2021/2/4 02:06想いやりラストパス
 ─7月某日
 覚えているのは、セミの声がやけにうるさい日だったということだけだ。足首の痛みも、医務室の冷房も、真っ白な天井に塗りつぶされるようになにも感じなかった。試合終了を告げる笛の音は、しかしアタシには他人事のように響き、すぐにまたセミの声に掻き消された。
 少し昔の夢を見ていた気がする。ぼんやりとだけど、ただあまりいい夢ではなかった。まだぼやける意識のなか、パタパタと廊下を駆ける足音に気づき体を起こした。
 三者三様ならぬ、五者五様といえばいいのか。アタシの所属しているアイドルユニットは、年齢も性格も考え方もみんなバラバラで、個性に溢れている。だから、こうして足音一つ聞けば誰が来るかなんて容易にわかるようにもなっていた。
「おはようございます!」
 開口一番、ドアが開くのと同時に元気なあいさつが飛んでくる。予想通り、足音の正体は果穂だった。
「おはよう、果穂」
「あっ!樹里ちゃん!プロデューサーさんから聞きましたか?」
 息巻く果穂とは対照的に、アタシは落ち着いて返す。
「ああ、聞いたよ。アタシらみんな通ってるんだし、アイツも直接会ったときにでも言ってくれればいいのにな」
 片手を上げて呆れた仕草を取ると、果穂は笑う。
「早く伝えたかったんだそうです!これでW.I.N.G.2次予選も突破しましたし、あと半分頑張りましょう!」
 果穂の元気に圧されるようにガラにもなく「おー」と応えた。しかし、そんなアタシに果穂が近づいて、
「樹里ちゃん、嬉しくないですか…?」
 問いかけてくる。
「…え?」
 思わず上ずったような声をあげてしまい口元を押さえ目線を落とす。…いや、そんなことより、アタシ今笑えてたよな…?一瞬泳いだ目を再び果穂に向けるが、依然心配するように覗き込んでいる。
 ハッとしたのは、果穂のほうだった。
「あ、あの、ごめんなさい!あたし変なこと聞いちゃいましたよね!えっと、忘れてください!」
 そう言うと荷物をまとめ、
「あっ!あたしこれからレッスンがあるんでした!早く行かなきゃ!」
 そう言って、呼び止めるよりも早く行ってしまった。
 ─クソッ、なにやってんだ、アタシは。果穂にまで気を遣わせて。もう失敗しないって決めたのに。変わるんだろ。変わらなきゃ、また繰り返しちまうだけだろうが。
 ほどなくして違う足音が響く。忙しないが律儀さも感じさせるこの足音は。
「おお!樹里、来てたのか」
「さっきメッセでも伝えたが、2次予選突破、おめでとう!」
少し息を切らしながら、無邪気にはしゃぐ子供のように満面の笑みのプロデューサーが入ってきた。
「ああ」
「なんだあんまり嬉しくなさそうだな」
首元まで締めていたシャツのボタンを外しながら、不思議そうに問いてくる。
「そりゃ何回も聞いてるからな。だんだん薄れてもくるだろ。逆にアンタはなんでアタシより嬉しそうなんだよ…」
「そりゃだってなぁ…」
「担当アイドルが順調に勝ち進んでたら嬉しいだろ」
「なんだよ今の妙な間は」
 アタシが咎めるのを笑って誤魔化す。
「まあいいよ。で、話しってのは?」
 プロデューサーからの連絡の用件は2つ、2次予選突破と、話したいことがあるということだった。
 ああ、そうそう、とプロデューサーは思い出したかのように答える。
「これからの方針なんだが、ソロでの活動を増やしていこうと思っていてな。まあ樹里だけじゃなく、ほかのみんなもなんだけどさ。樹里はどういう売り出しかたをしていこうかと思ってな」
「ふーん」
 売り出し方。要はアタシの個性についての話、ってわけだが…
「アンタはどうしていけばいいと思ってるんだよ?」
「俺か?俺は樹里らしさという点では、やっぱり優しいところを推していくのがいいと思うけど」
アタシは別に…
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
からかってそんな事を言うやつではないから。
「…いや、それはアピールポイントにはしづらくねーか?」
「そうか?なら、運動神経、ダンスに限ってもいいけど、運動が得意なアイドルってのはどうだ?」
「ダンスか。うん、そっちのほうがしっくりくるかもな」
「よし、わかった。時間取らせて悪かったな。その方向で進めてみるよ」
 プロデューサーも別件の用事があるようで、忙しなく事務所を後にした。閑散とした事務所は、…一人は、あの時を追憶するようで嫌いだ。
 ─7月某日
 今週は台風が接近している影響か、湿度を増した室内ではシューズのグリップ音がいやに響いた。それでも、それを掻き消すように体を動かす。トレーナーさんの声を一言一句頭の中で反芻し、頭の先から爪先の先まで意識を張り巡らせる。体の動きは悪くない。腕を振れ。足を止めるな。意識を、感覚を、周囲にまで尖らせろ。もっと、もっと、もっと!
