それはふと立ち寄ったハンドメイド雑貨店の一角にひっそりと置いてあった。
羊の角のようなワンポイントがかわいいゴールドのフレームに、最近自分の色の一つとなった薄い黄色のレンズが心をくすぐるサングラス。値段は…驚くことにこのクオリティで数日おやつを我慢すれば余裕で届くものだった。何かに後押しされるかのように手を伸ばしレンズ越しにお店を見ると、レンズはしっかり調整されていないのか少しだけ歪んで見える。それが逆に新鮮で、この子と見たいものと未来がシャボン玉のように頭の中で生まれては止まらなくなって。
「じゃーん!」
「わ、かわいい!」
翌日、いつものファミレスにいるわたしの目元にそれは驚くほどしっくりなじんでいた。このサングラスを通すと目の前にいる羽那ちゃんもレトロな感じに見えて、まるで映画の中の女優さんみたいだ。
「アイドルになったら変装とかも必要かな、とか思っちゃって…。」
「あはっ、確かに…!このサングラス、はるきちゃんによく似合ってるよ!」
「ふふ、我ながら良い買い物したなあって思っております!」
こうして運命の出会いを果たしたサングラスは、それから散歩の相棒となっていた。
レンズの歪みのせいか、視界がいつもより広い気がする。お決まりのランニングコースの途中にある丘の上の景色が、まるでパノラマモードで撮った写真みたいに見えて、見ているものをそのまま撮影したいくらいだった。レンズの色のせいか、レッスンスタジオまでの道がかんかん照りの別の国に旅行したような気持ちにさせてくれる。
それが見せてくれる景色は使い捨てカメラと一緒に歩くときとはまた違っていて、今やマイブームの一つとなっている散歩のいい刺激になっていた。つい遠回りをしてしまう。特に人がたくさんいる場所は行きかう人々がレンズの歪みに合わせてぼやけたりするのが面白くて、ちょっとした買い物をする時にも付けていくことが増えた。
サングラスに出会って一週間くらいが過ぎたころ、オフなのでサングラスと散布をしていたら、裏路地に気になる看板を見つけた。いつもなら足が自然と動くはずが、透明な壁があるかのように前に進めない、進まない自分がいた。
(行っても…いいのかな…)
「…?あ、れ、わたし、どうしてー」
自分の中に生まれたひとかけらの違和感はポケットの中のスマホが通知とともに打ち消した。画面を見るとそろそろ戻らないと打ち合わせに間に合わなくなる時間が迫っていた。
「大変、もうこんな時間…!」
足を止めたタイミングが良かったのだろう。偶然が重なったものだと思いその日はぱたぱたと事務所に向かうことになった。
「そのサングラス、本当にお気に入りなんだね!」
「このお店にもぴったりかな~なんて思ったので、つい…」
打ち合わせから数日経ちやっと二人のオフが重なった日、ちょっと落ち着いたきれいなカフェで、羽那ちゃんと約束して来たはいいもののいつもと違う雰囲気でお互い緊張していた。周りはわたしたちより年上の人たちやカップルがほとんどだ。
「思ったより大人な雰囲気…いつかルカちゃんとも来たいよねーっ…!」
「確かに!わたしたちよりここが似合っちゃうかも!」
羽那ちゃんと気持ち小さめの声で話に花を咲かせていると、店員さんがメニューとともにテーブルのキャンドルに炎を灯してくれた。炎は、店内の雰囲気に合わせてゆらゆらと動く。暗がりの中の光は穏やかに心も温めてくれる。
…はずなのに。炎が突然蛇のように大きくなって近づいてきた気がして、さあっと体温が下がるのを感じた。慌ててサングラスを外すと、炎は同じ位置で揺らめいているが、どっと出たのだろう汗といつもより大げさに動いている心臓の音がまだ残っていた。
「はるきちゃん、大丈夫?」
「う、うん…!」
(気のせい、だよね?)
次のオフの日、どうしても欲しいCDがあって、ショップが並ぶ大通りに出た。今日は三連休の中日ということもあるのか、いつもより人が多くてサングラスの中の視界が忙しない。ちょっとだけ休もう、とサングラス手を耳にかけた…はずだった。
「あ、あれ…?」
指先に当たるはずのフレームの固い感触がない。鼻の上にあるかすかな重力も、目の前にあるはずのレンズもない。なのに、黄色がかった歪んだ視界はそのままだ。
突然想定していない非日常に放り出された感覚に、頭と心臓がぐわんぐわんと警鐘を鳴らす。大通りから少し外れて壁にもたれかかったはいいものの、ビルが作る影がいつもより重くなしかかってくる。
ここにいてはいけない気がする。早く大通りに戻らなきゃ。でも、足がすくんで動けない。
どうにもならず、ずり、と壁に服がこすれる中、人の影が近づいた気がした。
「………ん?」
見上げた先にいた相手はよく知っているひとだった。
「―ルカちゃん⁉」
気持ち目を丸くしているルカちゃんの足の向く先にはパンク系のいかにもなアパレルショップがある。自分がここにいることの方に驚いたらしい。
「レッスンないならさっさと帰れ」
そう言ってルカちゃんは立ち去ろうとしてしまう。
「―っ、待って!」
このまま置いていかれたら一歩も動けなくなってしまう気がして、ルカちゃんの服の端を掴む。
「なんだよ」
「その、道に迷っちゃいまして…」
「アプリ使えば一発だろ」
「うっ……」
サングラスの視界が自分の目に入ってしまった、なんて言えず、なんてどうにかして引き止められないかと話題を探す前に、目の前からはあ、とため息が聞こえた。
「…気が変わった。帰る」
服を掴んだわたしの手を振り払うこともせず、ルカちゃんは後ろを向いて歩き始めた。周りの喧騒とは真逆の静かな時間が流れだす。
「ね、ねえ、ルカちゃんってああいう服が好きなの?」
「別に…」
なかなか会話が続かない。話題を出そうにも黙ってしまうわたしを励ますことも拒絶することもなく、二人の足音だけが間に響く。ルカちゃんがぴた、と止まった場所は駅の前だった。
「その、助けてくれて?ありがとう、ルカちゃん!」
「明日の仕事に支障を出すのは絶対やめろよ」
そう言ってさっさと体の向きを変えてしまう。何か言わなきゃ、空気で少し重たくなった口を動かす。
かしゃん、と何かが落ちた音がした。
「あの!今度はわたしが、引っ張っていけるように、頑張るから!」
「…そうかよ」
「…! うん…!」
***
その後、それとなく聞いてみてもわたしがあのサングラスを買ったことも、最近よく付けていたことも誰も覚えていなかった。
―ただ一人を除いては。
「あれからあたしもいろいろ探してね、やっと良い感じの見つけたの!変装グッズ!」
「えっ⁉」
そう言いながら取り出したのは、シンプルな銀のフレームに透明なレンズがついたファッショングラス。羽那ちゃんはそれ一緒にふふんと自慢げにポーズをとった。
「どうかな、似合ってる?」
「…うん!似合ってるよ、羽那ちゃん!」