「お姉さま、もう東京へ行ってしまうのですか」
「ああ。なに、またミクの膨れっ面を見にすぐに帰ってくる。身体に気を付けて過ごしてくれよ」
からかわれたミクはそれでも、木造駅舎へ歩いていくリイナの背を見送る。寂しげに、切なそうに。
数秒の間を置いて、「カット!」の声がスタジオに響いた。リイナ以外息を潜めていた空間の空気はガラリと変わり、李衣菜以外の人間が一斉に動き始めた。
「お疲れさま、お二人とも!」監督がみくと李衣菜に声を掛ける。
「ありがとうございます!」「ありがとうございます!」赤紫の矢絣模様の和服を着たみくと、スリーピーススーツのジャケットを腕にかけた李衣菜が口々に挨拶した。監督はニコリと笑う。二人も愛想よく笑って、「失礼します」と衣装部屋へ戻った。
二人は昭和初期をテーマにしたドラマに抜擢され、その撮影の最中だった。愛想を振りまきつつ、二人は慣れた速さで建物を出た。
「つっかれた~」
李衣菜が帰りのタクシーの中で大きく伸びをする。
「……まぁ、疲れる役だもんね」みくは小声で答える。リイナはさまざまな障害を乗り越え田舎から出世した、今でいうキャリアウーマンの役だった。撮影中きりっとした表情を保たなければならず、その反動で撮影の後はいつもよりもふやけた表情になる。
対するミクはリイナの妹で、言葉少なだが頑固な少女の役である。家に残った彼女はリイナのいない一家を盛り立てるキャラクターだった。
「……今日の晩御飯、何がいい? 奢るか、作ってあげるにゃ」
「え、いいの⁉ じゃあ、かわいい妹の手料理がいい!」
うるさ、とみくは顔をしかめつつ、「李衣菜チャンの妹ではないにゃ」と李衣菜の額に指を突きつけた。
「……あーでも、それだとみくが大変だろうから出前にしよ!」
「いーや、みくが作る」
「ホントに?」
「大丈夫だから」首を頑として縦に振らないみくに、頑固なのは役と変わらないな、と李衣菜は小さく笑った。
ジュージューと高温の油が音を立てている。香ばしいソースの匂いが離れた李衣菜の元まで届いて、仕事の連絡の文章に差し支えが生じてきた。何を連絡するんだっけ、と思いながら、指は『ソース焼きそば』と入力していた。彼女は慌てて消し、下書きを保存した。今はもう、夕食のソース焼きそばのことしか考えられなかった。
「いい匂い……」
ぼそりと呟いた李衣菜の声はみくにも聞こえていて、「もうちょっと待っててー!」と返事があった。
「もうすぐ出来上がり!」
その声とともに、油の音が聴こえなくなる。まもなく、二枚のお皿に焼きそばを盛り付けたみくがキッチンから出てきた。
「お待たせにゃ」
そんなみくを李衣菜はじっと見つめて、「よくできた妹だなぁ」と笑う。
「もー、まだ役に入りきってるの?」
「いいじゃん、みくが妹なんてお話の中以外ではありえないことなんだから」
いただきます、と手を合わせて李衣菜は焼きそばに手を付けた。
確かに、みくと李衣菜チャンが姉妹になるなんて、両親が離婚して李衣菜チャンのご両親のどちらかと結婚でもしない限りありえない。全くもって現実的ではないな、とみくは水を飲みながら思った。
「李衣菜チャンがお姉ちゃん、か」
李衣菜は焼きそばをくわえて顔を上げた。
「楽しそうかも」
みくはいたずらっぽく笑って、「いただきます」と手を合わせた。
「ちょっとそれ、どういう意味さ」
「そのまんまにゃ。毎日退屈しなさそうだなーって」
「……褒め言葉なの?」
「恋人からの言葉を素直に受け取れないの~?」
うっ。痛いところを突かれたと思った李衣菜は舌戦から一時撤退する。
「でもさ」豚コマ肉を箸で掘り出しながら李衣菜は切り出した。「みくと姉妹として生まれてきたら、今みたいな私になってなかったんじゃない? その私はロックが好きで、そのみくはネコが好きなのかな?」
「そ、それは確かにそうだけど……」
「ひとつ屋根の下で暮らすことが特別じゃない私たちはそれでも私たちなの?」
「……わかった、降参にゃー!」
みくはお手上げのポーズをとる。実際にみくたちが姉妹なら、今みたいに恋人の関係にはなれていなかっただろう。それはみくも勘づいた。
「……『それでも愛してる』とか言ってくれてもいいのに」
口の中でみくはもごもごと呟く。鈍い李衣菜は焼きそばをすすっていた。
「……肉もらうね」みくは箸を伸ばして李衣菜の皿からお肉をひと切れ取った。
「あっ私のお肉!」
「李衣菜チャンが気付かないのが悪いにゃ」
みくはその肉を口に入れて、飲み込んだ。