解者である兄の元から離れたくないと樹里は思った。しかし、家に残る選択をすることは兄の覚悟を蔑ろにすることになってしまう。
「兄貴……ごめん……」
樹里の声は震えていた。兄は何も言わず、樹里の頭をそっと撫でた。
兄妹は突然残り僅かとなってしまった二人の時間を惜しむように、この日はずっと二人で寄り添ったままでいた。
迎えた、二日後の早朝。
こっそりと家を抜け出した兄妹は無事に最寄りの駅まで辿り着いた。
「樹里、これ」
兄は片道切符と共に、髪飾りを樹里の手に握らせる。
「樹里に似合うかな、って昨日慌てて探したんだ。……や、別に、絶対着けろってわけじゃなくて──」
「『これを見て、時々でいいから俺のこと思い出してほしい』って言いたいんだろ」
「ああ、うん。その通り」
「大丈夫、兄貴のことだけはぜってー忘れない。絶対に、だ。……本当にありがとな、兄貴」
樹里は兄の手を強く握り返し、切符と髪飾りを受け取る。そして、その場で髪飾りを着けてみせた。
「樹里……!」
「だって、今ここで見せなかったら二度見れないかもしれないだろ? 大事にするよ、これ」
樹里がはにかんだ瞬間、駅から汽笛の音が鳴り響いてきた。二人の別れを告げる合図だった。
「俺もそろそろ戻らなきゃならない。……樹里、気を付けてな」
「兄貴も、色々頑張れよな」
「おう」
二人は拳をぶつけ合うと、それぞれの方向へと歩み出す。ふと、兄が足を止めて振り返ると「いいか樹里、お前の信念を大事に生きろよー!」と叫んだ。樹里も振り向き「分かってるー! 兄貴も元気でなー!」と返事をした。
そのまま立ち止まって遠ざかっていく愛する妹の背中見つめて、樹里の兄は静かに涙を流した。
込み上げる涙を堪え、樹里は駅のホームを歩く。切符とにらめっこしながら、自身の乗り込む車両を探した。
「おや、そこのお客さん。車両をお探しですか?」
声を掛けられたので、樹里は顔を上げる。目の前には、肩やら腹やら少々露出度の高く白い衣服の少女が立っていた。愛くるしい顔立ちに……首から下げた、立ち売り箱。箱の中には飲料や軽食、菓子が綺麗に並べられていた。
「あ……この切符の車両なんですけど」
「それなら、この車両の二つ先のとこですね!」
「どうも、ありがとうございます」
「ところでお客さん、旅のお供にお菓子はいかがですか?」
「え? あー……や、今は結構です」
「そっかぁ、残念! 引き留めちゃってすみません、よい旅を!」
販売員らしき少女と別れると、樹里は教えられた車両に乗り込んだ。少しでも列車を満喫出来るようにと、窓際の席に腰を下ろす。
ポーッと汽笛の音が聴こえると、ガタンガタンと列車が動き始めた。
切符に刻印された、見知らぬ地名。少しの期待と大きな不安を胸に、樹里は生まれ育った故郷に別れを告げたのであった。
◇◇◇
列車が出発して数時間が経った頃。
水分を求めるものとは違う喉の渇きを覚えた樹里は、兄の言葉を思い出して鞄の中を覗いた。
「……あった」
取り出したのは、暗赤色の血液で充填された輸血パック。よく見かけるものより小ぶりで、ラベルを見ると飲み切りサイズの特注品であることが分かった。
「や、用意良すぎだよ兄貴……ははは」
血液を直で口にするのは気が引けたが、列車の中で発作を起こすわけにはいかない。腹を決めた樹里は、栓を開けて中身を口にした。一口飲み込むごとに喉が潤い、五臓六腑へと染み渡る感覚が身体中から伝わってくる。身体は癒やされるのに、気持ちがどんよりするギャップが樹里は気持ち悪くて仕方なかった。
「……あ、お客さん! また会いましたね!」
聞き覚えのある声に反応すると、駅で出会った販売員の少女が笑顔で立っていた。今度は立ち売り箱ではなく、カートにたくさんの品物を入れて押してきた様子。
(まずい、血を飲んでるところ見られた……!)
パックとはいえ血を啜っているところを見られた樹里は、少女の方を向いて固まってしまった。
「あっ……」
「え? ああっ⁉ お食事中に声かけちゃってごめんなさい! 見覚えのある方だったから、つい……」
販売員は「あちゃー」と頭を抱えてその場にしゃがみ込む。
「や、別に……その、気にしないでください。というか……アタシが怖くないんですか? ヴァンパイアなのに……」
樹里の言葉に販売員は顔を上げると、きょとんとした顔で「全然、怖くないですよ?」と返した。予想外の反応に戸惑ったのは、樹里の方だった。
「だって、怖がってたらこの商売成り立ちませんから! それにお客さん、ヴァンパイアにしては優しそうな雰囲気していますし……そうだ! これ、せっかくなんでサービスしちゃいます!」
そう言って販売員の少女はカートの中を探ると、一口サイズのチョコレートを渡してきた。
「血を飲まれる方に向けた、嗜好品のチョコなんです。ついこの間出たばっかりで……もし良かったら、召し上がってください!」
せっかくの厚意を断るのは気が引けたので、樹里はもらったチョコレートの包装を丁寧に取って口に入れた。程よい甘さが口に広がり、鼻に抜ける香りが心地良い。樹里の口元が緩んだ。
「……美味しい」
「よかった〜! ……ちなみにお客さん、血の味ってします?」
販売員の言葉に樹里は目を丸くする。舌と鼻に意識を集中させ、今一度よく味わってみるが、チョコレートの味と香りを感じるだけで血液の風味はほとんど感じられない。
「これ、血が入って……⁉ 全然気付かなかった……『吸血種向け』って、そういう」
「えへへ、お客さん珍しく血を口にするのが好きそうじゃなかったから……すみません、試すような真似しちゃって」
「とんでもない。お気遣い、ありがとうございます」
樹里が礼を言うと、販売員の少女は嬉しそうに笑った。
サービスしてもらった手前、このまま何も買わないのもどうかと思った樹里は、オススメ品のキャラメルを購入した。販売員曰く「カロリーはゴースト級なのでたくさん食べても大丈夫!」らしい。
「アンタ……失礼、あなたはゴーストなんですか?」
「そんな、言葉遣いなんて気にしないで! キャラメルを売買した仲じゃないですか〜」
「え? まあ、そうだけど……」
「ご指摘の通り、私はしがないゴースト! 智代子って言います! みんなからは『智代子ちゃん』『チョコちゃん』なんて呼ばれているんですよ〜」
