2021/2/4 20:30秘密基地
030
 海沿いの町。とある県の南方に位置するこの町は、古くは港として栄えていた場所でしたが、今となってはその栄光は遠く、くすんだ町に変貌してしまったとのことでした。
 私がアイドル活動を始めて、数か月が経った頃。私たちはこの町で仕事のために宿をとりました。
 その際に、夏葉さんはある場所を気に入り、その仕事の間、仕事以外のほとんどの時間をその場所で過ごしていました。
「ずっと、放って置かれていたから、おんぼろ……」
 私は、劣化し、ボロボロになった進入禁止のテープを引きちぎり、長い間放置してしまっていたため、茫茫に生えてしまった雑草を踏み潰ししながら歩いていきます。一面の濃い緑とくすんだ緑に私の視界は支配されました。
 歩いて、三分は経ったでしょうか、なんとか雑草の群れを越えると、目の前にぽっかりとスペースが広がりました。
 そこには、古き良き、平屋が一軒。手入れもされていないせいか、窓ガラスはくすみ、瓦は一部剥げ、壁も一部腐っていました。
 ……でも。
 
「まだ、残ってるんですね。秘密基地」
 ここは、私と夏葉さんの秘密基地だった場所。
 最初で最後の秘密基地。
 夏葉さんを失ってしまった。場所でした。
001
 きっかけは、至極単純なものでした。
 とある県の水族館で、放課後クライマックスガールズ一同でドラマ撮影を行っている時の事でした。撮影場所が、それぞれの実家や寮から遠く、毎回通おうとすると車で約二時間、電車だと四時間近くもかかる場所だったのでした。ですので、ドラマ撮影が終わった後は、撮影場所からほど近い(とは言っても車で十五分はかかる場所でしたが)ホテルまで移動し、そこで私たちは寝泊まりをしていました。
 そんなホテル暮らしだった私たちですが、ある日を境に、夏葉さんの姿が見当たらないことが多くなりました。最初でこそ、私は気が付いていませんでしたが、頻繁に見当たらなくなっていたため、さすがの私でも気が付きました。
 そしてある日。夕方前に撮影が終わり、私たちは隣町のホテルに戻って、明日の撮影のために休息をとっていました。
 ……そこにはいつも通り夏葉さんの姿はありません。数十分ほどかけて、ホテルの中やホテルの周辺を探しましたが、夏葉さんの姿を見つけることができませんでした。
 結局探し疲れてしまった私は、探すのをやめ、ホテルの大風呂に入ってしまいました。
 なんだかもやもやした気持ちを抱えながら、身体を洗い流し、脱衣所に戻ると、そこには、同じくお風呂から上がりたての樹里ちゃんがいました。このもやもやした感情をずっと持ち続けるのも嫌だったので、樹里ちゃんに相談することにしました。
「樹里ちゃん。毎晩、毎晩、夏葉さんの姿がありませんけど、どこにいるか知ってますか?」
 私はバスタオルで髪の毛を拭きながら、ドライヤーをかけている樹里ちゃんにそう質問しましたが、樹里ちゃんは肩をすくめて。
「さぁな。あたしも知らねぇんだ」
 と言いました。
 残念な気持ちをになりましたが、続けて樹里はちゃんはこう言います。
「夏葉が毎回どこほっつき歩いているんだか、あたしも気になってよ、プロデューサーに念のため聞いたら、一応プロデューサーは把握してるらしいぞ」
 と言いました。
 何だか、さらにもやもやっとした感情が湧いてきました。あまり良い感覚ではありません。
 私は、脱衣かごの中に入れていたスマートフォンを取り出しましたが、すぐに樹里ちゃんに止められました。
「あー、プロデューサーに連絡するのは無駄だと思うぞー。夏葉に口止めされているらしい」
 樹里ちゃんのその言葉に、さらにさらにもやもやっとした感情が沸き上がります。
 そんな私のもやもやを感じったのでしょうか、樹里ちゃんは使い終わったドライヤーのコンセントを引き抜きコードをまとめながらこう言います。
「ま、夏葉にも一つや二つ秘密くらいあんだろ。本当にやばいことだったら、プロデューサーが止めるだろうし」
 そう言って、まだ湿っている私の頭を乱暴に撫でます。しかし、私のもやもやが晴れることはありませんでした。
 翌日、空にはぎらぎらの太陽が輝く中で撮影が行われていました。熱中症対策は万全だったとは言え、流石にこの炎天下、スタッフもアイドルに倒れられると困るのでしょう、少し過剰なくらい休憩時間がありました。流石に撮影時には夏葉さんは居て、一緒に扇風機で涼しんでいたり、ちょこ先輩と一緒にアイスなんか食べたりしていました。
 その姿はとても隠し事をしているような様子ではなく、本当にいつも通りの夏葉さんでした。……だから私は、夏葉さんが一人きりになったのを見て、思い切って問いただしてみました。
「夏葉さん‼」
「ん? 何かしら、果穂」
 夏葉さん涼しそうな木陰でヨガマットを敷いて、ストレッチを行っていました。暑いのでしょう、その額には汗が浮かんでいました。
「夏葉さん、私……じゃなくて、私たちに、隠し事……してませんか?」
 私がそう言うと、夏葉さんはあからさまに目を泳がせました。まさに絵に描いたような泳がせっぷりでした。たっぷり十秒くらい、目を泳がせた後、夏葉さんは。
「そんなことないわよ⁉」
 嘘ですね。
 いくら「人のことを信用しすぎだー」と言われる私だったとしても、あんなにわかりやすい嘘は見抜けますし、そもそもあそこまでわかりやすい嘘はなかなか見られるものではありません。しかし、そんな夏葉さんの様子に私は、私の心はどんどんと冷たくなりました。
「…………私たちにも、隠さないといけないこと、なんですね」
 自分でも驚くくらい悲し気な声が漏れました。夏葉さんを責めるつもりなんて一切ないのに、何故だか、こんな声が漏れてしまいました。すると、目の前の夏葉さんはあわあわと慌てているではありませんか。……ストレッチのポーズを維持しながら。
 そんな姿が、何となく面白くて、私は思わず笑ってしまいました。
「夏葉さん凄い格好で慌ててますね!」
「ち、ちが、違うのよ? 果穂?」
「大丈夫ですよ! 夏葉さん! 私は夏葉さんの秘密を探ったりしません‼」
 本当は全然大丈夫ではなかったし、本当は教えて欲しかった。でも、夏葉さんを困らせるわけにはいかないから。
 私は……。
「夏葉さんにも内緒にしたいこと。ありますもんね」
 私はそう言いながら、笑いました。何故よくわかりませんでしたが、心がとてもとても……。
 痛かったです。
002
 その日の撮影は比較的スムーズだったと思います。いつもは気まぐれな水族館の動物やお魚さんたちも機嫌が良かったらしく、撮影はすこぶる順調でした。
 そのため、撮影責任者……所謂、監督も満足げに頷いていました。
 しかし、私の心の中は、相変わらず、ぐちゃぐちゃで混ぜこぜで、自分がどうしたいのかわかっていない状態でした。
 幸い、笑顔を貼り付けること、演技をすることに支障はなかったので、撮影に困ることはありませんでしたが。
 しかし、どんなに取り繕っても、同じメンバーには伝わってしまうものです。
 撮影が終わり、隣町のホテルへと戻った時、ホテルのロビーで凛世さんにこう耳打ちされました。
「何か、有りましたか?」
 その言葉にドキッと心臓が跳ね上がります。
 必死に頑張って、何とか笑顔の仮面を貼り付けていた私でしたが、凛世さんにあっさりと剥がされてしまいました。
 私は、咄嗟に言い訳をしようか、取り繕うか迷いましたが、凛世さんに秘密を隠し続けるのは不可能だと思い、打ち明けることにしました。
「ちょっと、自分が嫌になることがあって」
 私は自分でもわかるくらい下手くそな笑みを浮かべながらそう返すと、凛世さんはロビーを見渡し、私の手を取ります。
「ここでは、話し辛いでしょう。私の部屋へ参りましょうか」
 凛世はニコっと笑いながら、私の手を引きます。私は凛世さんに連れられるがまま、引っ張られるがままついて行きました。ホテルの三階、エレベーターから少し離れた位置。そこに凛世さんが泊っている部屋があります。部屋の前にたどり着いた、凛世さんは着物の裾から、フロントで受け取った鍵を取り出し、部屋を開錠すると、私を招き入れます。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します。何度目か、もうわからないですけどね」
 私はそう言いながら、凛世さんの部屋へと入っていきます。ホテルの内装は洋風で、これはどの部屋でも共通なのですが、長期宿泊をしているせいか、それぞれの色が出始めています。ちょこ先輩は水族館で購入した可愛らしい小物が、樹里ちゃんは撮影場所付近で買ってきた色んな雑誌が。凛世さんは……。
「前回ここに来た時より、和風化が進んでいませんか? と言うか違う部屋になっていませんか?」
 様々な布やら、飾りやらで、もはや洋室とは呼べない部屋と変貌を遂げていました。凛世さん本人は「はて……?」と言っているので、無自覚に内装を変えてしまったのでしょう。
 ベッド……? の上に座り、私は一息。凛世さんは私の向かい側に座り、正座をしました。
「さて、話を聞かせて、もらいましょうか」
 凛世さんは真剣な目つきで、私の瞳を見ます。
 私は、そっと口を開きます。
「夏葉さん。ここ最近、夜にどこかへ出かけていますよね?」
 私がそう切り出すと、凛世さんは小さく頷きます。やはり、皆、夏葉さんがどこかへ行っているのは知っているみたいです。
「だけど、私たち皆、夏葉さんがどこに行っているのか、知りませんよね」
「そうですね。夏葉さんの行き場所を存じているのは、プロデューサー様くらいかと」
「それで、今日、直接夏葉さんに聞いてみたんです。『私たちに隠し事はしていないか』……と」
「ほう」
「だけど、夏葉さんは慌てるばかりで教えてくれなくて」
「……なるほど」
 私の話を聞いた凛世さんは正座のまま、手を顎に当て、何やら考え込んでいます。しかしそれも数秒、すぐにこう切り出しました。
「それで、何故果穂さんは、自分のことが嫌に、成ってしまったのでしょうか」
「それは……」
 私は口ごもる。なんとなく恥ずかしい気持ちと、自分の中では醜いと思っている感情を吐露してしまってもいいのか、という気持ちが混ぜこぜになります。しかし、凛世さんはそんな私を見て、こう言いました。
「大丈夫です。凛世はちゃんと聞き入れます。果穂さんのこと嫌ったりは、決してしませんから」
 そう言って、私に微笑みかけてくれました。
 私は、その言葉で話す勇気をもらいました。緊張をほぐすように、息を大きく吸って、ゆっくりと吐き出し。
「その。夏葉さんに隠し事されたのが、凄く、嫌……と言うか、信用されていないのか……とか、考えちゃって」
 と言いました。
 言った直後、私は後悔し、恥ずかしいと思いました。現に、耳が熱くなっているのを感じました。しかし、凛世さんはそんな私の言葉を受けて、再び手を顎に当て、何か考えている様子です。少なくとも、面白おかしい……と言った感情は持っていないようです。
「成程。成程。果穂さんは、黒い感情を持ってしまった、自分が嫌に成ってしまったのですね」
「…………」
 私は肯定も否定もできませんでした。黒い感情。これを肯定する勇気がありませんでした。
 しばらくの沈黙が部屋の中に流れます。凛世さんは腕を組み、時折振り子のように揺れながら、考え事をしているようです。そして、数十秒後、凛世さんがおもむろに口を開きました。
「そんなに、気になるのであれば、尾行しちゃいましょう」
「えぇ⁉」