「相変わらず樹里のダンスは見惚れてしまうものがあるわね」
「はい。2次予選を突破してからは、より一層迫力のようなものを、感じます」
「そうね、私も負けてられないわ!」
「ふふ、はい。凛世もで、ございます」
「ありがとうございましたー!」
 トレーナーさんに挨拶してレッスンルームを出る。汗を拭いつつ自販機に向かった。
 あれから数日、ユニットのメンバーに特に気を遣われているような感じはしなかった。大丈夫だ、アタシは上手くやれてる。
 それと、
「おつかれ、2人とも!」
 2人の首筋に買ったばかりのスポドリを押し当てると、2人は驚いた声をあげた。
「じゅ、樹里⁉気づいてたの⁉」
「あったりまえだろ!」
「集中仕切っていたとばかり思っていたのだけれど、とんでもない観察力ね!」
「ふふっ、樹里さんが、お優しいお方である所以でしょうか」
「…へへっ、だろ?」
 凛世が一間空いたことへの疑問の表情を一瞬浮かべたが、特に何か言ってくることはなかった。
 8月に差しかかる頃。今夜は今年初の台風直撃の日らしい。どんよりとした雲は今にも降り出しそうで、手に持っているビニール傘はひどく華奢に見えた。
 駐輪場に向かいかけた足を止め、事務所の方向に歩き出す。歩いていると前に小柄なお団子頭が見えた。
「よう、チョコ」
「あっ、樹里ちゃん!」
 朗らかにチョコは返す。いつもは自転車に乗っているので、こうして並んで歩くというのは案外なかったかもしれない。
 事務所へと向かう道をしばらく2人で歩く。それは他愛もない会話だった。だが、高校に入学した当時はよく聞かれたが、いまではアタシにその話題を振ってくるやつはいない。
「そういえば樹里ちゃんって何か部活やってたっけ?」
 思わずバッとチョコの顔を見てしまった。
「ああいや、ほら、プロフィールには中学生までバスケやってたって書いてあったから、今はどうなのかなー、って、ちょこっと気になったり、なんて」
 チョコは困ったように目線を逸らつつそう続けた。
「ああ…今は別に…なにも…」
 明らかにトーンダウンしてるのが自分でもわかった。なさけねー…
 チョコが心配そうにこちらを振り返るそんな折、十字路に差しかかったところでカーブミラーに自転車が映っているのが見えた。
「あぶねえ!」
 気づかず進むチョコの手をグイと引き寄せる
「わあっ⁉」
 チョコはそのまま尻餅をついてしまった。
 自転車は目の前を過ぎ去っていく。
「いったたー…」
「わ、わりぃチョコ!平気か…?」
 手を貸してチョコを起こす。
「うん、大丈夫!ありがと…っつ…」
 チョコが顔をしかめる。
「えへへ、ちょっと足捻っちゃったかも」
 左足をヒョコっとさせて立ち上がるチョコを見て背筋が凍る思いをした。
 口の中にじわりとしびれのようなものがにじむ。
「悪い…アタシのせいで…」
 アタシがそばにいながら。もっと早く気づいていれば。もっと周囲に気を配っていれば。そうした自責の念に駆られた。
「いやいや!全然樹里ちゃんのせいじゃないよ!むしろありがとうっていうか、私全然自転車に気付いてなかったし!」
「とりあえず事務所までもうすぐだし、これくらい平気だよ!」
 ドジだね私!と笑うチョコの顔を、アタシはまっすぐ見れなかった。
「なー、やっぱおんぶしてやるって」
「大丈夫大丈夫!私重いし、それにほら!もうあと半分だよ!」
 アタシの肩を借りながらけんけんで階段を昇るチョコはやっぱり少し辛そうで、それでもアタシの提案を跳ね除け続けた。
「はー、着いた…!いやー、いい筋トレになったね!」
「はは、前向きだな」
 それが私のいいとこですから!なんて笑って言えるチョコには素直に尊敬する。
 事務所の廊下を一歩一歩進む。
 トンッ、トンッと
 歪つな足音が廊下に響く。