「へぇ、ゴーストか! アタシが言うのもなんだけど、アンタもあんまそれっぽくないっていうか……あ、アタシはヴァンパイアの樹里。『樹里』でいいよ」
販売員でゴーストの少女、智代子はパァっと満面の笑みを浮かべると、樹里の両手を取って「樹里ちゃん! よろしくね!」とブンブン振った。落ち込んだり喜んだり、コロコロ変わる智代子の表情がなんだか面白くて、自然と樹里の顔も綻んでいた。
いつの間にか智代子は樹里の向かい側の席に座り、他愛もない話で盛り上がった。それから暫くすると、少し互いの踏み込んだ部分の話となり……
「私、ゴーストなのに驚かれたり怖がられる、っていうよりは……面白がられたり、楽しまれたりばっかりで! それに、壁をすり抜けるのがあんまり上手じゃなくて……えへへ」
「アタシはヴァンパイアだけど……通過儀礼がトラウマで、血を吸うことへの抵抗がすごくて」
気づいた頃には、互いに抱える悩みを打ち明けるところまで急速に仲が深まった。初対面で得体の知れない相手だったが、智代子のゴーストらしからぬ明るい雰囲気に、樹里はすぐに心を開いてしまったのだった。
「お互い、色々あるんだな」
「そうだねぇ」
二人がしみじみと窓の外へ目を向けると、空が茜色に染まり始めていた。今まで見てきた夕焼けと変わらないはずなのに、初めて見たときと同等の感動で樹里は胸がいっぱいになる。
すると、思い出したように智代子が「そういえば樹里ちゃん、銀河をつなぐ『黒猫列車』って知ってる?」と樹里に尋ねた。
「『黒猫列車』? 知らねーなぁ……」
「銀河に向けた運行をしてる列車のね、先駆け的存在らしいんだけど……それがね、復活するって噂があるの!」
「ぎ、銀河ぁ……⁉」
「そう、銀河だよ、銀河! もしかして樹里ちゃん、知らなかった?」
「まあ……そもそも、列車に乗ること自体これが初めてだし」
「そっかぁ」
列車の存在は知っていたものの、銀河を駆ける列車があることは初耳であった。樹里はそういう物語を読んだことはあったが、まさか実在するとは思わず驚いた。
「そんで、復活するって……どういうことだ?」
「ああ、それはね! 黒猫列車はずいぶん前に事件やら事故が多発しちゃって、追い討ちを掛けるように資金難で経営が厳しく……長いこと運休していたらしくて。これも噂なんだけど、復活に向けて新たにクルーを募ってるんだとか! いいなぁ……私も乗ってみたいなぁ、黒猫列車」
「へぇ……」
智代子が目を輝かせて思いを馳せる『黒猫列車』に、少し興味を持った樹里は頭の片隅で覚えておこうと思った。
日がすっかり落ちて夜がやってきた頃、樹里を乗せた列車は目的地へと到着した。
降車すると、そこには新旧様々な列車が幾つも並び、たくさんの乗客が行き交う圧巻の景色があった。近くには車両基地が見え、かなり大きな駅であることが伺える。
「す、すげー……」
樹里の居た街はいわゆる地方都市でそれなりに栄えていたが、降り立った先はそれ以上の大都市だったのだ。
「しかしここまで長かったな……アンタが話し相手になってくれて良かったよ。色々ありがとな」
「こちらこそ! 樹里ちゃんとたくさんお話できて楽しかったよ!」
二人は固い握手を交わす。すると、智代子が服のポケットからカードのようなものを取り出し、樹里に差し出した。
「もし何かあったら、この番号に電話してね!」
「おう、サンキュ…………チョコ」
「……! えへへっ!」
なんだか照れくさくなってしまい、二人は互いにはにかんでみせた。すると「おーい園田、いるなら戻ってこーい」と智代子は先輩の販売員から声が掛かり、ここで二人はお別れということになった。樹里は智代子の姿が見えなくなるまで見送り、市街地に向けて歩き出す。
「さすが大都市……アタシのいたところなんか比べものになんないくらい栄えてる」
市街地では夜であるにもかかわらず、夜行性の種族に混じって昼行性の種族の姿も結構見られた。街灯の整備がかなり行き届いているおかげのようだ。思っていた以上に、故郷の外のことを知らないのだと樹里は痛感する。
何より一番違うのは、周囲の視線。今までは恐怖心の籠もった視線を向けられていたのに、この大都市に来てからは視線すら感じない。それが樹里にとって、かなりありがたいことだった。周囲のことを気にせず街を闊歩できる喜びは、ピリピリと心地の良い刺激を与える。
(にぎやかな声が、こんなに心地良いなんて知らなかった)
市街地を進むと、あちこちから良い匂いが漂ってきた。焼き立てのミートパイにスモークチキン、新鮮な野菜を使った色とりどりのサラダ、じっくり煮込まれたスープ。他にも様々な店が自慢の品を店先で販売している。
いろいろな料理に目移りしていると、樹里の腹の虫がグウ、と鳴いた。せっかくだし、何か買って行こうと辺りを見回すと、パイ専門店の店員であるオオカミ人間から声を掛けられた。
「よう、そこの綺麗な金髪のお姉ちゃん! うちのミートパイ、ひとつどうだい? ほら、お姉ちゃんに特別、試食あげるからさ」
一口大のミートパイを店員から受け取り、口に入れる。パイはほんのり温かく、スパイスの香りが食欲をそそる。挽き肉と玉ねぎ、それとジャガイモの旨味が噛むほどに広がる逸品だった。
「う、うめー! こんなに美味いミートパイ、初めてだ……!」
「おお、そうかい! 美人なお姉ちゃんに褒められたんだ、もし買ってくならオマケするぜ。ちょうど焼けたばかりの出来たてホヤホヤのがあるんだ」
「よし、買った!」
上手いこと乗せられたと思いつつ、パイの味に感動した樹里は、即決でミートパイを一つ購入。オマケで三つ増やしてもらい、なんとアップルパイ一つも付けてもらった。
パイ専門店の店員はオオカミ人間だったが、他の店に居た別の種族の店員からも、特に怖がられたり引かれるようなことはなかった。
「へへっ、すごく充実した気分だ……! 早く今日の宿を探して、買ったパイを食べなきゃだな」
樹里は熱々のミートパイとアップルパイが入った紙袋を片手に抱え、軽い足取りで宿が幾つも集うエリアへと向かう。
大きな駅を抱えていて乗客の往来が多いためか、宿泊施設の数もなかなかのものだった。大小、グレードもバリエーション豊かである。
選択肢はたくさんあったが、樹里は今夜の宿を既に決めていた。列車から降りたとき、智代子の知り合いが営む宿を教えてもらったのだ。
教えられた宿屋の名前を探しながら、街の中を進んでいく。
「……お、あれか」