 凛世さんの言葉に私は素っ頓狂な声を上げてしました。尾行なんて、ドラマや映画の世界でくらいしか聞く機会なんてありませんでしたから。しかしどうやら凛世さんは本気で提案をしているみたいです。
「果穂さんに自分の秘密を教えない……つまり、信用してくれない、夏葉さんが悪いのです。尾行して、夏葉さんの、秘密を暴いちゃいましょう」
 そう言って凛世さんは私に向かってサムズアップをします。
「え、え、えぇ⁉」
「うん。それが一番ですね。これが手っ取り早く、確実で、面白……ん゛んっ、物事を解決できそうです」
 凛世さんは腕を組み、何度も頷きながらそう言います。
「善は急げ、思い立ったが吉日、今すぐにでも夏葉さんを追ってみてはいかがでしょうか」
「えっ、えっ、えっ⁉」
 ぐいぐいと迫ってくる凛世さんの勢いに、私は押されてしまいます。夏葉さんを尾行するなんて、そんなこと。
「そうそう。凛世の尾行せっとをお渡しいたしましょうか?」
「なんでそんなものがあるんですか⁉」
「いざという時の、ために?」
「疑問形じゃないですか⁉」
 凛世さんは目の前にいろんなグッズを広げます。帽子やサングラスや、マスクになんと、あんパンまで揃っている。凛世さん曰く。『備えあれば憂いなし』とのこと。何のための備えなのかは終ぞ理解することはできませんでした。
003
 それから私と凛世さんは、夏葉さん尾行作戦について、話し合いました。……話し合ったと言っても、実行するのは私一人だけでしたが。
 凛世さん曰く。
『果穂さん一人の方が、夏葉さんも罪悪感を、刺激できると思って』
 今度は両手でサムズアップをしながら、凛世さんはこう言います。そんな凛世さんの様子に、私は訝しみ。
『なんだか楽しんでいませんか?』
 と言いました。
 しかし、凛世さんはどこ吹く風。『はて?』と言ってとぼけられてしまいました。絶対、この状況を楽しんでいます。
 そんな、凛世さんとの滅茶苦茶な尾行作戦会議が終わった今、私はホテルのロビーの近くにある非常階段から夏葉さんを見張っています。現在、夏葉さんはホテルのロビーで新聞紙を広げています。しかし、撮影の時に私に秘密を指摘されたせいでしょうか、何だかソワソワしていますし、何より夏葉さんがこんなこれ見よがしに新聞紙は読まない人だったと思います。足を何度も組み替え、目線があっちこっちに揺れていて、たまたまちょこ先輩が目の前を通った瞬間、身体を大きく揺らして、逆にちょこ先輩に怪しまれていました。
 私はちらりとホテルのフロントにある壁時計に目を向けます。今は夕方の四時。夏葉さんはまだまだ動く気配がありません。私は小さくため息をつき、スマートフォンを確認します。すると、液晶に樹里ちゃんからメッセージが表示されていました。
 何か、用事があったのかな。
 私は慌てて、ロック画面を解除し、メッセージアプリを開いてみると。
 『凛世から、色々聞いた。あんまり遅くならねぇうちに帰って来いよ。あと、夏葉によろしくな』
 と画面に表示されていました。そのメッセージを見たは私は『OK』と描かれている柴犬のスタンプで返事をします。すぐに既読がつきましたが、返事は返ってきませんでした。
 私は一息ついて、ロビーをちらりと確認すると、なんと先程まで座っていた夏葉さんがいなくなっているではありませんか。私は慌てて非常階段からロビーに出ました。周りをきょろきょろと確認しましたが、夏葉さんの姿はやはりありません。
 しまった。見失ったかもしれない。
 思わずスマートフォンを見てしまった自分に悪態をつきます。あのタイミングで見なければ……‼ しかしいつまでも後悔をしているわけにもいきません。私は顔を上げて、何か手掛かりはないか、夏葉さんの姿を追えるものはないか探します。すると、私の目にある人物が映ります。
 フロント……受付の人‼
 私は慌てて受付の人に声を掛けます。
「あのっ。さっきまであそこでせわしなく新聞紙を読んでいた女性が居たと思うんですが、どこに行ったかわかりますか⁉」
「新聞紙……? あぁ、あちらにいらっしゃった方ですね。正面入り口から出ていったのは確認しましたが……」
「ありがとうございます‼」
 私は最後まで話を聞かず、正面玄関から外に飛び出します。まだ外には太陽が昇っており、日もまだ降り注いでいます。
 もしかしたら、まだ遠くまで離れていないかもしれない。
 そんな望みを抱いて辺りを見渡します。すると、見覚えのある髪色で見覚えのある服に身を包んだ女性が姿勢よく、すたすたと歩いて行くのが見えました。距離にして大体百メートルほどでしょうか。
 間違いないです。夏葉さんでした。
 私は慌てて、尾行を始めます。当たり前かもしれませんが、こうやって誰かを尾行することは人生の中でもなかなか経験することはありませんでした。私は凛世さんから借りているキャップを目深にかぶり、髪の毛をささっとポニーテールに変えます。
 尾行開始です。
004
 夏葉さんは最初でこそ、急に振り向いたり、そわそわして辺りを見渡したり、空に舞っているトンビが「ぴーひょろろろ」と歌う度に身体をびくりと震わせていましたが、次第に警戒心が薄くなり、今では前を向いて歩いています。
 現在地はホテルから大体十分ほど。途中の無人駅も越え、さらにさらに歩いて行きます。ここに滞在し始めてからそれなりに日にちが経過していますが、こちらの方面はあまり散策していません。今、夏葉さんを見失ってしまった場合、迷子になってしまいそうです。
 スマートフォンを持っておいて良かった。
 思わずこんなことを考えてしまします。
 さらに歩くこと五分。車道に沿って歩いていた夏葉さんが急に進路を変え、別の道……と言うよりも、獣道へと突き進んでいきます。そのうちに背の高い草木によって夏葉さんの姿が隠れてしまいました。
 まずい。
 私は慌てて、夏葉さんの後を追って、獣道に足を踏み入れます。夏だからでしょうか、青々とした草木が、私の前に壁のように広がります。幸い、夏葉さんが辿ったと思わしき場所は綺麗に道ができており、私でも迷子にならずに歩くことができそうです……もちろん、夏葉さんがこの道から逸れていないことが前提ではありますが。
 私は高い草木の通路を歩いて……歩いて……。永遠かと思えるくらい、その歩く時間は長く感じました。高い草木によって、陽射し遮られているためか、草木の通路は薄暗く、私は段々不安になっていきました。
 もしかして、別の世界につながっていたりしないよね?
 そんな疑念が生まれるくらいでした。
 しかし、そんな時間も終わり、唐突に私の視界が開けました。そこには古めかしい一軒家が立っていました。一階建てでなんだか横に長い家でした。よく目を凝らしてみると、ところどころ手入れされているのか、真新しく綺麗な部分もあって、なんだかちぐはぐな印象を受けました。
 ここに夏葉さんがいるのかな?
 私は開けた場所に足を踏み入れます。玄関前は庭……というには少し質素すぎるスペースが広がっており、学校の教科書でしか見たことのないような古めかしい水汲み用の手押しポンプ。それとこれまた教科書でしか見たことのないような七輪が置いてありました。辺りを見渡していると、一陣の潮風が私を撫でました。それと同時にちりーんと音が鳴り響きます。どうやら、正面から左側に広がる縁側に風鈴が釣り下がっているみたいで、潮風が撫でるたびに音を奏でています。
 そんな風鈴を聞くこと数秒、強めの潮風が私を撫でまわしました。
 しまった、ぼぅっとしている場合じゃない。
 私はキャップが風で飛ばされないように、頭に押し付けながら、縁側の方へ歩き出します。すると、バタバタと音が聞こえてきます。家の中からです。縁側の窓は全開になっており、中身が丸見えになっています。私はそこから家の中を覗き込みました。
 家の中は暗く、先程まで太陽に照り返されていた地面を見ていたせいか、その暗さに慣れるまで時間が掛かりました。すると、何だか咳き込んでいるような音が聞こえてきます。
 何事かと慌て、私は目を凝らしました。段々と暗闇に目が慣れていき、見えてきた光景は……。
「……果穂⁉ 何故ここに⁉」
 そこにはスイカを一人で食べているちょっとだらしない恰好をした夏葉さんがいました。
028
 私は身体を震わせました。
 どうやら、眠っていたらしく、口の中が少しだけぱさぱさになっていました。首に違和感を感じ、触ってみる。どうやら電車の窓ガラスを枕に眠っていたせいか、首元が少しだるくなってしまったようです。
 タタンタタンと言う小気味の良い音が車内に響きます。
 しまった。どれだけ眠ってしまったのだろう。
 そう考え、外を見てみると、まだ住宅街の景色が流れていました。もしかしたら寝過ごしてしまったかもしれない。私は慌てて車内の電光掲示板に表示されている停車駅を確認します。どうやら目的地にはまだ到着していないようでした。私は安堵し、息を吐きます。後ろポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出し、時刻を確認すると、現在時刻は朝の十時。ちょうど正午すぎに目的に到着しそうです。
 私はゆっくりと背伸びをして、軽くストレッチをすると、ごきごきごきっと音が背中に響きます。先日まで行っていた映画撮影の疲労が取り切れていないみたいです。
 かつて、水族館で撮影を行ったあの時……十二歳だったあの頃。それからもう八年は経ってしまいました。二十歳となった今は大学に通いながら、女優業をこなしています。とても忙しい毎日ではありますが、忙しい方が、今の私にとってはとても好都合でした。
 アイドル活動は女優業を始めてからは少なくなったものの、まだ活動自体はしています。……放課後クライマックスガールズは解散こそしていませんが、未だに活動休止状態になっています。理由は……夏葉さんが、いないからです。
 この電車に乗っていると、夏葉さんがまだ元気だった頃を思い出します。あの時は、楽しかった。とても、とても。
 そんな昔のことを考えていると、電車が終点へと到着し、扉が開きます。私は電車を乗り換え、再び別の電車の座席に腰を下ろします。外は徐々に建物がなくなっていき、山と畑のみの景色になります。
 時折、停車する駅の周りは比較的建物も多いですが、背の高い建物は一切ありません。段々、都会とは程遠い景色に変貌していきます。私は何をするでもなく、ただぼぉっと外を眺めます、何も考えずに、ただ、ただ。
 そのうちに、私は眠気に襲われます。今にも閉じてしまいそうな目を何とかこじ開けて、車両を見渡すとそこには誰もいませんでした。世界に一人しかいないような、そんな錯覚に襲われます。
 目を閉じてしまおう。まだ、まだ、目的地には遠い。私はゆっくりと、瞳を閉じていった。
005
 夏葉さんを見つけたあの日。だらしない格好でスイカを食べていた夏葉さんは……。
「私は有栖川夏葉ではないわ‼」
 とてつもなく、混乱していました。それはもう、私から見てもひどいくらいに。
「いや、夏葉さんは夏葉さんじゃないですか」
 私は至極真っ当なことを言います。夏葉さんの慌て方は凄まじく、目に見えておろおろしています。
「ち、違うのよ⁉ 私は……っ」
 そう言って、夏葉さんは立ち上がろうとしました……が。ガシャンという音と共に、膝を思いっきりちゃぶ台にぶつけます。「ごっ⁉」と言う奇妙な声をあげた夏葉さんは、痛みからか、その場にうずくまります。
「大丈夫……ですか?」
「音や見た目よりかは痛くないわ……うん、痛くはないわ」