 リビングのドアを開け、チョコをソファーに腰掛けさせる。
「ちょっと待ってろ。救急箱取ってくる」
「えっ!いや、いいよ!これくらいなんともないって!」
「…足着いて歩けねークセに、嘘つくな」
「うっ…痛いところを…
 あ、今のはケガと核心を突いたっていうダブルミーニングで」
「お前はとんちアイドルではねーだろ」
「えっへへー。チョコアイドル目指してたらこんなことばっか考えるようになっちゃって」
 まあそんな軽口を叩く元気があるなら重症ってことはないだろうが。
 救急箱から包帯とテーピングを取り出し、チョコの足首に巻きつけていく。
「おー、手際いいねー」
「…まあな」
 これでよし、と。
 そのまま冷凍庫に向かい氷嚢を作る。それと、コップにも一つ氷を入れ、
「ほら、よく冷やしとけよ。あと氷。」
「わー!ありがとう!…んー、つめひゃい!」
 ガリガリと氷を噛み砕いて、
「やっぱり樹里ちゃんは優しいね」
 チョコが不意にそう言う。
「…そんなんじゃねーよ」
 本当に。
 何か言おうとしたチョコの言葉を遮るように稲光りが室内を照らした。いつの間にか外はうす暗く、明かりを点けていない部屋に雨音が響いた。
 それが引き鉄となったのか、ここ最近抱え込んでた気持ちが、たがが外れたように漏れてしまった。
「アタシが優しくするのは…アタシが、アタシらしくあるためで、誰かのためとか、そんなんじゃねーんだ」
 困惑するチョコを横目に続ける。
「アタシには、何もねーから。夏葉みたいなストイックさも、果穂みたいな純真さも、凛世みたいな優雅さも、チョコみたいな周りの人まで元気にするような明るさも」
 ああ。
「いままで積み上げてきた意地やプライドも、アタシには、何もない」
 やめておけばいいのに。
「アイドルを始めたのだって、プロデューサーに誘われたからだしな」
 自嘲気味に笑う。
「そんなこと…」
「あるよ…!」
 チョコを困らせるだけだ。
「あるんだよ」
 誰も望んでない。
「アタシの中は空っぽで」
 みんな離れていく。
「それでもアイドルをやるからには、何かが必要で」
 こんなこと言ったらまた失うだけだ。
「だから『優しさ』を無理矢理詰め込んだ」
 それでも。
「そうでもしないと、みんなの光に飲まれて消えちまいそうだったから」
 これが本当のアタシだから。
「何かで満たして、みんなと同じ高さにいる気になりたかった」
 アタシの口から言わないと、フェアじゃないから。
「だから」
 だから…
「だからなに!」
 チョコがアタシの右手を両手で掴んで顔の高さまで引き寄せたので、自然とチョコの顔に目がいった。目には大粒の涙が浮かんでいた。
「…チョコ?」
「樹里ちゃんの優しさが嘘だっていうの⁉勝手に決めつけないで!」
 剣幕に押され半歩後ずさる。
「私樹里ちゃんの優しいところいっぱい知ってるもん!私の個性見つけるために凛世ちゃんと色々買いに行ってくれたり、海の家で気をまわしてくれたり、それにさっきだって…!」
「私だけじゃない!果穂も凛世ちゃんも、夏葉ちゃんだって、みんな樹里ちゃんの優しいところいっぱい知ってるんだよ…!それが全部嘘だなんて、そんなこと…言わないでよ…!」
 窓ガラスに叩きつけるように降り荒ぶ雨の音で室内は満ちる。
 もう何がなんだかわかんなくなっちまった。アタシがここに来てから気を張って演じてたものは、チョコたちにとっては当たり前で、それが本当のアタシで。何が真実で、何を信じればいいのか、もうアタシにはわからない。もう、わかんねーよ。
 気づいたときにはチョコの手を振り解いていた。誰かがドアに近づいている音がしたが誰だかわからないし、どうでもよかった。
 そいつの静止を振り切って、アタシは事務所を飛び出した。