少し先に、目的の宿屋が見えた。まだ紙袋の中身は温かい。
いくつかの店で試食をした樹里の食欲はピークを迎え、宿へ向かう歩みは小走りに。
あともう少し、というところで樹里は足を止めた。
建物と建物の間にある小路に見える、少女と数人の男の姿。少女の種族は黒猫のようで、頭の猫耳はぺたりと伏せられていた。
多少街灯の光が差しているとはいえ、薄暗いために周りの通行人は気付いていない様子。だが、暗がりでも目の利く樹里にははっきりと見えていた。
(どう見ても……普通じゃねーな)
通行人の流れを横切って樹里は小路の方へ急ぐ。
「……で、ですから! このホイッスルは大切なものなので、わたすことはできませんっ!」
少女の声が、街に溢れる賑やかな声の中をくぐり抜けて樹里の耳へと届いた。意識を向けているのもあるが、吸血鬼の樹里は五感も優れているおかげでもある。
「……おい、アンタたち」
樹里は小路の入口にたどり着くと、険しい表情で男たちに声を掛けた。痩せ型のゴブリンの男が三人。
「ああ? なんだテメェ」
奥で震える少女を目で捉えつつ、小路へ一歩踏み出す。
「小さい子相手に三人がかりで何してんだ?」
「何でも良いだろうが、口出しすんじゃねえよ!」
「見ねえカオだな……テメェ、観光客か?」
「観光客なら、それなりにカネも持ってるだろ! ちょうど良い、コイツから色々巻き上げてガキからホイッスルを頂戴すりゃあ大儲けだ!」
よく見ると、少女は首から金色のホイッスルを下げていた。それを大事そうに握り締めて縮こまっている。
早いところ男たちに退散してほしいところだが、大きな騒ぎにもしたくない。そうなると、他に頼るものは──
(あんまり使いたくねーけど、こればっかりは……)
樹里は腹を括ると男たちを睨みつけた。そして、その視線に念と魔力を込める。
「……二度は言わない。今すぐここから立ち去れ」
強い語気で言い放つ樹里の瞳が、赤く染まった。
次の瞬間、男たちの動きがピタリと止まり、目を身開いたかと思うと虚ろな目をしてフラフラと去ってしまった。
男たちの姿が見えなくなったのを確認して、樹里は大きな溜め息を吐く。幸い、抱えた紙袋の中身はまだ温かい。
「なあ、大丈夫か? ……さっきはごめんな、怖がらせちまって」
樹里がそっと少女の頭を撫でると、強張っていた少女の表情が少し明るくなった。伏せられていた少女の猫耳がピンと立ち、外側に向けられて気持ち良さそうに目を閉じる。
「あ、あの……さっきはありがとうございました! スッゴくカッコよかったです!」
少女はキラキラと目を輝かせ、真っ直ぐな視線を樹里に送る。
「え? か、かっこいい……?」
「はい! 眼がぼうっと真っ赤に光って……それで、ひとこと言っただけで追い払っちゃうなんて……!」
「……」
今ここで、自分が吸血鬼であることを教えたら少女はどう思うのか。樹里は不安を抱いた。
恐らく、さっき飲食街に居たのは大人ばかりだったから自身の種族について何もなかったのだろうが、目の前の少女は違う。まだ幼い子どもだ。
「どうかしましたか?」
樹里に向けられる、純真無垢な瞳。迷ったが、黙ったままの方が良くないと思った。
「……あのな、実はアタシ、ヴァンパイアでさ。さっきのやつらを追っ払ったのは、その力なんだ。結構怖い力だろ?」
自嘲気味に樹里が話すと、少女は怯えるどころかさらに輝きを増した眼差しで樹里を見つめる。
「ヴァンパイア……! スゴいです、初めて会いました! あのっ、もしかして……キバもあるんですか⁉」
「え? ああ、まあ……ほら」
「わあっ! スゴい、本物ですっ……!」
まさかの反応に、樹里は思わず「ええ……」と声を漏らしてしまった。拍子抜けたというか、相手の出方にビビっていた自分が少しアホらしいと思った。
すると、少女のお腹からグウと音がして、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「腹、減ったのか? ……そうだ、ミートパイ──は玉ねぎが入ってるから……これ。お前にやるよ」
少女が黒猫であることを考慮して、樹里はオマケでもらったアップルパイを差し出した。
「いいんですか、これ……」
「ああ、もちろん。ゆっくり食えよ」
樹里からアップルパイを受け取ると、黒猫の少女は嬉しそうに齧り付いた。少女はパイを美味しそうに食べると目を細める。
「もぐ……ん、すみません。助けていただいたうえに、アップルパイまで……ありがとうございます!」
「これくらい、いいってもんよ」
「本当に、ありがとうございました! えっと、お名前は……」
「樹里だ」
「はいっ、樹里さん!」
樹里「さん」というのがむず痒く感じた樹里は「『さん』はいらねー。『樹里』でいいよ」と少女の頭を撫でた。
「分かりました、じゃあ『樹里ちゃん』って呼ばせてください!」
「……ま、それでいいよ。お前は?」
「あたし、果穂っていいます! 黒猫です、にゃあん!」
「黒猫の果穂か。ほんっとカワイイな、お前」
気付くと樹里の頬は緩みきっていた。果穂も相当懐いたのか、樹里の腕にすりすりと頬を擦り付ける。
いつまでもこのままでいたかったが、元は宿へ急いでいたことを思い出した樹里は「果穂、アタシはそろそろ行かなきゃなんねー。気を付けて帰れよ」と別れようとした。
すると、果穂が樹里の服の袖を掴んで「あ、あの! 待ってください!」と呼び止めた。
「ちょっと、その、ご相談が!」
「相談?」
「はい。あの、樹里ちゃん……あたしの『見届け人』になっていただけませんか!」
聞き慣れない言葉に樹里は「見届け人?」と繰り返す。果穂はうんうんと頷くと「私、『黒猫列車』の車掌の後継者候補なんです!」と切り出した。「黒猫列車」に樹里の眉がピクリと反応する。
「黒猫列車って……あの……?」
「樹里ちゃん、知っているんですか⁉」
「え? ああ、知り合いに聞いてな。今度、復活するって」
「──っ! そうなんです! 今、黒猫列車の復活に向けて、養成学校で訓練やお勉強をしています! 今は、その帰りで……」
「なるほどな」
この時間に一人じゃ、変な輩に絡まれるのも無理はない。観光客の往来が多い分、そういうのを狙う不届き者は少なくないのだろうと察する。
「で、その『見届け人』ってのはどういうことなんだ?」