 そう言いながらも、夏葉さんはごろごろと転がります。こんな夏葉さんは見たことがありません。なんだか見ちゃいけないところを見てしまっているみたいで、何となく罪悪感を私は感じていました。改めて部屋の中を見てみると、そこは和室であり、畳まれている大きな網のテント? や、虫網や虫かご、大きな氷が入った平たい桶など、色んなものがちらばっていました。
「……ここは? 夏葉さんの家……ですか?」
 私は周りを見て、夏葉さんにそう声を掛けます。夏葉さんは、膝をさすりながら、息を吹きかけています。だらしない格好も相まって、少年のように見えます。
「…………誰にも言わない?」
 夏葉さんはそう言って、私のことを上目遣いで見ます。まるで、いたずらを見つかった子供みたいで、なんだか、いつもよりも夏葉さんが幼く見えます。
「言いません!」
 そんな夏葉さんを見て私はそう言います。すると、夏葉さんの顔がパァァっと明るくなりました。余程不安だったのでしょうか? そんな疑問を抱いていると、夏葉さんはこう言います。
「ここはね。私の秘密基地なのよ」
「秘密基地……ですか?」
「そう、秘密基地」
 私は一瞬夏葉さんが何を言っているのか、わかりかねました。『秘密基地』その単語を聞いて真っ先に思いつくのは、建物の裏や公園の片隅に段ボールや紐やらなんやらで作る簡素なものです。まさか……。
「この家ごと秘密基地なんですかっ⁉」
 思わず私はそう叫びました。それくらい大きな衝撃を受けたのです。夏葉さんは何となく誇らしげに「ええ、そうよ!」なんて言っています。私は感動して、再び周りを見渡します。
「すごいですっ‼ 本当にすごいですっ‼」
 さすが、大人の秘密基地の規模は違う。私はただただ感動していました。すると、夏葉さんはさらに誇らしげに胸を張っています。
「少しこの平屋を片づけるのと、この土地を購入するのに、手間がかかってしまったけれど、とってもいい所でしょう?」
 そう言って、夏葉さんはウインクをします。そんな夏葉さんの言葉に私はさらに興奮してしまいます。生まれてこの方、いくつか秘密基地に入らせてもらったことはありますが、ここまで大規模なのは見たこともありません。私は夏葉さんの方を向いて、こう言いました。
「見学していいですか⁉」
「えぇ、良いわよ」
 夏葉さんはそう言いました。それを聞くや否や、私は靴を脱ぎ、縁側から家の中に入ります。その気分はまさに冒険、探検、未知との遭遇です。私はキャップを脱ぎ、和室をぐるぐると周りり、近くに見つけた引き戸を開き、足を踏み入れます。すると、そこにはキッチンがあり、床はフローリングでした。家具がないせいか、とてつもなく広く見えます。左手には、洗面所とお風呂、真正面には大きなキッチン。右側には、ドアともう一つ引き戸があります。
「そういえば、納戸はまだ片付けていなかったわね……」
 夏葉さんはそう呟きます。しかし、そんなことお構いなしに私は、まずは引き戸を引っ張ります。中はとてもひんやりとしていて、電灯をつけていないせいか、薄暗いです。そこには何本かお酒が置いてありました。
「お酒発見です‼」
「あら、見つかっちゃったわね」
「密造酒ってやつですね‼」
「ちょっと違うわね」
 そんな夏葉さんの言葉を聞き流し、私は引き戸を再び閉めて、今度はドアを開きます。すると廊下が広がっていました。ドアを開けて真正面にはまたドアがあり、右手側には玄関がありました。本来ならそこから入るべきだったのでしょう。目を凝らして見ると、そこには見覚えのある夏葉さんのサンダルがありました。目の前のドアを開くと……。
「トイレです!」
「そうね」
「なんか、ここだけやけに新しいです‼」
「目も当てられないくらい壊れていたから、ここだけはほとんど全部取り換えたのよ」
 夏葉さんは少し遠い目をしながらそう言いました。きっと大変だったのでしょう。私はトイレのドアを閉めます。そして、廊下を玄関方面に進みました。すると、右手にドアがあります。ドアを開けると、そこにはまた和室がありました。先程、入ってきた和室とはまた違う和室でした。左手側には、外の風景が見えます。
「和室です‼」
「こっちはまだ何に使おうか決めてないのよね」
「そうなんですか‼」
 そう言って、私は和室の中に入ります。その和室は本当に何もなく、広い空間に、使い途中の蚊取り線香しかありませんでした。目線を上げ、前を見てみると目の前には襖があり、そこを開くと……。
「最初の部屋です‼」
「これで一周って感じね」
「……すごいです‼」
「ありがと」
 改めて感動していました。こんないい所が夏葉さんの秘密基地だなんて。だけど、それと同時にあることに気が付いてしまいます。それは、秘密基地なのに、私が入ってきてしまったことです。つい数十分前までは、夏葉さんに隠し事をされていてもやもやしていたはずなのに、いざ秘密を知ってしまうと、途端に罪悪感がわいてきてしまいました。
「…………」
「ん? どうかした? 果穂?」
「あの……その、ごめんなさい」
 私は思わずぺこりと夏葉さんに謝ります。私の勝手で秘密を暴いてしまったことを悔やんだからです。すると、夏葉さんは小さく息を吐くと、私の頭をわしゃわしゃと撫でまわします。まるでカトレアみたいになった気分です。夏葉さんは。
「何を謝っているの?」
 と言いました。
 その言葉を聞いて私はこう言います。
「夏葉さんが、秘密にしたかったことを暴いてしまいました……」
「あぁ、そのこと」
 夏葉さんはそう言うと、さらに私の髪の毛をぐしゃぐしゃにします。
「人間、案外隠し事はできないものね……、果穂に隠し事をしていないか? って問われた時は本当に慌ててしまったわ」
 夏葉さんは改めて、小さく息を吐きます。そして、私の髪の毛をいじるのをやめ、畳の上に腰を下ろします。
「ばれたなら仕方ないわね」
 そう言って、夏葉さんは自分が座ってている畳を叩きます。どうやら、ここに座ってほしいみたいです。私はすぐに夏葉さんの隣まで歩き、腰を下ろします。ちょうど、ギリギリ日陰になっており、縁側からの風が私を撫でます。とても心地良いです。
「ひとりぼっちの秘密基地から二人きりの秘密基地にしましょう」
「二人きりの秘密基地……? ですか」
 そう言って、私h夏葉さんの顔を覗きます。夏葉さんはいたずらっぽく微笑んでいます。まだ皆には内緒……と言うことみたいです。秘密にできるか少し不安でしたが、夏葉さんに秘密にしてほしいと言われてしまえば、仕方がありません。私はビシっと敬礼をします。
「わかりました! 隊長!」
「物わかりの良い部下に恵まれて、私も幸せよ」
 夏葉さんはそう言って、満面の笑みを浮かべます。
 それからは、ひとりぼっちの秘密基地から、二人きりの秘密基地へとなりました。
005
 朝。久しぶりに目覚まし時計を使わずに目が覚めました。外はすでに陽が高く、私は部屋の中が眩しくて思わず目を細めます。タオルケットをどかし起き上がります。隣に敷いてあった布団を覗いてみると、夏葉さんの布団はもぬけの殻でした。私はそれを確認すると、再び布団に身を沈めます。
 普段の日だったら、すでに水族館に移動している時間だったが、今日は休日。撮影スタッフも出演者も、束の間の休日を満喫していることだろう。私と夏葉さんは昨日の夕方にこっそりと抜け出し、秘密基地でお泊りをしました。
 夏葉さん以外誰もいなかったうえに、明日は休み。だからこそ、夜更かしするぞと気合を入れたのですが、どうやら私は夜の十時頃には寝てしまったみたいです。せっかく夜更かしをするチャンスだったのに、ふいにしてしまいました。
 そんな風に、少しだけ気落ちをしていると、何やら香ばしい匂いが私の鼻に届きました。
 なんだろう。
 私は再び布団から起き上がり、空になっている夏葉さんの布団を跨き、蚊帳を潜り抜けます。
 どこからこの匂いは発生しているのだろう?
 私はふらふらと和室の中を歩き回ります。すると、どうやらこの匂いはキッチンから漂っているみたいです。ゆっくりと歩き、引き戸を開きます。
「あら?おはよう。早いわね」
 そう言って出迎えてくれたのは、普段着……キャミソールにショートパンツ姿、エプロンを身につけた夏葉さんでした。片手にフライ返し、片手にフライパンを持っています。キッチンには、トーストされたパンと野菜と、焼いたベーコンが置いてありました。香ばしい匂いの原因はこれみたいです。
「おはようございます! 何を作っているんですか?」
 私がそう問うと、夏葉さんはウインクをして。
「手作りサンドイッチよ。簡単なものだけれど」
 と言いました。
 私はキッチンに近づいて、改め食材を確認します。すると、夏葉さんが手際良く、パン、マーガリン、野菜、ベーコン、野菜、ゆで卵のみじん切り、マヨネーズ、パン……と重ねていき、形を整えて、一気に包丁で切り落とします。綺麗な三角形になったサンドイッチを夏葉さんは皿に盛り付けます。
「はい。果穂」
「ありがとうございます……っ‼」
 とても具沢山で、滅茶苦茶美味しそうです。私はダイニングに設置されている机の上に、サンドイッチを置きます。それから、納戸に置いてあった小さな牛乳瓶を二本取り出し、これまたダイニングの机に置きます。まだこの家には冷蔵庫がないため、比較的涼しい納戸や、かなり涼しい床下収納に氷を入れて食材や飲み物の保存をしています。ここ数日間は、「さすがにそろそろ買わないと不便ね……」と言って、家電量販店のカタログを見比べている夏葉さんの姿をよく視ました。
 夏葉さんも自分のサンドイッチを作り終わったらしく、今は手を洗っています。私は牛乳瓶の蓋を取り払います。すると、ちょうど夏葉さんもダイニングの机にサンドイッチを置きます。
「じゃあ、いただきましょうか」
「はいっ‼」
 二人で向かい合わせに座り、手を合わせて、「いただきます」と言いました。最初に一口……とても美味しいです。すると、夏葉さんが慌てたような顔を見せます。
「果穂! 反対! 反対! 漏れてる‼」
 そう言って指を差します。何事かと手元を見てみると、反対側から具が零れています。具沢山になった弊害でしょう、皿の上に落ちてしまっています。
「えへへ……」
 そう言って私は、皿の上に落っこちた具材を手に取り、そのまま口に運びます。外ではちょっとはしたないかな? と思いますが、今は夏葉さんしかいないため、気にしません。夏葉さんも特段気にする様子もなく、自分のサンドイッチを食べています。
「さっき、ラジオで天気予報を聞いていたのだけど、今日は快晴、熱中症に注意だそうよ」
「はーいっ」
 ここ最近は天候に恵まれており、快晴が続いています。その分気温も高くなり、暑い思いもしているのですが、この秘密基地はどういうわけがとても涼しく、心地が良い場所です。
 秘密基地の立地について考えていると、ふと、あることが気になりました。
「そう言えば、聞きそびれていましたが、どうしてここに秘密基地を建てようかと思ったんですか?」
 私は夏葉さんに向かってそう問います。巨大で立派な秘密基地のインパクトで忘れていましたが、どうしてここなのでしょうか? 夏葉さんはしっかりと咀嚼し、口の中の食べ物を嚥下してから、こう言います。
「撮影後って、時間が空くでしょう?」
「そうですね。次の日に疲れが響くとまずいですし、夜の撮影はもう終わってしまっていますし」
「すると、暇になるじゃない?」
「そうかもしれませんね」
「すると、探検したくなるじゃない?」
「…………?」
「それで普段は歩くことも少ないこっちの方へ散歩に行ったのよ」
 途中までは理解できたのに、途中からわからなくなりました。探検したくなる……?