 私、樹里ちゃんの気も知らないで。あの樹里ちゃんがあんなに弱音を吐いてるときに、私が聞いてあげないでどうするの。
 ドアが開く音がしたのでハッとドアのほうを向く。そこには、
「まったく。樹里ったら一体…」
「って、智代子⁉泣いているじゃない!どうしたの⁉」
「夏葉ちゃん…!夏葉ちゃん、どうしよう!樹里ちゃんが…私…樹里ちゃんにひどいこと言っちゃった…」
「…わかったわ!すぐに樹里を追いかけてくるわね!」
 そう言って夏葉ちゃんはすぐに出て行ってしまった。
「わ、私も…!…って」
「…はは、ガッチガチだ」
 予報では今夜って言ってたのに、もう外は土砂降りの雨だった。傘もささず走るアタシを道行く人はどう思ってるだろうか。生憎、白い目で見られるのには慣れている。…いや、自意識過剰か、過去の残像か。実際のところは誰もアタシのことなんか見ていないのかもしれない。今も、昔も。
 しかし、そんなアタシに向かって声をあげる人物がいた。というか、後ろから迫っていた。
「な、夏葉…?」
 綺麗な赤い髪は、雨と風でひどい有様だった。
「…ったく、傘ささねーから」
「あら、貴女がそれを言うの?」
「それはそうだけどよ」
 あの時、事務所で振り切ったのは夏葉だったのか。そして、走ってここまで追いかけてきた。
「チョコから聞いてんだろ。アタシはもう…」
「何も聞いてないわ」
 ……は?
「智代子からは何も聞いてないの。ただ事務所に行ったら智代子が泣いていて、貴女が出ていった。だから追いかけてきたのよ」
「だ、だから、って…。普通理由とか聞くだろ!」
「どうして?」
「どうして、って…」
「理由なら貴女から直接聞けばいいじゃない!私たち同じユニットの仲間なんだから!」
「あ、あのなぁ…」
 ったく、こいつにはアタシの常識なんて通用しねーんだった。
「アタシは…!」
「こんなところで話すのも何だし、事務所に戻りましょう?貴女も少し走って頭冷えたんじゃないかしら?」
「…わーったよ。腕引っ張るな。自分で歩く」
「ふふっ、じゃあ行きましょう!」
 びしょ濡れのまま事務所に戻ったアタシたちを、タオルを持ったチョコが出迎えてくれた。心の準備が整わず一呼吸入れる間に、
「チ、チョコ…アタシ
「ごめん樹里ちゃん!」
 突然謝られて面食らってる間にチョコは続ける。
「私、樹里ちゃんが悩んでること全然気づいてあげられてなくて、それなのにあんなこと言っちゃって…」
 謝っている間にも、再度チョコの目には涙が浮かぶ。
「あ、あのな、チョコ。謝るのはアタシのほうで…」
「ううん!私のほうだよ!樹里ちゃん、いつもとっても気づかってくれてるのに、私ってば…」
 俯くチョコと、それに狼狽るアタシに夏葉は、
「2人ともとりあえずそれくらいにして、中に入りましょう」
「あ、うん…!そうだね!はい、2人ともタオル使って!風邪引いたら大変!」
「ああ、サンキュな」
「ありがとう、智代子」
 そうして中へと入っていく。
 チョコがお湯を沸かしてくれていたので、夏葉の持ってきていた紅茶を淹れた。3人がソファーに座り、ずずっと啜る。
 一息ついてチョコが尋ねる。
「…樹里ちゃんはさ、なんで自分のことをそんな風に思ってるの…?」
「ああ…」
 隠すつもりはなかったが、それでもいつも心の中で、思い出さないよう制御していたのかもしれない。思い出してしまえば今のこのアイドルという現状も、ひどく空虚で、幻想で、取り留めのないものへと昇華してしまう気がしたから。でも、いつかは向き合わなければいけないことだった。それはアタシの中から決して消えない事実で、克服しなければ前には進めない楔のようなものだったから。
「昔の話、なんだけどな」