「はい、今回はあたしの他に後継者候補がいなかったので、特例で先にこのホイッスルを預かったんですが……これをねらう人が、たくさんいるんです」
「さっきのやつらみたいなのが、他にもいるのか」
「そうなんです。あたしたち黒猫はあんまり強くないので……それで、無事に車掌になるまでの間、誰かにそばで見守ってもらうように、って教官から言われていて……」
「それって、まさか……⁉」
「はいっ! 樹里ちゃん、あたしの『見届け人』になっていただけませんか!」
今日一番のキラキラした果穂の視線に、樹里は眩しそうに少し顔をしかめた。
決して、果穂の頼みが嫌なわけではない。力になってやりたいという気持ちよりも、不安の方が大きかった。
「……ダメ、とは言わねーけどよ。アタシ、ヴァンパイアだぞ? 教官とか果穂のご両親がオッケーしてくれると思うか?」
個人としては何もなくとも、種族として恐れられている自分に大事な役目を務められるのか、それが一番の不安材料だった。
しかし、当の果穂は樹里の不安をよそに「樹里ちゃんならきっと、大丈夫です!」と自信満々な様子。
「樹里ちゃんがスッゴく優しい人だって、あたしは知っていますから!」
果穂の言葉に、樹里はドキッとした。
「やさ……しい……」
樹里はポツリと言葉を繰り返し「……ったく、調子狂うな」と視線を逸して頭を掻いた。そんな樹里を見つめ、果穂はフンフンと鼻を鳴らして返答を今か今かと待ち望んでいる。
「とりあえず、アタシはいいけど……果穂のご両親と教官次第だ。それぞれから許可が下りたら、正式にオッケー、ってことでどうだ、果穂?」
「わかりました! 樹里ちゃん、よろしくお願いします!」
このあと樹里は果穂を家の玄関まで送り、目的の宿へ向かった。到着する頃には、紙袋の中身はぬるくなっていた。
「アタシが……優しい、か」
樹里は宿の一室で呟くと、少ししっとりとしたミートパイを齧りながら、果穂とのやり取りを思い返すのであった。
翌日、樹里は最初に迎えと両親へ挨拶をするために果穂の家へ向かった。
玄関前に立ち、手にした急ごしらえの手土産や身だしなみを入念にチェックする。
(もし受け入れてもらえなくても、そんときはそんときだ)
深呼吸を二回ほどして、呼び鈴を鳴らそうとしたときだった。
「あっ、樹里ちゃん!」
樹里が見上げると、二階の窓から果穂が顔を覗かせていた。
「待っててください、今行きます!」
パタパタと足音がしたかと思うと、勢いよく果穂が家の中から出てきた。
「よお、果穂。……とりあえず、あちこちハネてるから髪直してきたらどうだ?」
「えへへ、すみません……樹里ちゃんが来るのがとっても楽しみだったので……ちょっとだけ、待っていてください!」
そう言って果穂は慌ただしく髪を直しに一度引っ込んだ。
数分後、身だしなみをバッチリ整えて戻ってきた果穂は、自宅の中へ樹里を招き入れた。
「お邪魔します……」
そこから話は、あっという間だった。
果穂は既に樹里のことを両親に話していたようで、顔を合わせてすぐに前日の礼を言われた。そして、お茶と軽食を振る舞われ、本題についてはあっさり許可が下りたのだった。
話の最中、樹里は何度も自分が吸血鬼という、大多数から恐れられている存在であることを強調したのだが──それでも樹里なら大丈夫だと言われ、残りの時間は世間話で盛り上がった。
「なあ果穂、本当にあんなんで良かったのかよ」
果穂を連れて養成学校に向かう樹里は、不安げな表情で尋ねる。
「はいっ、大丈夫です!」
「ほとんど世間話しかしなかったけど……」
「樹里ちゃん、もっと自信持ってください!」
「そうは言われてもなー……」
何を以ってして「大丈夫」なのか、モヤモヤとした気持ちにデジャヴを感じる。
信頼を置かれていることが、今の樹里には恐怖でしかなかった。
(もしアタシが、果穂の目の前で誰かのことを傷付けたら……それだけじゃない、果穂に直接危害を加えてしまったら──)
悶々と考え込んでいると、隣を歩く果穂が心配そうな視線を樹里に向けてきた。樹里はハッとして、その場では一旦考えるのをやめ、気持ちを切り替える。
「さて……ここか」
足を止めた先には、果穂の通う養成学校の立派な門が二人を待ち受けていた。
果穂は直接教官の元に向かい、樹里は事務を通して応接室へと案内される。少し待つと、果穂と担当教官が部屋に入ってきた。
「……小宮君、こちらの方で間違いないんだね?」
「はいっ、教官!」
「ふむ、なるほど。初めまして、ええと、お名前は──」
「どうも、初めまして。西城樹里と申します」
「先ほど、小宮君からざっと話は聞かせてもらった。小宮君の見届け人を引き受けてくださる、とのことで……何卒、宜しく──」
「えっ⁉ ちょっと待ってください!」
樹里は教官の言葉を遮るように声を上げた。
「『よろしく』ってその……なんか、こう、試験とかは……ないんですか⁉」
「小宮君から、ご両親の承諾は得たと報告を受けている。あとは西城さん、改めて貴方に同意していただければ──正式に『見届け人』として、小宮君に付いて頂くことになる」
教官は手にした大きめの封筒から、数枚の書類を取り出し樹里に差し出す。一番上には「同意書」の文字が並んでいた。
「そうですか……」
樹里は書類を一つ一つ、ゆっくり目を通していく。その姿を果穂と教官が静かに見守る。部屋には、壁に掛けられた時計の針が進む音がカチコチと響き渡った。
一通り書類に目を通すと、樹里は荷物の中からペンケースを取り出し万年筆を手にした。
小さく「よし」と呟き、同意書の署名欄に自身の名前を綴っていく。最後に樹里は親指に軽く牙を立て、滲んできた血を指で紙に押し付け、捺印した。
「……お待たせしました」
署名をした同意書を教官に差し出す。果穂は固唾を呑んで二人のやり取りを見守る。
教官が短く息を吐くと、もう一つの署名欄に名前と捺印を済ませ、果穂に同意書を渡した。
「西城さん、ありがとう。あとは小宮君が書類を事務に提出すれば、正式な『見届け人』となる。改めて、何卒宜しく」
「はい、こちらこそ。お役目、きっちり果たしたいと思います」
樹里と教官は立ち上がると、固い握手を交わした。
「うう……やったー! 樹里ちゃん、ありがとうございます!」
すると、嬉しそうに果穂が樹里に抱きついてきた。
「……おほん、小宮君」
はしゃぐ果穂に教官が咳払いをすると、果穂はサッと樹里から離れて「えへへ……すみません。つい、嬉しくて」と照れながら謝った。