「獣道を乗り越え、草木の通路を見つけて、探すこと十五分‼ そうしたら、おんぼろになって放置されていた、この家を見つけたのよ」
「獣道から外れてこんなところまで来たんですか⁉」
「ええ、そうよ?」
 夏葉さんは何故だか誇らしげです。まさか自力でここを探し当てていたとは……、私は勝手に不動産屋さんを介していると思っていましたが、全然そんなことはありませんでした。夏葉さんはニコニコと笑いながら、サンドイッチを頬張っています。私は今度は具材を零さないように、ゆっくりとサンドイッチを噛みしめます。
 ふと目線を上げると、キッチンとは真反対に位置する壁に、『目標!』と油性ペンで書かれた藁半紙が画鋲で貼り付けられています。そこには様々な予定であったり、やるべきことであったりがたくさん書かれています。ちなみに今日の予定は秘密基地周辺の整備です。
 秘密基地自体はとても立派で誇らしいのですが、その立派が故に、土地も広く、雑草も多く生えてきてしまいます。一応、除草剤で何とか管理しようとしているのですが、場合によっては自分のたちの手で刈った方が作業効率が良かったり、そもそも除草剤じゃ除去しきれない量の雑草が生えてきてしまっているので、刈払機の方が逆に手間がかからなかったりします。他に雑草以外にも、捨てられたゴミが大量に存在していおり、大物だとタイヤやドラム缶、小物だとアルミ缶や私が生まれる前に発売されたペットボトルなどが転がっていたりします。変わり種だと、コルセットとかも落ちていたりします。さすがにこれらは除草剤では無くすことはできませんので、軍手を使って自分たちの手でどかすなり捨てるなりする必要があります。
 私はサンドイッチを食べ終え、牛乳もすべて飲み干したあと、シンクに使い終わった皿を入れます。今日の皿洗いの当番は私ですが、まだ夏葉さんが食べ終わっていないので、まだ作業を始められません。再び私は夏葉さんの向かい側に座り、夏葉さんが食べ終わるまで待つことにしました。
「夏葉さん! 今日はどんなお宝が見つかりますかね!」
「この前のドラム缶は本当に大物だったわね……さすがにあれが大量に転がっていたら、骨が折れそうね」
「ドラム缶風呂、してみたいです‼」
「さすがに落ちているドラム缶を使うのは危なすぎるから、新しくドラム缶は購入しましょう?」
「ホントですか⁉」
 夏葉さんは微笑みながら頷きます。私は嬉しくなって、両手を上にあげます。漫画やアニメなどでは見かけることの多いドラム缶風呂ですが、私の人生でやったことも直接見たこともありません。
「一緒に入りましょうね‼」
「ん゛っ」
 私がそう言った瞬間、夏葉さんはサンドイッチの具を零します。先程の私みたいです。
「か、果穂? さすがにドラム缶風呂に二人同時に入るのは無理だと思うわよ?」
 夏葉さんにそう諭されてしまいました。
006
 外は相変わらず快晴で、徐々に気温が上がっていっているのを感じます。昼前だというのに、もう汗が止まりません。
「果穂ーっ! ちゃんと水分補給はするのよー‼」
「はーい‼」
 遠くから、刈払機を担いだ夏葉さんがそう言います。流石に小学生である私に刈払機を持たせるには危ないとのことでした。実際、燃料諸々を抜いた刈払機を持ってみましたが、とても重くて、よろよろとしてしまいました。
 私は夏葉さんが刈り取った草木をまとめたり、目立ったゴミを拾い、一か所に集めるなどをしていました。マメ丸がこの場にいたなら、きっとマメ丸も手伝ってくれたと思いますが、ないものねだりってやつです。山のように出てくるゴミや草木を集めていると、何やら珍しいものを見つけました。
「これ、なんだろ」
 私が見つけたのは、真四角の木箱。しっかりと作られており、錠前もついています。おそらく宝箱みたいに空くようになっていると思うのですが、箱の継目には何やらお札? みたいなものがくっついています。
「夏葉さーん‼」
 捨てるかどうか判断に困った私は、夏葉さんを呼び出します。しかし、刈払機が甲高く歌っているいるせいか、私の声は夏葉さんに届いていないみたいです。一体どうしたものか……と、木箱に目を戻してみると、そこには何やら名前が書いてあります。
「えーっと……? なんちゃら神社?」
 ■■神社。と書かれていたのです。漢字が難しくて読めない……と言うより、完全に文字が潰れてしまって読めませんでした。私は秘密基地の近くにいくつか神社があったことを思い出します。ここから一番近い神社は……名前はわかりませんが、急な階段を上った先の神社だったと記憶しています。
 もう一度夏葉さんをちらりと見ましたが、まだまだ大量の草木と戦っているみたいです。私はその箱を持って、階段神社(仮名)にこの箱を届けることにしました。
 一旦秘密基地に戻り、私は水道水で水分補給をします。とても冷たくて、先程まで外で動いていたので、とても心地よいです。そして、外作業用の靴から、涼しいサンダルに履き替え、外に出ます。
 目指すは階段神社(仮名)。往復で二十分もあれば帰れる距離です。私は玄関を開け、走り出しました。
007
 草木の通路を越えて、そこからさらに五分ほど。私が探していた神社はありました。背の高い木々に囲まれており、青々とした葉っぱが鳥居を隠してしまっていたので、一瞬見失ってしまうところでした。私は箱を持ったまま、階段に足をかけます。石造りの階段ですが、一段一段が高く、とてつもなく急な階段となっています。私は息を大きく吸って、吐いて……上り始めます。木陰に入った瞬間、先程まで日に当たっていたからでしょう、身体が冷えたような錯覚に襲われます。怖い……というわけではないのですが、どことなく不気味です。
 ゆっくり、ゆっくりと階段から落ちてしまわないように、私はしっかりと足をつけ、上り続けます。ずっと木陰が続いているせいか、ここだけ異様に日が差さず、地面を見てみると苔がむしています。そしてひんやりとした空気が私の鼻の中に入りこみます。火照った私の身体にはちょうどいいくらいです。
 やがて、階段を上りきり、鳥居を跨ぎます。すると……。
「わっ」
 一気に体感温度が下がります。相変わらず、木陰だらけの日陰だらけなのですが、何故だか一気に肌寒くなります。
 一体なんなのだろうか。
 そんなことは考えましたが、私は気にせずに本堂に近づきます。二体の稲荷神様? 潰れていて判別ができませんが、何となく尖った耳と尻尾が見えている二体の像を越えさらに本堂に近づきます。とても涼しい風が私の頬を撫で上げます。そして、私は手に持っていた箱をそっと本堂の目の前に置きます。すると、ふわ……と何やらいい香りが私を包みました。
 この香りって?
 私が首を傾げながら、周りを見てみると……。
「わわっ⁉」
 思わず私は声を上げてしまいます。何故なら、私の背後に白い仮面をつけ、なかなか見る機会がない袴みたいな服を着た、私くらいの子供? が立っていたからです。その仮面はどことなく狐の仮面に見えます。決して怖くはないのですが、突然の出来事だったので、びっくりしてしまいました。
「ここの神社の子……ですか?」
 何となく、何となくだが、私は敬語を使ってしまった。それほどにまで、目の前の子供は不気味で仕方ないのです。すると、目の前の子供は手を顎に当て、何やら考え込んでいます。
「成程……、ふむ……、へぇ……?」
 そんなことをずっと言っていて、私を色んな角度から覗いています。そんな子供の様子に、私は首を傾げます。
「ふむ。お主には褒美をやらないといけないのぅ」
「ほ、ほうび?」
 狐の白仮面をした子供はそんなことを言い始めます。小さな声で「それが良い。名案だ」などと呟いているようです。
「この箱を持ち去った童だったら、真っ先に夏に閉じ込めていたのじゃが……どうやら、そうではないようじゃしな」
 そう言って、大きく狐の白仮面をした子供は大きく飛び上がり、本堂の上に乗ります……乗ります⁉
「えぇぇぇぇぇぇ⁉ 飛び乗りましたか⁉」
「ふむ、本当に何も知らんようじゃな。まぁまぁ良いか」
 すると、私はあることに気が付きます。
 私を覆っていた木陰……、その木々一本一本に本堂に乗り上げた子供とそっくりな子供たちが乗っているではありませんか。私は混乱します。まるで現実から置いて行かれたような、狐につままれたそんな感覚に陥ります。
 すると、本堂に乗っていた子供が「けーん‼」と叫びます。すると、周りの子供たちも一斉に「けーん‼」と叫び始めます。それはまるで……。
「童よ、礼を言うぞ。じゃが、ちぃと化かされてくれないか?」
 そう子供が言った直後、私の鼻腔に先程から漂っているいい香りが充満します。噎せ返るようなとても甘い香りです。そのうちに頭がくらくらしていって、視界が揺れます。
 あれ? どうして? こんなに、眠たく。
「情けは人の為ならず、じゃな。こんこん」
 ……………………………………。
 …………………………。
 ………………。
 ……。
「果穂‼」
 その言葉で私は身体を震わせ、飛び上がります。急に瞳を開いたせいか光が眩しく、思わず目を細めます。目の前には、慌てた表所を浮かべている夏葉さんが私のことを覗いている。何が起こったのか。全然私はわかりませんでした。
「良かった……‼ 急にいなくなるんだもの‼ 心配したじゃない……‼」
 夏葉さんの言葉に、ハッとなります。周りを見渡してみると、そこは先程、私が箱を届けに行った神社でした。どうやら、私は境内で倒れこんでいたみたいです。
 あれ、あの箱は?