 中学2年の夏。アタシはバスケをやっていた。1年の夏頃からもう試合に使われるようになってて、2年の頃にはいわゆるエースと呼ばれる存在だった。今でもよく覚えてる。夏の県大会、アタシの中学は決勝まで進み、決勝戦の第4Q、残り時間29秒、相手チームからの攻撃の前にタイムアウトを取った。そのとき79対80でアタシのチームは負けていた。でもバスケは一本のシュートで2点入るからさ、十分逆転のチャンスはあった。タイムアウトを取った監督の指示は、
「24秒バイオレーションを取っても相手のディフェンスが整ってしまう。だからギリギリになったら撃たせていい。リバウンドを取ったらすぐ逆速攻」だ。
 もうそれしかないのはみんなわかってたからな、すぐに作戦は決まってゲームが再開した。予定通り時間を使わせつつ、18秒がすぎたあたりでディフェンスラインを下げた。それを見た相手のエースはすぐにドライブを仕掛けてきた、が当然ゴール下まで運ばれるわけにはいかないからな、意地でもそれを阻止する。
 すると相手は一歩引いてミドルシュートを狙ってきた。ただ、ディフェンスも最後くらいついてシュートコースを塞いだおかげでシュートはリングに当たって、そのままアタシのほうに飛んできた。アタシがボールをキャッチして前を見ると、逆速攻に走る味方が1人、それを追うディフェンスが1人、そしてアタシの前でパスコースを塞ぎながら詰めてくるディフェンスが1人いた。
 予定通りなら走ってる味方にパスするしかなかったが、相手エースが焦ってくれたおかげで数秒時間の猶予があった。そこで一か八かディフェンスの付いてる味方にパスするより、アタシは詰めてくるディフェンスを躱す選択をした。ドリブルには自信があったからな。
 ただ一つ誤算があったとすれば、疲労がピークに達していたってことだ。まあこんなこと言っても言い訳にしかならないんだけど、夏の大会中、唯一フル出場をしていたアタシの脚は限界を迎えていた。成長痛も相まって、一歩踏み出すアタシの脚には力が入らなかった。
 その結果、詰めてきた相手ディフェンスの足を思い切り踏んじまって転倒。ボールはそのままラインを割って相手ボールに。もちろんアタシが相手の足を踏んだだけだからファールでもない。ただ、アタシは起き上がることができなかった。…まあ、後でわかったことだけど折れてたんだ。それでもまだやれるって、バカみたいなこと言ってるアタシを、監督はすぐ医務室に行くように後輩に促した。そして、後輩に担がれて連れてこられた医務室のベッドで試合が終わるブザーを聞いた。
 今でも思うよ。あのとき、最後にパスしてればな、って。みんなの気持ちが詰まっていたはずなのにな、って。
「それは、樹里だけが悪いわけではないでしょう」
「…まあ、そういう風にも見えるだろうけどさ、2年のアタシが出てるってことは、当然出られない先輩もいるってことで、アタシはその分頑張らなきゃいけなかったんだ」
 それからは気が滅入っちまって部活にも顔出せなくなった。先輩たちがいたらどうしよう。どんな顔をすればいい。どんな風に振る舞えばいい。
 もともとあんまよくは思われてなかっただろうし、その最後があのザマじゃあ何を言われるかわからない。どんな目をされるのか、怖くて仕方なかった。今思えばそれも全部アタシの思い込みだったのかもしれないけど、当時のアタシの頭の中はそれ一色だった。
 正解が見つからないまま時間ばかりが経って、気づけばすっかり怪我は治っていたのに、バスケをできないままでいた。
 冬になる頃には髪を染めたり、付き合う友人もガラッと変わったりしたけど、結局アタシを満たすものは見つからなかった。
 そんなフラフラした状態のまま高校に入って、あっという間に1年が経った。そこでプロデューサーと出会った。アタシがアイドルなんてバカにしてるとさえ思ったけど、もうどうにでもなれと思って。