「では、早速──小宮君には事前に伝えたが、二人はこれから学校管理の寮に入ってもらう。西城さんも大丈夫だね?」
「はい、元々新たに住む場所を探そうと思っていたので、必要な荷物は全部持ってきています」
「なるほど。それでは小宮君、これを」
そう言って教官は果穂に鍵を二本渡す。
「それはいずれも、君たちがこれから生活する部屋の鍵だ。これから部屋まで案内しよう」
樹里と果穂が案内された学校敷地内の寮は、小綺麗な建物だった。
用意された部屋は二人でも十分な広さがあり、二人分の勉強机と二段ベッドが目を引いた。
「小宮君の家には、既に連絡を済ませてある。明日には必要な荷物が届くだろう。講義が終わったら今日は一度、家に帰りなさい」
「はいっ、分かりました!」
「西城さんは……少し、話したいことがある。話と言っても、堅苦しいものではないんだ。ここに残ってもらえるかね?」
「え、あ、はい……」
果穂はこのあとすぐに講義を控えているため「樹里ちゃん、行ってきます!」と元気に部屋を飛び出していった。
足音が遠のくのを確かめると、教官は「西城さん、これを」と先ほどとは違う書類と冊子を樹里に渡す。
「あの、これは……」
「ちょっとした『提案』をしたくてね。ただ『見届け人』として過ごすだけではいずれ退屈してしまう。まあ、強要するわけではないから、興味があればの話なんだが──」
果穂との寮生活が始まって数カ月。樹里はすっかり生活に慣れ、果穂の「見届け人」としての役目、そして──養成学校の学生としての日々を楽しく過ごしていた。
(まさか、こんなになるなんてな)
早朝、まだ果穂がすやすやと眠る中、樹里は机にテキストとノートを広げて講義の予習をしていた。
『西城さん、せっかくの機会だから──運転士について学んでみないか』
あの日、果穂の担当教官から見届け人としての務めをしつつ、樹里自身も学生として過ごしてみるのはどうかと提案があったのだ。
一応、樹里は義務教育と応用に値する教養を受けていたため、養成学校における教育課程を受けることが出来る状態にあった。
断ることも出来たのだが、家を飛び出してから何も目指すものがなかった樹里は、教官の提案を受け入れ果穂には内緒で運転士の養成課程を受けることにしたのであった。
「ん……」
果穂が目覚めそうなのを悟り、樹里はすぐに勉強道具を片付ける。あくまで「何かあったとき、食いっぱぐれないように」という目的で勉強しているため、果穂に期待を持たせないようにと必死に隠していた。
「んん……じゅりちゃん……?」
「おう、おはよ。まだ寝てていいぜ、起床時間までまだ時間あるからさ」
「はい……ありがとう、ございます……」
樹里は再び果穂が眠ったのを確かめると、参考書を取り出して寮で決められている起床時間までそれを読み込んだ。
それからは果穂を起こし、身支度を整えてから食堂に向かって二人で朝食を取り、それぞれのスケジュールをこなして一日を終えた。
暫くの間は大きな事故や事件に巻き込まれることなく、樹里と果穂はそれぞれの課程を順調に受けていく日々が続いた。
毎日やることはほとんど同じ繰り返しだけども、微妙に違う毎日。特に吸血鬼の永久に近い生涯からすると、ほんの一瞬の出来事になってしまうが、それでも樹里にとってかけがえのない日々であったことは間違いなかった。
目まぐるしく月日は流れ、そして──
「樹里ちゃーん! 樹里ちゃん樹里ちゃん樹里ちゃーん!」
「果穂! 最終試験、どうだった?」
「無事に……合格出来ましたー!」
「おお、やったな……! ってことは──」
「はいっ! これで、正式な後継者として『黒猫列車』の車掌になれます! やりましたー!」
迎えた果穂の最終試験の結果発表。
晴れて試験を突破し、歓喜に満ちた果穂を樹里は思い切り抱き締めた。
「良かったな、果穂! アタシも自分のことのように嬉しいよ……!」
「ここまで無事に来られたのは、樹里ちゃんのおかげですっ! ありが──」
感謝の言葉を口にしようとする果穂の口元を樹里は人差し指で抑えると、そのまま自分の口元で「シーッ」と合図した。
「果穂、今それを言うのはちょっと早いぜ。着任式のときに、改めてアタシに聞かせれくれよ、な?」
「……はいっ! えへへっ、今から式が楽しみです!」
樹里は果穂の朗報を嬉しく思う反面、任された「見届け人」としての務めの終わりを寂しく思った。
(果穂が車掌になるのを見届けたら、アタシは……)
このとき、樹里はこの先どう生きていくのか、まだ決めかねていた。養成課程を最後まで終えたとして、再び当てもなく放浪するか、或いは──
果穂の着任式は、一ヶ月後に執り行われることになった。
「樹里ちゃん、どうしましょう……」
「意外に探すの大変だな、クルー候補」
着任式まで二週間を切った頃。樹里は果穂と新たなクルー候補を探し回っていた。
「最低でも運転士と販売員が一人ずつ、それと警備隊が二人……すぐに集まりそうだけどな」
「今は銀河に向けた列車も増えたうえに『黒猫列車はもう時代遅れだ』っていう風潮があるみたいで……みなさん、他の列車を希望するみたいなんです」
「そうか……」
すると、樹里は「あっ」と何かを思い出して手帳を取り出した。パラパラとめくっていき、挟んであった一枚のカードを手に取る。そして、ニヤリと笑った。
「樹里ちゃん……?」
「……果穂。アタシに一人、心当たりのあるやつがいるんだ。連絡取ってみるから、少し待っててもらってもいいか?」
樹里は公衆電話に駆け寄り、カードに記載された番号へ電話を掛ける。呼出音が数回鳴り──目当ての人物の声が聞こえた。
『はい、もしもし……』
「もしもし、チョコか? アタシだよ、樹里」
『えっ……樹里ちゃん⁉ あのときの⁉』
声の主は、樹里が家を出てから一番最初に仲良くなった、ゴーストの智代子だった。以前会ったときより、声のトーンがどこか落ち込んでいるように聴こえる。
「ああ! なあチョコ、折り入って話があるんだけど……今って大丈夫か? 仕事中だったら──」
『それがね、樹里ちゃん。色々と諸事情があって、前のところクビになっちゃったんだよね……えへへ』
「だから前よりテンション低かったのか……。なら、好都合だ。──なあチョコ、アンタの力が必要なんだ」
『私の……力?』
電話越しに困惑する智代子。樹里は話を続けた。