 私は、ゆっくりと起き上がり、本堂へ置いた箱を探します。しかし……。
「ない……」
 置いたはずの箱が見つかりませんでした。理由はわかりません。私の他に誰かここに来たのか、動物が持っていったのか、それとも……。
「果穂‼」
 そんなことを考えていると夏葉さんが再び私を呼びます。言葉に怒気がはらんでおり私は再び身を震わせます。夏葉さんの方を恐る恐る見てみると、安心したような怒ったような複雑な表情を浮かべていました。
「本当に心配したのよ⁉ 急に居なくなるし‼ いつの間にかこんなところに居るし‼」
 そう言って、夏葉さんは私を叱ります。最初でこそ言い訳しようかと思いましたが、何も言い訳が思いつきませんでした。箱があろうがなかろうが、夏葉さんに声を掛けないで出ていったのは事実でしたし。
 私は、素直に。
「ごめんなさい」
 と謝りました。すると、夏葉さんは小さくため息をつき。
「今度から、ちゃんと私に行き先を言って頂戴。本当に、ほんとぉぉぉぉに、びっくりしたんだから」
 と言って、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でます。私は再び小さく、「ごめんなさい」と言いました。
008
 それから私と夏葉さん神社の階段をゆっくりと降りて、秘密基地に戻ろうとしていました。夏葉さんはもう怒っていないらしく、転ばないように気をつけてねと私の心配をしてくれています。心がちょっと痛みます。
 ふと、心が痛んだところであることに気が付きます。どうやって夏葉さんはここに来れたのでしょうか?
「夏葉さん、その、私が言うのもなんですが、よくここがわかりましたね」
 私がそう言うと、夏葉さんはハッとした表情を浮かべます。……なんだか反応が妙です。
「……確かに、何故私はここへ探しに来たのかしら」
「えっ」
 夏葉さんは頭を抱えて悩んでいます。本人も全然理由がわからないみたいです。私の脳裏に思い浮かんだのは、先程の白い狐の仮面をしていた子供たちの姿。
 ……まさか、ね。
「野生の勘ってやつですか?」
「そう言うことにしておきましょう。精神衛生的にも‼」
 そう言って、私と夏葉さんは神社から離れることにしました。
 その時、私は気絶する直前に嗅いだ、あの良い匂いが鼻をくすぐった、そんな気がしました。
 後日。私と夏葉さんの秘密基地に異変がありました。
「か、果穂⁉ 見て頂戴‼ こんなに一杯魚介類が⁉」
「夏葉さん‼ 分別しようとしてたゴミが‼ 分別されています‼」
 なんと、秘密基地の庭に、大量のサザエがバケツで置かれており、未分別だった大量のゴミがきれいに分別……しかもご丁寧に色分けまでされています。一体何が起こったのでしょうか。
「こ、これ、食べていいやつなのかしら……? 確かここらへんって、サザエとかウニとか採っちゃいけないんじゃ……?」
 夏葉さんはすごく慌てた表情をしています。確かに、もしかしたら法律に触れる可能性があるので、夏葉さんが不安になるのも無理はありません。特に近年、密漁が多く、余所者に対して警戒感が強くなっていると近所唯一の魚屋さんが言っていた気がします。
「これは一回、魚市場に行って返してくるわよ‼」
「は、はい‼」
 夏葉さんのあまりの慌てぶりに私も釣られて返事をしてしまいました。
 そして、私たちはまだ少しだけ残っていた氷をバケツに入れて、近くの(と言っても徒歩で二十分以上はかかりますが)魚市場に持っていきました。まだ朝早かったため、市場にはまだ人がたくさんいて、あちこちで配送の準備を行っていました。
 市場の中を歩いていると、物珍しい客のせいか、ジロジロと見られています。そして、夏葉さんが近くの市場の関係者に声を掛けました。
「お忙しいところ恐縮ですが、一点お聞きしたいことがありますが、今よろしいですか?」
「あ? あらかた配達終わったし、別にいいが……?」
 夏葉さんが声を掛けた市場の人……高齢で背が低めのおじさん。おそらく紫外線に当たり続けているからでしょうか、肌はくまなく真っ黒に焼けています。そして夏葉さんは氷を入れたバケツを掲げます。
「これ、私たちの家の前に置かれていたのですが……」
 夏葉さんがそう言うと、市場の人は合点がいってような表情に変わりました。
「あぁ‼ あのお嬢ちゃん、あんたらのところにそれ、置いて行ったんだな‼」
「……はい?」
 私はもちろん、夏葉さんも困惑の表情を浮かべています。それから、市場の人が言うには。
 朝早く、競りをしている時に、妙にちんまい子供が商品を競り落としていたとのこと。しかもししっかりと現金も持っており、予想外の高値で買ってくれたと。ちなみにバケツは、この市場のモノであること。
 私たちが密漁で手に入れたんじゃないかと疑っていたことを離すと、市場のおじさんは大声で笑います。
「確かに、密漁する不届き者はいるにはいるが……そこまで立派なものはもう近くにはないよ。それこそ、全部持っていかれちまったからな」
 とのことでした。
 私たちは安心して、市場から出ます。良かった、本当に良かった。しかし、ある疑問点が残ります。それは……。
「お嬢ちゃん……って誰なのかしら」
 夏葉さんがぽそりとそんな言葉を漏らします。一体、誰が私たちの秘密基地にこのお土産を置いたのか、誰が私たちの秘密基地の整理をしてくれたのか。しかも、昨日私たちは秘密基地で寝泊まりをしたはずであり、庭で作業すれば気が付くはず……。
「果穂」
「はい」
「……とりあえず、これ七輪で焼いて食べちゃいましょう」
「はい‼」
 どうやら、夏葉さんは考えることをやめたようでした。
009
 時は流れて次の週。撮影もほとんど終わり、クランクアップも間近になっていました。そんなある日、私と夏葉さんは秘密基地で出たゴミを片付けていました。
「まさか、ドラム缶が二つもあるなんて思わなかったわね……」
 トーストの上にベーコンエッグを乗せて食べていた夏葉さんがそう言います。私も夏葉さんの真似をして同じものを食べています。テーブルの上にはおんぼろのラジオが置いてあり、適当に周波数を合わせ、ラジオ番組を垂れ流しています。
 なんせ、この家にはテレビがありません。今の時代、スマートフォンで大抵どうにかなってしまうので、困ることはあまりないのですが。
「廃品回収業者さんも、さすがにここまでは来れませんよね?」
「そうね……、自分たちで持ち込んだ方が早いし、費用も掛からないのよね……」
 夏葉さんは牛乳を飲みながら、唸っている。きっと頭の中では、どうやってドラム缶を運ぶのか、考えているのでしょう。
 私はと言うと、トーストから零れそうになっているハムエッグの黄身と戦っていました。
「幸い、廃品回収業者までそこまで遠くもないし、ドラム缶なら転がせばどうにかなりそうだし……、果穂、運ぶの手伝ってもらえる?」
「はいっ‼ わっ、わっ、黄身が‼」
 そんなこんなで私たち二人はドラム缶を運ぶことにしました。
 ラジオから聞こえてきた今日の天気は相変わらずの晴天。昼頃から気温が高くなるとのことだったので、午前中にドラム缶運びをすることにしました。あらかじめ、夏葉さんがドラム缶に鎌で穴を空けており、雨水が入り込んでいたドラム缶の中身を空っぽにしました。
 ドラム缶自体、かなりさび付いていたので、私と夏葉さんは、両手に軍手をつけ、ゴロゴロと縦にドラム缶を転がします。中身を抜いたこともあるのでしょうが、意外と軽く私の力でも容易に運ぶことができました。
 草木の通路を越え、車通りが少ない車道を歩いて行くうちに、日光がぐんぐんと強くなっていきました。
「暑いわね……、果穂。体調は?」
「全然元気です‼」
「無茶はしないでね」
「夏葉さんもですよ‼」
「……そうね」
 そんな言葉を時折掛け合いながら、私と夏葉さんはドラム缶を転がしていきます。すると、前方でホースで道を濡らしている人が見えました。パーマがかかった白髪、腰が曲がってしまっているのか、とても小さく見えるそのおばあちゃんは、私たちを見て、驚いているようでした。
「おや……お嬢さんたち、何をやっているんだい? こんな、ドラム缶なんて持ってからに」
 その言葉に夏葉さんが返答します。
「ちょうど家を整理していた際に、捨てられていたこれらを見つけてしまって……、これらを廃品回収のところへ持ち寄っているところなんですよ」
 そう言って、夏葉さんは笑いかけます。何て言えばいいんでしょうか……とても慣れているといった印象を受けます。こういうところは本当に大人な感じがします。
「そりゃぁ大変だぁね……ここ最近、日射病が流行っているからお嬢さんたちも気をつけるんだぞ?」
 ニッシャ病? その言葉に私は首を傾げている間に、夏葉さんが大きく頷いて、こう言いました。
「ご心配いただきありがとうございます。それでは私たちはこれで」
 そう言って、私に向かってウインクをします。私は慌てて、ドラム缶をゴロゴロと転がします。おばあちゃんはにっこりと笑いながら、手を振ってくれました。
「ふむ……周辺住民との交流も大事……か、頭に入れておかないと」
 おばあちゃんと別れてからというもの、夏葉さんはそんなことを呟いています。私は頭の上に疑問符を乗せながらも、ドラム缶を転がしていきます。……しかし、ただドラム缶を運んでいくのもだんだんと飽きてしまいます。どうしたものかと悩んでいると、ふとテレビ番組のかくし芸大会の光景を思い出しました。
「確か……こうっ……わわわ」
 斜めに転がし、弧を描くように転がそうとしましたが、うまくいかず、途中でコテンと倒れてしまいました。
「あら?」
「うーん……なかなかうまく転がりませんね……」
「うまいこと転がそうとしているのかしら?」
 そう言って、夏葉さんも斜めに転がし始めます。すると、とてもきれいに弧を描いています。
「す……すごいです‼」
「ふふん……かくし芸の一つとしてコツは掴んで……」
「って……あぁーっ‼」
 私は思わず叫んでしまいます。何故か? それは、綺麗な弧を描いたドラム缶は坂道に差し掛かっていたこと。そして、途中で倒れず、そのまま綺麗なフォームを維持していたこと。そこから導き出される結果……。
「ドラム缶が坂道を転がるわ⁉」
「なんかすごいうまいことゴロゴロしてますーっ‼」
 そう言って、私と夏葉さんは駆け出しました。路肩に自分の持っているドラム缶を置き、坂道に向かって走り出します。なおもドラム缶は綺麗なフォームで斜めに転がり続けます。
「待ちなさい‼ ドラム缶‼」
「待ってください‼ ドラム缶‼」
 そんな今まで生きてきた人生の中でもいっちばん馬鹿みたいな言葉を叫びながら、ドラム缶を追いかけます。
 私と並列で走っている夏葉さんをちらりと見ます。その顔は本当に焦っていて、普段はそうそうみられる表情ではなくて、そんな夏葉さんの顔がとても面白くて、私は大声を上げて笑ってしまいます。
 大声を上げて笑う私に釣られてしまったのか、夏葉さんも大声で笑い始めます。それがなんだかとてもおかしくて、ドラム缶を追いかけながら二人でずっと笑っていました。
029
 都心から実に三時間以上。私はようやく目的地へと到着しました。相変わらず、無人駅であるここは駅舎が少しボロボロになっていました。確か去年か一昨年に相当大きな台風に見舞われ、甚大な被害を被ったと、スマートフォンのニュースで確認した記憶があります。その台風の爪痕は、今も生々しく残っており、『瓦落下注意‼ 近寄るな‼』と手書きで書かれた注意書きや、天井が砕け、家の中身が丸見えになってしまっているボロ屋などが見受けられます。
 駅前にある小さな花壇は八年前と変わらず、誰かが手入れをしているのでしょう。色鮮やかに咲き誇っています。左手を見てみると、そこには交番があり、そこには眠たそうな警官が常駐しています。気が付くとは思えなかったが、私は軽く会釈をします。反応はありませんでした。
 空は雲一つない青空であり、燦々と輝く太陽が私に向かって容赦なく自身の光をぶつけてきます。私は思わず目を細め、道を歩き始めます。
 秘密基地に訪れるのは何年ぶりになるのだろうか。
 私はそんなことを考えながら、歩き慣れた道を歩く。その景色は八年前とほとんど変わっていない。私と同じように、この町の時も止まってしまっているような、そんな錯覚を覚えた。空には相変わらず、鳶が飛んでおり、時折こちらを威嚇するように鳴いています。私は気にもせずに、歩を進めます。