「樹里ちゃんはさ、やっぱり優しいよ」
「…えっ?」
 長々とありのままの自分を語ったはずなので、チョコの言葉に戸惑いを隠せなかった。
「だって普通そんな人のことまで考えてられないもん」
「い、いや、だからアタシのは自分のためっつーか…自分の保身が一番だったっつーか」
「私は骨が折れるまで何か頑張ったことないし、みんなの期待を背負ったこともないからわからないけど、樹里ちゃんがそういう立場にいたのってさ、チームのために一生懸命頑張ってきたからじゃない?」
「…そんな大層なもんじゃねーよ」
「いえ、そんなことないわ!私は常々、アナタのファンを喜ばせるために努力を惜しまない姿勢を素晴らしいと思っていたもの!」
「ふふ、やっぱり!樹里ちゃんは今も昔も変わってないんだよ!」
 アタシの思ってるアタシ自身と、2人の思ってるアタシはこんなにも乖離していて、こんなにも信頼してくれていた。
「だからさ、樹里ちゃんももう少し自分のことを信じて、それで自分にも優しくしてあげたらいいんじゃないかな」
「…わかった。やってみるよ」
 もう少しだけ、自分を見つめ直してみようと、そう思った。
─12月某日
 寒さが増し、吐く息は白く舞い、街には色とりどりのマフラーが映える季節がやってきた。
「おはようございまーす」
「おっ!樹里、来たか!」
「おー、プロデューサー。やけに元気だな…」
「ふっふっふっ。実はな、今日は樹里に良いニュースと悪いニュースがあるんだ。どっちから聞きたい?」
「なんだそれ」
 苦笑して答える。きっちりしたスーツ着てても、やっぱたまに子どもっぽいとこあるんだよな、こいつは。
「じゃあ悪いニュースから」
「そうか、悪いニュースからか。樹里は案外ベタだな」
「う、うるせー!付き合ってやってんだから早く言えよ!」
「はは、悪い悪い。それで悪いニュースなんだが…」
「いぬとねことくまのストラップも余ってしまった!だからもらってやってくれ、樹里!」
 プロデューサーが買った栄誉ドリンクのおまけに付いてきたという例のストラップのことだ。
「は、はぁ⁉アタシはたまねぎ持って帰ったろうが!ほら見ろ!ちゃんとカバンに付けてんだかんな!」
 アタシが肩に掛けていたスクバを見せる。
「そこをなんとか…!後生だ…!」
「だー、もう!仕方ねーな!今回だけだぞ!」
「! 樹里!ありがとう!」
「んで、良いニュースはなんなんだよ」
 ああ、と言ってプロデューサーはノートパソコンの画面をこちらに見せる。
「おめでとう、W.I.N.G.最終審査、合格だ!」
 合格。アタシが。ついこの間まで何もないと思っていたアタシが、認められた。
「プロデューサー…アタシ、やったんだな」
「ああ、もっと喜んでもいいんだぞ?」
「いや、なんか、実感湧かなくて。こういう経験ってしたことなかったから、上手く表現できねーんだけど。…変かな?」
「いや、変じゃないさ。誰でもできることじゃない。樹里だからできたことだ。少しずつでいい。少しずつ、でも確実に感じて、自信にしていこう」
「……ああ!」
 アタシがW.I.N.G出場。アイドルを始めた頃は考えもしなかった。あの頃はただ漫然と言われたことをこなし、見えない目標に向かっているフリをしていた。何もないアタシには何かを見る資格はないと思ってたから。でもそれは違っていた。アタシの知らないアタシをみんなは知っていて、ちゃんと話すことでそれはアタシになっていった。
 まあでも、ひとつだけアイドルを始めた頃の自分を褒めるとしたら、案外ハナから本気だったのかもしれない、ってことをここに帰ってくるたび思うよ。初めのうちは逃れられない牢獄に見える日もあったけど、いまじゃ実家と同じか、それ以上に安心できる場所になった。
「ただいまー!」