「前にアタシに『黒猫列車』のこと教えてくれたとき『乗ってみたい』って言ってたろ? ちょうど今、販売員を探し回ってるんだ」
『え? それって、まさか──』
電話から数日後。街の喫茶店で樹里と果穂、そして智代子がテーブルを囲んでいた。
「は、初めまして……列車の販売員やっていました、ゴーストの智代子です……」
珍しく緊張した様子の智代子に、樹里は「なんだよ、そんなガチガチになんなくてもいいじゃねーか」と茶々を入れる。
「だ、だってさぁ……何かの冗談だと思うでしょ、普通は……! まさか、憧れの列車の、それもクルーになれるかもしれないって……」
「だから、ウソじゃねえって。な、果穂?」
「はいっ!」
果穂はいつも以上に元気によく返事をする。
「チョコはな、販売員として列車のクルーの経験があるんだ。先輩として、頼りになるんじゃないかってアタシは思うぜ」
「それじゃあ……『ちょこ先輩』ですね!」
「せ、先輩っ⁉ いやいや、私はそんなガラじゃないって〜! ……でも、本当に私でいいの? 他に希望する子とか……」
「散々探し回って、ようやく見つけたのがチョコなんだ。チョコさえ良ければ、果穂の仲間になってやってほしい」
「私で、いいんだったら……」
智代子の言葉に、果穂は目を輝かせて手を取った。
「ほんとですか⁉ ちょこ先輩!」
「乗務経験って言っても、あくまで販売員としてだから……先輩としては頼りなさすぎるかもしれないけど、よろしくね、果穂!」
そう言うと、智代子は手を握り返して果穂と握手を交わした。その様子に、樹里はホッと一息吐く。
「ちなみにさ、チョコ。運転士とか、警備隊に良さげな知り合いって誰か心当たりあるか?」
「うーん……警備隊に合いそうな子だったら、二人ほど……ちょっと変わった子たちだけど、悪くないと思うよ」
「だってさ。果穂、どうする? 会いに行ってみるか?」
「はいっ、ぜひ!」
更に数日後、樹里と果穂は智代子の知り合いに会いに行くこととなった。
紹介された二人は、いずれもかなり個性的な面々で──必死の交渉や手伝い、そして激闘の末『黒猫列車』の警備隊としてスカウトすることに成功した。
「魔法使いの……凛世と申します」
「人造人間コード【8-16】、通称『夏葉』よ」
大きく黒い魔女の証とも言える帽子に不思議な人形を手にした魔法使いの凛世に、頭に刺さった二本のボルトと血色の良い肌をした人造人間の夏葉。
凛世は優れた魔法使いであったが、詠唱が丁寧過ぎるが故にかなりゆっくりであったために、なかなか見合う仕事が見つからず苦戦をしていた。
また、夏葉は「フランケンシュタインの怪物」を参考に造られた人造人間であったが、創造主の意に反して強い自我を持ったことで引き取り手を募られていた。
顔合わせを行うと、凛世と夏葉は互いに何か感じるものがあったようで、互いに「危険なのはそっちです(よ)」と何やら牽制し合っていた。
「樹里ちゃん、ちょこ先輩! ありがとうございます! あとは……」
「運転士だけ、だな」
「でも、運転士ってそもそも成り手が他に比べて少ないんだよねぇ……結構厳しい関門をくぐり抜けなきゃいけないから……」
三人が頭を悩ませていると、凛世が「あの……」と少々申し訳なさげに声を掛ける。
「樹里さんは……?」
「アタシか? アタシは無事に果穂が車掌になるのを見届けるだけの役目だから……」
「なら、アナタが運転士になればいいじゃない。そうすれば、ちょうど必要な人員が揃うでしょう?」
「あのなぁ、簡単に言うけど……チョコが言ってたろ、なるのが難しいって。だからアタシには無理だっつーの」
と言いつつ、樹里はこのとき運転士の養成課程を残すところあとは実習や研修、最終試験といったところまで進んでいた。
自分が運転士になることが、一番手っ取り早いことは誰よりも樹里自身が理解している。だが、運転士に伴う責任の大きさを考えると、自分にそれを背負うだけの覚悟がいまいち出来ずにいた。
「あともうちょっとなのに……」
少し落ち込んだ様子の果穂に、樹里の胸が締め付けられた。
その後も着任式の前日まで五人で運転士候補を探し回ったが、結果は惨敗。誰一人見つけることが出来ずに、いよいよ果穂の着任式の日を迎えたのだった。
「……果穂、緊張してんのか?」
「はい……」
車掌としての制服に身を包んだ果穂、は鏡の前で緊張のあまり、表情が硬くなっていた。
「大丈夫、制服似合ってるよ。自信持って行ってこい」
樹里はそっと果穂の頭を撫でてやる。リラックスしたのか、強張っていた頬が少し緩んだ。
果穂はホイッスルを首に掛け、白い手袋を身に着けて襟を正す。
「……そろそろだな」
「はい。あ、あのっ、樹里ちゃん……ここまでほんとに、本当にありがとうございました! 樹里ちゃんがいたから、あたしはここまで無事に来れました。感謝してもしきれません」
「礼を言うのはアタシの方だよ、果穂。あんま先のこと考えずに家を出て、当てもなく放浪しようとしていたアタシに居場所をくれたんだ。……ありがとな」
二人が握手を交わして抱き合った、そのとき。会場の方から突如、悲鳴と轟音が響き渡ってきたのだった。
「おい、何事だ⁉」
樹里は庇うように自身の胸へ果穂を抱き寄せる。そんな二人の元へ、慌てた様子の智代子が飛び込んできた。
「二人とも、大丈夫⁉」
「アタシらは平気だ! それよりチョコ、この騒ぎは
一体⁉」
「『黒猫列車』の復活を聞きつけた強盗団が色々狙いに来たみたいで……多分、あの人たちが一番欲しがってるのは果穂の持ってるホイッスルだと思う」
「チッ、またか……!」
樹里が怒りに満ちた表情で表に出ようとすると、その手を智代子が掴んで止めた。
「待って、樹里ちゃん」
「……何のつもりだよ、チョコ」
「言ったでしょ、強盗団の一番の狙いは『果穂のホイッスル』だって! 樹里ちゃんが今ここで出て行ったら、果穂の身が危ないよ! 私じゃ戦力にならないし……」
「でも!」
「樹里ちゃん、ちょこ先輩っ……!」
すると、何処からともなく「アナタたち、ここは警備隊の私たちに任せなさい!」と威勢の良い声が響いた。
次の瞬間、三人の居た部屋の壁に大穴があいたかと思うと、土埃の中から凛世と夏葉が姿を現した。
「列車には……魔法で強力な防御壁を施しましたゆえ……部品を盗られる心配はございません……」