 かつて謎の箱を届けに行った階段上にある神社。……あの神社に名前が存在していることをつい最近知りました。夏葉さんと廃品回収の業者のところまでドラム缶を運んだあの坂道……見るだけでもたくさんの思い出が溢れてきます。
 しかし、私は歩みを止めません。思い出を噛みしめられるほど、今の私に余裕なんてものはありませんから。
 そんな時でした。
「……あれ? 果穂ちゃんかい?」
 その言葉に私は驚き、身体が震えます。まさか、この地で名前を呼ばれるとは思っていませんでしたから。辺りを見渡してみると、そこには……。
「おばあちゃん……⁉ お久しぶりです……‼」
 私の目線の先には、杖をついている、かつてお世話になったおばあちゃんの姿がありました。出会った時から、腰が曲がっており、小さく見えていた方でしたが、さらに小さくなった……そんな気がします。それにパーマがかかった白髪も少し減っています。
「久しぶりだねぇ……、もうここには戻ってこないかと、てっきり……」
「いえ、少しだけ用事があって。以前はお騒がせしてしまい、申し訳ございませんでした」
「……若い衆に言われたことは気にせんでよい。あいつらも、果穂ちゃんたちがここに来なくなってから、随分とふさぎ込んでおったよ」
 おばあちゃんは柔らかな笑みを浮かべながら、私にそう言います。しかし、そんな笑顔を見ても、私の心は晴れることはありませんでした。
010
 時は進み、中学一年生になった今、私は悪いことをしています。家ではお父さんやお母さん、もしくはお兄ちゃんに叱られてしまうこの行動。秘密基地だからこそできる悪いこと。
「んん~~~‼ 冷たくて美味しいです‼」
「おかわりはまだまだあるわよ‼」
 外は快晴、雲一つない青空からは、燦燦と地面に太陽の光が降り注いでいます。そんな中、私と夏葉さんは縁側でスイカを食べていました。しかし、このスイカ、普段であれば食べやすい大きさに切ってから食べているのですが、今日は秘密基地で夏葉さんと二人きりなので……。
「やっぱり半分一気に食べるスイカは悪いことしている気がします‼」
「くりぬいた部分にこれまたひんやりしたラムネを入れちゃうわよ‼」
「すごい悪い子です‼」
 そう、スイカ一玉を半分こにして、スプーンでくりぬいて食べているのです……‼ こんなこと、家でやったらそれこそ大目玉です。氷を入れておいた桶に、スイカを入れて一晩納戸に入れておいたので、とてつもなく冷たく、熱く火照った身体を冷やしてくれます。さらに、これまた氷水で冷やしておいたラムネをスイカの中に注ぎ、スプーンで掬い上げて食べる……簡易的なフルーツポンチです。
「家でこんなことをしたら、カトレアに怒られてしまうもの……誰もいない秘密基地だからこそできるのよ‼」
「はい‼」
 そう言いながら、二人ともスプーンを動かし続けます。スイカもとても甘く、まさに今が旬。自然とスプーンを動かす速度も上がるってものです。
「悪い子さいこー‼」
「いぇい‼」
 そう言い合いながら、私と夏葉さんはハイタッチをしました。本当に最高の気分でした。
 そして、その日の夜。
「………………いだだだ」
「うぅ……」
 二人ともお腹を下しました。それはもう盛大に。
 冷たいスイカに冷たいラムネ、さらには暑いからとかなりの薄着で過ごしていたため、二人とも夕方ごろにはお腹がごろごろとなっていました。
「悪い子になるのは……相応の報いがあるのね……」
「この痛みは……悪い子への制裁なのでしょうか?」
 まさに自業自得であり、周りの人間から見てみれば、『ただのお馬鹿』他ありません。二人ともそんなことわかりきっているので、何も言いませんでしたが。
 悪い子もほどほどにしないと身を滅ぼす。中学生にもなって初めて身をもって知りました。
 次の日には二人とも腹痛から解放されており、活発に活動できるくらいには、動けるようになりました。
 ダイニングの壁に一枚の紙が取り付けられたのですが、その紙には『スイカは四分の一まで‼』と書かれていました。夏休み初日、いきなりお腹の痛みで始まりましたが、まだまだ始まったばかり、仕事もしばらくないとのことなので、羽を伸ばしに伸ばすつもりです。
011
 この秘密基地で夏休みを過ごすために、私は障害を二つほど越える必要がありました。まず一つ目はお仕事関連。大きなイベントや番組などが目白押しとなっているため、スケジュール的にとても調整が難航するかと思われました。しかし、夏葉さんが事前に調整を入れてくれていたためか、そう言うイベント関連のお仕事は夏休み前半に固まっており、八月の第二週以降から八月末までの休みを勝ち取りました。
 その分レッスンなどなど厳しいところもできてしまいましたが、貴重な長期休暇のため、頑張り抜きました。ちょこ先輩曰く。
『忙しすぎて、体重が激減したよ‼ ある意味ラッキー‼』
 とのこと。おそらく、休みの間に色んな場所へ凛世さんと樹里さんとで食べ歩きするみたいなので、リバウンドしないかほんの少しだけ心配です。
 そんな休みを得た私たちは、当初の予定通り、この秘密基地へと帰ってきたのでした。
「果穂ー‼ ちょっと来て頂戴‼」
 地獄のような腹痛から何とか解放され、束の間の朝の時間を布団の上で過ごしていた時、夏葉さんに大声で呼ばれました。このままゴロゴロしたいとも一瞬だけ考えましたが、いくら休みがたくさんあれど、それは有限である。そのことを思い出した私は跳び起きて、蚊帳を潜り抜け夏葉さんに返事をします。
「なんでしょうか⁉ と言うかどこでしょうか⁉」
 私がそう返事をすると……再び夏葉さんの声が響きます。
「納戸よ‼ 納戸に居るわ‼」
 そんな夏葉さんの声が返ってきました。私はダイニングへと移動し、納戸へと向かいます。すると、短パンでランニング姿の夏葉さんが納戸で何やら作業をしています。後ろから覗き込もうとした時、夏葉さんもこちらに気が付き、身体を退けてくれました。
 そこにはいくつかの大きな瓶が置いてあり、それぞれラベルに色んな果物の名前と、今日の日付が書いてあります。これは……。
「お酒、ですか? おばあちゃんの家で見たことがある気がします」
「そう、果実酒。果穂はまだまだ飲めないかもしれないけれど、これとか、七年後まで漬け込むつもりよ」
 そう言って、瓶の一つを指差します。そのラベルには……。
 『果穂が二十歳になったら開けること、先飲み及び未成年飲酒禁止‼』と書かれています。
「これをここに保存しておくわ」
「……ってことは、七年後に?」
「えぇ、一緒に開けて飲みましょう」
 そう言って、夏葉さんはいたずらっぽく笑います。
 二十歳、二十歳かぁ。
 それはとてもとても遠い未来のようで、今の私からは想像もつきません。そして夏葉さんはそっと果実酒が入った瓶に布をかぶせます。
「一年くらいは私も飲めないわ。あ、梅だけ手入れするかもだけど」
「そうなんですか?」
「梅はあまり放置しすぎると、えぐみが出てしまうのよ。だから、途中で取り出してあげる必要ある……らしい!」
「らしい……ですか?」
「えぇ、私も初めての体験ですもの」
 夏葉さんは、立ち上がり納戸から出ます。それに倣って私も外へと出ると、夏葉さんが伸びをしています。その表情はなんだかいたずらを仕込んでいる子供のようでした。
「そうだ、果穂。別件で、聞きたい事があったのだけど」
「何でしょうか?」
 私はつい先日到着した冷蔵庫を開き、紙パックのジュースを取り出します。それをみた夏葉さんは二人分のグラスを取り出すと、目の前のテーブルに並べます。そこへ私は均等にジュースを注いでいきます。
「去年……だったかしら? 果穂が神社で気を失って倒れたこと、あったじゃない?」
「あー、ありましたね。とても不思議な出来事でした」
「あまりにも不自然な出来事だったから、色々と調べてみたのよ」
 そう言って、夏葉さんは机の上にクリアファイルを置き、中からいくつかのプリントを取り出します。そして、そのプリントを机の上に並べ、私が見やすいように位置を調整してくれました。
 その資料を見てみると、そこには『神隠し』の文字がありました。
「もしかしたら、果穂が神隠しにあっていたんじゃないかって、思うのよ」
「……えぇ⁉ 私がですか⁉」
「そう。でないと、色々と説明がつかないもの、果穂があの場で気絶してしまっていたこと、私があそこに導かれてしまったこと、全部」
 夏葉さんは真剣な顔で呟く。そして、プリントの一つに手を乗せます。そこに印刷されていたのは、かつて、私が箱を返しに行った、そして、何故か気絶していた、あの神社だった。
「探検よ‼ 果穂‼」
 なるほど、夏葉さんはこれがやりたかったのか。今まで緊張していたので、わかりづらかったのだが、何だか夏葉さんの目が爛々と光っているように見えてきました。
「はい‼ 夏葉さん‼」
 もちろん。私に断る理由などありませんでした。
012
「帽子‼」
「はい‼」
「水筒‼」
「はい‼」
「スマートフォン‼」
「はい‼」
「じゃあ行くわよ‼」
「はい‼」
 と言った具合に、私と夏葉さんの冒険は始まりました。流石に秘密基地内みたいな軽装備だと、人に見られると流石に少々恥ずかしいと言うのもありますが、何より、虫刺されと、日焼けが気になります。いくら、プロデューサーが多少の日焼けは許容するとは言っていても、アイドルです。肌の管理は欠かせません。
 私の記憶を頼りに、秘密基地を出て、しばらく道を歩きます。正直に言うと全く自信はありませんでした。何せ、一年も前の記憶ですから、曖昧になっていても不思議ではなかったからです。
 しかし、そんな私の不安とは裏腹に、記憶の引き出しはいとも簡単に道順を照らし出してくれました。思った以上に複雑な道であったはずなのに、あっさりと目的地の神社に到着します。
 じりじりと照り付ける太陽の元、私と夏葉さんは、その神社に足を踏み入れます。
 あの、急な階段を私と夏葉さんは上ります。神社の鳥居や階段を隠すように、木々が伸びており、階段全体が日陰になっています。その日陰の中は、とてもひんやりとしており、火照った身体を少しずつ冷やしてくれます。
 確かに、去年もこんな感覚を味わった気がします。
「去年もこの階段は上ったけれど、ここは本当に急ね……段から足を滑らせてしまわないように気をつけないと」
 夏葉さんはそう言いながら、私に手を差し伸べます。手を繋ぐということでしょう。少々気恥ずかしかったですが、ここには人の目もないので、遠慮なく夏葉さんの手を握ります。ほんの少し、ひんやりとした手が私の手を握り返します。夏葉さんはニコッと笑い、上を……階段の果てを見上げます。
 やはり何だか恥ずかしい。中学生になってから、こういう行為に関して、羞恥心を覚えるようになった。別に夏葉さんが嫌いというわけでは決してないのですが、なんとなく気恥ずかしい。
 これが思春期というものか。そんなことをぼぅっと考えます。なんとなく、本当になんとなくですが、樹里ちゃんの気持ちがわかる気がします。
 恥ずかしいものは恥ずかしいです。
「だけど、ここは本当に涼しいわね……日陰だし、風の通り道みたいだし」
 私がそんな自分の思春期について考えていると、夏葉さんがそう言います。思考を現実に戻し、私は返事をします。
「ですね……、エアコンが壊れてしまったら、ここに避難するのもありかもしれませんね」
「ナイスアイデア……と言いたいところだけど、きっと夜になったら怖いわよねここ」
「夏葉さんが苦手な真っ暗闇ですよ」
「人間は暗闇で生きていくようにはできていないのよ‼」
 夏葉さんは真剣な顔でそう言う。そんな夏葉さんがおかしくて思わず私は笑ってしまいました。そんな私を見てか、夏葉さんは頬を膨らませ……。
 むにぃっと私の頬をつねります。力は全然入っていなかったので、ただ顔が歪んだだけですが。
「からかわないの」
「ふぁーい」
 そんなやり取りを夏葉さんとしていると、いつの間にか境内に行きつきました。前回来た時と何ら変わりない状態でした。
 その時。
「む、この前の童か」
 そんな声が聞こえてきます。私は思わず周りを見渡します。しかし、そこには誰も居ません。首を傾げていると、ふと甘い香りが私の鼻をくすぐります。
 また、あの甘い匂いです。
「夏葉さんも聞こえました?」
「えっ」
 私が声のことについて尋ねると、夏葉さんはギョッとした顔を覗かせます。……あれ?