「今、連中は果穂のことを血眼になって探しているわ。だから樹里、アナタは果穂の傍に付いていなさい。有象無象を一掃するのに、アナタが力を振るう必要はない。力の使いどころをきちんと見極めなさい!」
「随分上から来るのは納得行かねーけど……分かった。二人とも無理だけはすんなよ!」
樹里が果穂と智代子を連れてその場を離れようとしたとき、ちょうど外から強盗団の下っ端が大勢入ってきた。
凛世と夏葉が応戦するのを横目に、樹里たちは非常口から脱出を試みる。
「よし、二人とも! ここから外に出るぞ!」
樹里が非常口を開け放つと、そこには────
「……読み通りだ、見つけたぜ」
強盗団の親玉とその取り巻きが、三人を待ち構えていたのだった。
すかさず樹里は背後から追手が来ないことを確かめたうえで、自身の後ろに果穂と智代子を隠すようにして前に立つ。
「そのホイッスル、渡してもらおうか」
「テメーら……果穂の大事な式典メチャクチャにしやがって、タダで済むと思うなよ?」
文字通り樹里が牙を剥くと「随分と生意気なガキだと思ったらオマエ、同族か」と相手が好都合だと言わんばかりに笑みを浮かべた。
「その辺のザコな種族なら、いくらか手加減してやろうと思ったが……同族ならその必要はなさそうだな」
「それはこっちのセリフだ、変な気ィ遣わずに済みそうで何よりだぜ。さっさと片付けて、全員まとめて警察に突き出してやるよ」
「たわけ……! お手並み拝見だ、やれ!」
親玉の号令で、取り巻きたちが樹里に向かって突進してくる。
樹里は出来る限り果穂と智代子から離れぬように、二人を庇いながら相手をした。可能な限り大きな怪我を負わせないよう、カウンター攻撃で敵を気絶させていく。
「おい、オマエ……さっきから威勢が良い割には全然自分から手ぇ出さねぇじゃねぇか! ……ナメた真似しやがって」
取り巻きのほとんどが倒れたところで、親玉が残っていた取り巻きの一人を呼び寄せた。すると、取り巻きは糸が切れたように意識を失い、親玉がその肩口に思い切り噛み付いた。
「────っ⁉」
瞬間、樹里が目を見開いて動きを止めた。ドクン、心臓が大きく跳ねる。
この「何か」が奥で目覚めるような不気味な感覚を樹里は知っていた。
数メートル先から漂う、甘美な香り。それは樹里の思考回路を狂わせ、心身を興奮状態にさせる。
明らかに様子がおかしい樹里の背中を見て、果穂は心配そうに呟いた。そんな果穂を智代子は咄嗟に抱き寄せる。
「樹里ちゃん……?」
「もしかして、あの噛まれてるのって──」
親玉が噛み付いた相手、それは──眷属にされた人間だった。
人間の新鮮な血液の匂いに、樹里の抑え込んでいた本能が疼く。
(クソッ、ニンゲンがいるなんて聞いてねーぞ⁉ ああダメだ、果穂やチョコの前で理性吹っ飛ばすわけにはいかねーってのに……!)
肩で大きく呼吸をし、歯を食い縛る樹里の表情は鬼気迫るものだった。
樹里が本能に抗う様に気付いた親玉は、勝ち誇ったように笑う。
「……オマエ、同族のクセに粗末なモンしか口にしてないな? 恥晒しめ……オレに喧嘩売ろうなんざ、一〇〇年早いんだよ!」
一気に距離を詰められ、樹里は頬に一発拳を食らった。ほぼノーガードだった樹里は、簡単に吹っ飛ばされてしまう。
殴られてフワリと宙に浮いた樹里は、地面に叩き付けられるように落下してその場に倒れ込んだ。
「樹里ちゃんっ!」
果穂が駆け出しそうになるのを智代子はグッと引き留めた。
「ちょこ先輩、このままじゃ樹里ちゃんが……!」
「分かってる、でも……!」
すると、二人の元へ強盗団の親玉が迫ってきた。
「さて……抵抗はムダだと分かっただろう? 早くそのホイッスルを寄越しな」
「い、イヤです! あなたのような悪いひとに、これをわたすわけにはいきません!」
「果穂っ……!」
「この……ガキが!」
苛立つ親玉が、果穂と智代子に向かって手を振り上げた、そのとき。
激しい咆哮にも似た叫び声を上げた樹里が親玉の背後から飛び掛かり、その肩口に思い切り牙を立てたのだった。
「クソ、コイツ……⁉」
樹里は親玉の血を三口ほど啜って飲み込み、再び殴られる前にパッと舞うように離れた。着地するなり、血塗れの口元を袖で拭う。
「ハァ、ハァ……まっずいな……ルーツはニンゲンって言っても、やっぱヴァンパイアは微妙に違うんだな……へへっ」
樹里はそう言って不敵な笑みを浮かべる。その瞳は赤く輝いていた。
「じゅ、樹里ちゃん……!」
「……果穂、それにチョコ。あんまこういうとこ見せたくなかったんだけど──これが本当のアタシなんだ。すげー怖いだろ? ……ごめんな、すぐ終わらせるから」
ちょうど肩口の傷の再生を終えた親玉が、怒り狂った表情で樹里に向かって突進してきた。それを躱すと、樹里の動いた軌道を追うように赤い残光が走る。
樹里は飛んでくる拳を全て受け止めると、ガラ空きになった相手の鳩尾に蹴りを入れた。
重い一撃を食らって転がるように倒れた親玉の元へ、パッと樹里が瞬間移動するなり胸ぐらを掴んで相手の眼を覗き込んだ。
「観念して大人しくしろ!」
樹里の瞳の輝きが増し、強盗団の親玉は糸が切れたように気を失ってドサリ、と倒れた。
そこへ、強盗団の下っ端の相手をし終えた凛世と夏葉が駆け付けた。
「良かった、無事か……わりーけど、あとは頼んだ」
果穂と智代子が駆け付けた二人に保護されるのを見届けると、樹里は気が抜けたのか気を失ってしまった。
このあと、樹里は近くの病院へ運び込まれ、強盗団は親玉を含めて全員がお縄となったのであった。
「……これで、いいんだよな」
退院して数日後の早朝、樹里は沢山の荷物と共に養成学校の門の前に佇んでいた。
「部屋に手紙は置いてきたし……うん、大丈夫」
先の一件で、隠していた自身の本性を果穂たちに晒してしまった樹里は「これ以上自分と一緒にいるのは良くない」と静かに去ろうとしていた。
「あーあ……やっぱ損だよな、ヴァンパイアって。もしアタシが違う種族に生まれていたら、きっと──もっと一緒にいられたのにな」
樹里は寂しそうに独り言つと、踵を返して門に背を向ける。きゅう、と締まる胸を握り「……じゃあな」と震える声で別れを告げた。
荷物を手に取り樹里が歩きだした、そのとき。背後から誰かが物凄い勢いで樹里に抱き付いてきた。あまりの勢いに、樹里は思い切りつんのめりそうになる。
「うおっ⁉」
樹里が振り向くと、跳ねた髪と黒い猫の尻尾が目に入った。
「か、果穂……?」
「樹里ちゃん、行かないで……」
顔を上げた果穂の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。樹里の服を掴む手が、ギュッと握られる。
「どうして……いなくなろうとするんですか。あんな手紙を置いていって……ひどいです」
「んなこと言われても……見たろ、アタシの本当の姿。もしかしたらこの先、果穂にもっと怖い思いをさせるかもしんねーし……傷付けちまうかもしれない。だから……こうするしかないんだ」
無理やり樹里が歩きだそうとすると、腕を果穂が両手で掴んできた。
「か、果穂……!」
「樹里ちゃんがいなくなるのをやめるまで、この手は絶対に離しません。爪も立てます」
「おい、果穂!」
「樹里ちゃんは怖くありません。ちょこ先輩も凛世さんも夏葉さんも、樹里ちゃんのことを怖がっていません。ボロボロになっても、あたしたちのことを守ってくれた樹里ちゃんが怖いはずありません!」
「……でも、もうお前の『見届け人』としての役目は終えたんだ、これ以上残る理由が──」
「『黒猫列車』を復活させるには、あとひとつ足りない役職があります」
足りない役職、その言葉に樹里はハッとした。
「運転士がまだ見つかっていません。銀河を駆ける『黒猫列車』は、暗闇の中を進んで行かなくてはいけません。ヴァンパイアは、暗闇がとっても得意な種族だって聞きました。だから──『黒猫列車』の運転士になってくれませんか、樹里ちゃん……!」
「アタシが、運転士……」
「樹里ちゃんならきっと良い運転士になれるはずです。優しい樹里ちゃんだからこそ、ピッタリだと思うんです!」
本当は、樹里も果穂たちの前から去るのは心苦しくて仕方なかった。心の内では「運転士になってほしい」という言葉を待っていた。
(果穂に言わせるなんて……とんだ卑怯者だな、アタシ)
すると、果穂が目から大粒の涙と鼻水を流してよりグズグズになった顔で樹里に視線を送ってきた。
「ぐすっ、じゅりちゃん……! いかないでください……!」
ここで誘いを断ったとして、行く当ては──ない。
「居場所……」
「居場所なら、ここにあります……! 樹里ちゃんはもう、一人じゃありませんっ!」
「一人じゃ、ない……?」
天を仰いだ樹里の頬に、涙が伝った。
「アタシ……果穂たちと、一緒にいていいのか……?」
「いいに決まってます! そうじゃなきゃ、こうして引き止めません」
「────っ」
静まり返ったところに、バタバタといくつかの足音が近付いてくる。
「果穂ーっ! 樹里ちゃーん!」
「ちょこ先輩……それに、凛世さんと夏葉さんも」
二人の元へ智代子と凛世、夏葉が駆け付けた。
「もう、樹里ちゃんってば! 私を推薦しておいて急にいなくなろうとするなんて……! みんな心配したんだよ!」
「チョコ……みんな……」
後から駆け付けた三人にバレないよう、上を向いたまま涙を拭って樹里は尋ねた。
「なあ……アタシに、時間をくれねーか……」
「時間、ですか……?」
「……実習と研修、それに最終試験が残ってる」
「え、樹里ちゃん、それって──」
「……果穂やみんなには内緒で、運転士の養成課程を受けてた。黙ってて、ごめん。それで……数年掛かるかもしんねーけど、それでもいいのか?」
四人は顔を見合わせると、声を揃えて「もちろん!」と答える。その声に樹里が四人の方に向くなり、果穂が胸に飛び込んで来た。
「ははっ……! 果穂、ひでー顔してんな……!」
「樹里ちゃんのせいです! えへへっ……!」
◇◇◇
「樹里ちゃん! 大丈夫ですか!」
駅の仮眠室に、おしぼりをいくつか手にした果穂が入ってきた。
「ああ、チョコが血液飲料(これ)を持ってきてくれたおかげでな」
「よかった……! あ、これおしぼりですっ」
「サンキュー、果穂」
果穂からおしぼりを受け取ると、樹里は汗の滲んだ顔や首周りを拭く。
「あっ、樹里ちゃん! そういえば、お兄さんからお手紙届いてたよ!」
「兄貴から? 分かった、あとで確認しとく」
「樹里ちゃん、次の運行まではたっぷり時間があるのでゆっくり休んでくださいね!」
「了解、か──いや、車掌。運行までにバッチリ体調整えるから、待っててくれよな」
「はいっ! それではちょこ先輩、引き続き樹里ちゃんのことをよろしくお願いします」
お辞儀をするなり、パタパタと慌ただしく果穂は仮眠室を後にした。
「樹里ちゃん、体も拭いた方がいいんじゃない? 脱いだ服は私が持っておくから、はい」
「悪い、助かる」
樹里は服を脱いで智代子に預け、果穂が置いていったおしぼりで体も拭いた。スッキリした顔になった樹里は、きっちりと服装を整える。黒を基調とした服に、肩章とファーをこしらえた短めのマント、黒薔薇のレース状のクラバット。ひとつひとつ丁寧に身に着けていく。
右の胸元にある、クルーの証である金色の四芒星のバッジが月光を受けてキラリと輝いた。
「樹里ちゃんの制服、いつ見てもカッコいいよねぇ」
「……ちょっと恥ずかしいけどな」
「ところで樹里ちゃん、前に別の世界のゴースト友達と身内のヴァンパイア談義になったんだけどね」
なんだそれ、と言わんばかりに樹里は眉をひそめた。
「その子の友達のヴァンパイアはね、自分のことを『夜の支配者』って言うんだって。そういえば、樹里ちゃんの口からは聞いたことないな〜って」
「あー……それ、他所でも共通認識なんだな。うーん……アタシは別に夜がヴァンパイアだけのものだ、って考えてねーからな……」
「じゃあ、樹里ちゃん的に言うなら?」
「そうだな……まあ、暗いとこの方がより力出せるし『暗闇の眷属』って感じだな」
「わあ、樹里ちゃんらしい!」
智代子の反応に、照れた樹里は「んだよ……」とそっぽを向いてしまった。
物の怪たちが住まう世界で、銀河を駆ける『黒猫列車』。
「時刻表確認、──駅定時」
そのハンドルを握るのは、金髪の若い吸血鬼。
パックの血液飲料でないと血を口に出来ない、優しすぎる少女は指差喚呼を行うと「夜を駆けるなら『暗闇の眷属』にお任せだ」と笑みを浮かべた。その双瞳が赤く輝くと、少女はレバーを引く。
ガタン、と列車が動き出し、徐々にスピードを上げると夜空に向けて宙を駆けた。
大切な居場所と仲間を得た吸血鬼の少女は、今宵もクルーと乗客を乗せ、列車と共に広い銀河を駆けて行く──