「この前の童か……って声聞こえませんでした?」
「いやいやいや⁉ 聞こえていないわよ⁉」
 夏葉さんはあわあわとしながら、そう答えます。どうやら、夏葉さんには聞こえていないらしい。私は更に周りを見渡します。
「好奇心旺盛じゃな、悪いことではないが、良いことでもないぞ?」
 また声が聞こえます。そして、その直後、私の背後を何かが駆け抜けます。私はすぐに後ろを振り向きましたが、やはりそこには誰もいません。
「な、な、何が聞こえているのかしら⁉」
 少々パニックになっている夏葉さんは置いておいて……、私は咄嗟に本堂の屋根部分を見ます。するとそこには……。
「あ……、あの時の」
 一年前、私が訪れた時となんら変わらない姿で、白い仮面をつけた子供が本堂の上に立っていました。
「隣の女は……ふむ……視えていないようじゃな」
「あの! 質問! 一個だけ質問していいですか‼」
 私は叫びます。夏葉さんは身を縮こませ、私の腕にしがみつきます。何とも珍しい光景ではありますが、私は目の前の事象を優先します。
 私の問いかけに、白いお面被った子供は……本堂の屋根に腰を掛けます。
「ふむ……まぁ良いだろう。一つだけだぞ?」
「何故私を神隠ししなかったんでしょうか! 資料によると、ここの神様は……」
「あぁ、何だそんなことか……どんな質問をされるんだか、肝を冷やしたぞ」
 そう言って、子供は本堂の上から飛び降りて、私の目の前に降り立ちます。甘い香りがふわっと鼻の中に広がります。
「お前が悪い子じゃなかった。以上」
「え⁉」
「存外神とは適当なもんよ。神隠しする必要がなければ一切せん。神隠しだってタダではないからの」
 子供はくるりと一回転をし、跳躍。本堂の手前まで戻ります。
「夏に閉じ込める必要がない良い子は基本的には放置じゃ放置」
 そう言って、子供はカラカラと笑います。神……と言った? もしかして、この子は……。
「神、様……?」
「えぇええぇぇぇ⁉」
「ご名答。ふむ、隣で怯えている女は気が付いてないようじゃがなの」
 再び子供……いや、神様はカラカラと笑います。……いや、そんな、こんなことって。
「中学生でも童判定なんですね……」
「そこが気になるんじゃな」
 神様はカクンと首を傾けました。しかし、すぐに体勢を直すと。私に向かってこう言います。
「神隠しの話はこれで終い。しかしそこの女は面白いのぅ。ころころころころ表情が変わりよる」
 神様はそう言ったかと思うと、再び跳躍、夏葉さんの腰をツンツンと触ります。
「ぴゃぁ⁉」
「まるでアカギツネのような声やのう」
 神様はちょこちょこ跳ねまわりながら、夏葉さんのあちこちを触る。……いやらしさとかは全くないのだが……。
「た、たすっ、果穂」
 夏葉さんは今にも気絶してしまいそうな表情を浮かべています。無理もありません。元々怖いものが苦手なのに、目に見えない相手から触られているのですから。
「夏葉さん祟られましたね」
「ぴぅ⁉」
「童も大概鬼じゃんのう」
 しばらく神様は夏葉さんで遊んだあと、再び本堂の上へと舞い戻ります。夏葉さんは私の肩にしがみついていて、離れる気配がありません。少々いじめすぎたかもしれないです。
 神様は満足そうに伸びをすると、この前みたいに大きく「ケーン」と吠えます。すると、ざわざわと周りの木々が揺らめき、本堂に乗っている神様と同じような格好をしている子供たちが姿を現します。
 すると、夏葉さんがこんなことを叫びました。
「き、狐⁉」
 なるほど。この人……いや、この神様は……。
「さぁ、良い子はもう帰る頃合いだ。こちら側に引きずこまれたくないならな」
 そう言って、神様はもう一度、「ケーン」と吠えます。
 すると、周りの子供……いや、狐たちもそれに呼応して、「ケーン」吠え始めます。その光景はとても妖しく艶やかで、おおよそ人間が見てよい光景ではない、そう直感が囁きました。
「帰りましょう夏葉さん。このままだと本当に祟られてしまいそうです」
 私はそう言って、肩にしがみついている夏葉さんを話しかけると……何だか様子が変です。
 まさか、もう祟りが? 焦り、背中に引っ付いている夏葉さんを引き剥がし、肩を抱えます、すると……。
「果穂ぉ……腰が……」
「……神様たちちょっとタンマしていいですか? 夏葉さん。動けなさそうです。ほら、腰抜かしちゃってます」
 周りの木々から一斉に何かが落ちる音が響き渡りました。
 吠えられてからしばらく経った後、夏葉さんはようやく生まれたての小鹿のように立ち上がることができました。顔は真っ青でしたが。
「のう、童。なんでこやつはこんなに怖いものが苦手なのに、ここに来たんじゃ?」
「好奇心だと思いますよ……」
「あははっ、果穂は誰としゃべっているのかしら⁉」
 夏葉さんはそう言いながら、よたよたと歩き出します。こんな弱っている夏葉さんを見るのは本当に久しぶりだったので、ちょっと調子に乗りすぎました。
 よたよたと歩いている夏葉さんの肩を持ち、ゆっくり、ゆっくりと境内から出ます。
「悪い子になってくれるなよ。祟るのも神隠しをするのも骨が折れるんだ」
 最後に神様はそう言って、姿を消してしまいました。
 何とも、不思議な体験でした。
 それから私と夏葉さんはよたよたながらも無事、秘密基地の中へと戻ることができました。夏葉さんと私はお風呂に入り、汗を洗い流し、髪の毛を乾かした頃にはもうお昼の時間でした。しかし……。
「夏葉さん。何寝ようとしているんですか?」
「あはは、まだ夢の中なんでしょう? 布団で寝て起きれば、朝になっているはずよ?」
 どうやら、先程の神様の事件を引きずっているみたいです。夏葉さんは神様の姿形が見えていなかったみたいですし、怖がるのも無理はないと思いますが……。
「あはは、あはは」
「夏葉さん。それは布団じゃなくて、私の洋服です。しっかりしてください」
 狐につままれてしまったのでしょう。私はほんの少しだけ溜息をつき、夏葉さんの世話を始めました。
 夏葉さんが正気に戻ったのは、それから三時間ほど後、夕方になってからの事でした。
 それからのことですが、不思議なことが、秘密基地の中で起きるようになりました。
「夏葉さん夏葉さん。見たください! これ!」
「え? ほぁわぁぁ⁉ 青い炎が空中に浮いているわ⁉ 消防!消防!」
 夜、庭先で青い炎が浮いていたり。
「あ、夏葉さん。今日も占い結果が、玄関先に置いてありますよ」
「なんで⁉」
 朝、庭先にやけに達筆な占い結果が置いてあったり。
「あ、これ食べられる山菜ですよ。いっぱいです‼」
「いやいやいや‼」
 昼間にふと庭先に目をやると、山の幸が置かれていたりと不思議なことばかり起きました。
「祟られている……? 私が? 果穂が……?」
 きっとあの神様は驚く夏葉さんを見るのが好きなのでしょう。
 神様が飽きるまで、この謎のサプライズは続くことになりました。
013
 神様のサプライズも終わりをつげ、夏葉さんの心に平穏が戻った頃。朝早くから夏葉さんはどこかへと出かけていました。
 日が昇り、私が目を覚ました時には、隣の布団はもぬけの殻となっており、朝食をとるため、ダイニングに行くと、メモ書きが机の上に置いてありました。
『お昼頃には帰ってきます 夏葉』
 お昼頃か。
 私は大欠伸をしながら、洗面所に向かい、髪の毛を整えます。
 朝ごはんは何にしようか。昨日夏葉さんがウキウキで作っていたブルーベリージャムを使って、トーストでも良いし、卵使って目玉焼きを作っても良い。なんなら、昨日夏葉さんと一緒に作った炊き込みご飯の残りを食べても良い。
「迷うなぁ……」
 私は独り言ちながら、顔を洗います。冷たい水が私の眠気を一気に吹き飛ばし、活力を生みます。
「よし‼」
 私は炊き込みご飯を食べることにしました。
 炊き込みご飯とこれまた昨晩から残っていた味噌汁を飲み干し、時間を見てみると、まだ午前九時。ゆっくりと朝食を取っていたはずなのですが、思いのほか時間は経っていませんでした。
 ここ数日は夏葉さんとずっと一緒だったので、こんな長い間一人になるのは久しぶりかもしれません。
 私は食器を洗い、歯を磨きます。歯の磨く音と、外から蝉の声しか耳に入りません。
 夏葉さんがいない秘密基地ってこんなに静かだったんだ、私はぼぅっと考えます。もっと、もっと耳を澄ませてみると、遠くから波の音が聞こえます。今日は比較的穏やかであり、岸壁を打ち付ける波の音も普段よりかは静かです。
「……なんだろ」
 そうです。
 暇になりました。
 私は首を捻り、何とかして暇をつぶす手段を考えます。やることは昨日のうちにやってしまっていたし、食事も先程済ましてしまった。掃除をやろうにも先日ピッカピカになるまでやってしまったし、草刈りも、鎌などの器具を使う関係上、夏葉さんがいないとできないルールになっています。だからこれも無しです。
 うんうんと唸りながら、和室をぐるぐると回ります。何か、何かやることはないか、遊べることはないか……。
 一瞬だけ、『夏休みの課題』と言う言葉が出てきましたが、小学生の頃と違い、そこまで量はありませんでしたし、秘密基地を全力で満喫する気だったので、夏休みが始まる前に全て片付けてしまいました。
 だとすると……。
 私は夏葉さんとの共用パソコンを取り出します。パスワードを解除し、通話アプリを立ち上げ、とある場所に通話を掛けます。
 ……出てくれるかな。
 すると、何回かコール後、画面に茶色い何かが映りこみます。
「もしもしマメ丸ー?」
『ワンッ』
 私が声を掛けると、そこにはマメ丸がベロを出して、くるくると回っている姿がありました。これは私の兄に頼んで設置してもらった、マメ丸専用の通話カメラです。
 長い間マメ丸に会うことができないため、いつでも顔を合わせられるように、カメラを設置したのです。
「元気?」
『ワンッワンッ』
 マメ丸はどうやら起きたばかりで、元気溌剌としており、今もぴょんぴょんと跳ねまわっています。
「お利口さんにしてる? お母さんに迷惑かけてない?」
『ワンッ!』
 わかっているのかわかっていないのか、マメ丸はお座りをして、カメラをてしてしと叩きます。
 心配ないよと言っているようなそんな錯覚を覚えます。
「うん。何事も問題ないならよし!」
『ワンッ‼』
 そう言って、マメ丸は再びくるくると回り始めたかと思うと、すぐにスンと表情を変え、飽きたように地面に伏せます。
 ……相変わらずマメ丸は熱しやすく冷めやすいというか。すると、カメラの淵がコツコツと叩かれ、カメラが上を向きます。そこにはお母さんの姿がありました。
『果穂ー? 元気ー?』
「うんっ! 元気!」
『夏葉ちゃんに迷惑かけてないー?』
「かけてないよ! 大丈夫!」
『そう? ならいいんだけどー……あっ、そういえば西城さんのところから暑中見舞いが届いたのよー。私からもお礼を言っておくけど、果穂からもお願いー』
「うんっ! わかった‼」
 お母さんとの会話を交わし……。気が付けば、二時間ほど経過していました。
『大変! お母さん用事があるんだった』
「え、それってまずいんじゃないの?」
『大丈夫、大丈夫、まだまだ時間に余裕はあるから‼ じゃあ夏葉ちゃんによろしくね‼』
 そう言って、通話が途切れました。久しぶりにここまで家族と会話した気がします。
 時刻は午前十一時、まだまだ夏葉さんは秘密基地に戻ってきません。どこまで出かけたのでしょうか。
「ん~~~~~~。暇っ」
 私は一人でそう呻きながら、畳の上を転がります。
 こうなったら、禁断のスマートフォンいじりをしてしまおうか……。あくまで私の中のルールだったのですが、夏休みの間、なるべくスマートフォンはいじらずにこの秘密基地で過ごそうかと考えていました。
 理由は本当になんとなくで、秘密基地の時間を、スマートフォンに取られてしまうのが、何となく嫌だったのです。しかし、先程お母さんとの会話で、西城家……樹里ちゃんに連絡できる大義名分を得てしまいました。
「んむむむむむむ」
 しかし、なんとなく今まで頑張って我慢してきたことを破るのはなんだか抵抗があります。
 そんな独り相撲をしていると、外からガサガサと音が聞こえてきました。これは……。
「果穂ー‼ 玄関開けてー‼」
 夏葉さんの声です。私は急いで立ち上がり、玄関へと急ぎます。そしてサンダルを履き、玄関を開きます。すると、玄関の前には夏葉さんが両腕一杯に大きな大きな荷物を抱えていました。
「ちょっと玄関のドアを開けっぱなしにできないかしら? これ自体あまり重くはないんだけど、ちょっと嵩張って……」
「はいっ!」
 玄関のドアを外側へ目一杯開き、夏葉さんが通りやすいようにしました。
 夏葉さんはそのまま慎重に玄関をくぐります。そして……ドサッと両腕に抱えていた荷物を下ろします。
「ふぅ。一件落着ね」
 そう言って、夏葉さんは汗を拭います。
「夏葉さん! 麦茶いりますか?」
「えぇ、お願いしてもいいかしら」
 夏葉さんの言葉に私は大きく頷き、台所へと急ぎます。グラスを取り、麦茶をついで、和室に持っていきます。そこにはすでに夏葉さんが、扇風機の前で涼しんでいました。先程まで外着だったはずなのに、いつの間にかホットパンツにタンクトップといつも通りの姿に戻っていました。
 夏葉さんは私から麦茶を受け取ると、一気に飲み干します。冷蔵庫に冷やされていた麦茶を一気に飲んだせいか、頭がキーンとしたのでしょう。頭を軽く押さえています。
「ふぅー、生き返るわね」
「玄関のアレ、何を買ってきたんですか?」
 私がそう質問をすると、夏葉さんはタンクトップをパタパタとはためかせながら。
「あれね、花火よ」
「花火……って、えぇ⁉ 多くないですか⁉
「そう? きょ、去年もあれくらいじゃなかったかしら?」
「それは放クラ全体での花火をやった時の話ですよね⁉」
「……そうだったかもしれないわね」
 夏葉さんは目を泳がせてします。もしかして、これは。
 
「たくさんやりたかったんですね夏葉さん……」
「生暖かい目‼」
 私は小さく溜息をつきますが、全力でたくさんの花火をやってみたかったのも事実。私は……。
「夜が楽しいです」
「えぇ、楽しみましょう……っとその前に夜に作業することを先に済ませてしまいましょうか、晩御飯の準備だったり、お風呂の準備だったり、ね?」
 夏葉さんはそう言って、私にウインクをします。ここ毎日ずっとですが、心がワクワクしてきました。
「と言っても、まだまだお昼ですけどね夏葉さん。ちょっと休憩しましょう?」
「……それもそうね。ちょっと気が急いていたわ」
 照れ臭そうに笑う夏葉さんを見て、私も自然と笑みが零れました。
014
 時間は進み時は夜。晩御飯の準備であったり、花火をやるために庭先を少し整備したり、あとは花火が終わったらそのまま入れるようにお風呂も沸かし……そんなことをしていたら、あっという間に夜になってしまいました。夏葉さんはどこから持ってきたのか、浴衣を二着分用意しており、私も夏葉さんも二人とも浴衣姿になっています。
 そして、たくさんの水入りバケツを用意し、私たちは手から星を零していました。
「見て果穂‼ 一気に六つも点火させたわよ‼」
「すごい眩しいです‼ 私もたくさん着けます‼」
 一晩で消費するにはあまりも大量の花火を私たちは二人で点火し合います。何度も何度も点火をして、それでもなお花火は尽きることはありません。
「本当にどんだけ買ってきたんですか‼」
「店の在庫を一掃する勢いで買ったわ‼ なんかお店の人も花火が売れなくて困っていたからつい‼」
 もし、ここに放課後クライマックスガールズが揃っていたとしても、消費しきれなかったのでは……? そのくらい花火の数は多く、まだまだ山となって残っていた。
 まぁ、今日使いきらなくても、別日に使えば良いか。
「果穂‼ 見て‼ 線香花火を一気に四つ点火させたわ‼」
 夏葉さんが目を輝かせながらそう言う。夏葉さんが満足しているなら別に良いか……。
 そんなことを想っていた時でした。
 ぽつり、ぽつりと、水滴が顔に触れました。最初こそ気のせいかと思っていたのですが、徐々に地面に大粒の水滴が叩きつけられてきました。
「夏葉さん‼ 雨‼ 雨です‼」
 私がそう叫ぶと、夏葉さんは慌てた顔をして、線香花火を消し、残っていた花火を屋内に誘導します。私も慌てて縁側に避難し、空を見上げます。
「わー……すっごい降ってますね……」
「そんな、今日に限って……いや、本当にすごい雨ね……」
 私は急いで、洗面所からハンドタオルを二つ取り出して、一つを自分の頭にもう一つを夏葉さんに渡します。
「ありがとう」
 笑顔で受け立った夏葉さんですが、どことなく悲しそうな表情を浮かべています。一体どうしたのでしょうか? 花火が中断になって悲しくなってしまったのでしょうか?
 私がそんなことを考えていると、夏葉さんはトボトボと花火を納戸に片付け始めました。私も夏葉さんに倣って、片付けをします。
「花火、明日もきっとできますよ。今日はちょっと雨が降りましたが……」
「そうね……うん、そうね……」
 夏葉さんはそうは言いつつも、とてつもなく落ち込んでいます。
 ……本当にどうしたのか。私には理解ができませんでした。花火を片付け終わり、私と夏葉さんは和室に戻り、縁側から外を見ます。相変わらず雨は激しく降っており、なかなか止む気配を見せません。今夜はこのまま振り続けるのでしょうか。
「はぁ~……なんで今日に限って……」
 夏葉さんは先程から何度も何度も溜息をついては、天を見上げています。もしかして……何かサプライズを用意していたのだろうか。一瞬そんな考えが過ったが、すぐに頭の中からその考えを打ち消す。
 本当にサプライズだったらどうするのか。びっくりしなければ夏葉さんに失礼ではないのか。そんな考えも過ったからである。
「……何か飲みますか? さっきまではしゃいでいましたし、喉……乾きません?」
「……そうね。確か冷蔵庫にラムネが入ったいたわよね? 自棄飲みするから、二本頂戴」
「またお腹壊しますよ」
 私は苦笑いを浮かばせながら、立ち上がり、ダイニングにある、冷蔵庫の中からラムネを三本用意し、二つを夏葉さんに渡します。
 夏葉さんは手慣れた手つきでラムネを一本開け、ごくごくと飲み始めます。私も吹き零しても良い様に、縁側の外にラムネを出し、ピンクの蓋をラムネに押し付けます。ぷしゅう、と言う音と共に、炭酸が外に霧散します。
 そこから一口二口三口……口の中でしゅわしゅわと炭酸が弾けます。
「天気予報では、ずっと晴れだと言っていたのに。まさかこんなに降るなんて」
「……雨の匂い、凄いですね」
 噎せ返るような草の匂いが私の鼻の中に入り込みます。大粒の雨であたりが湿り、地面に水たまりを作ります。庭には、先程まで遊んでいた花火用のバケツがいくつも並んでおり、バケツの中に波紋が広がっているのがぼんやりと見えます。
 バチバチと地面を叩きつける雨が、耳に入ります。それは意外と心地よく、何となく眠気を誘います。
 先程まではしゃいでいたせいでしょうか、何だかうとうととしてきました。すると、それを見つけたのか、夏葉さんがそっと寄り、私の肩を押し、自身の太股に乗せます。
 所謂膝枕です。
「寝ても良いのよ?」
「……本当は眠りたくはないのですが……少しだけ、ほんの少しだけ」
 そう言って、私はそのまま雨の音に導かれるまま、睡魔に身を任せます。私の頭をそっと撫でる夏葉さんの体温を感じながら。
 …………………………。
 ………………。
 ……。
「果穂‼ 雨が止んだわよ‼」
 夏葉さんの声に私は身を震わせ飛び起きます。一体何が⁉ どうなった⁉
「夏葉……さん?」
「あぁ、ごめんなさいね。雨が止んだのよ‼」
 どれくらい寝ていたのか、寝ぼけていて、なかなか時間が掴めない。
 外を覗いてみると、確かに先程あんなに降っていた雨は止み、空には星が見え始めました。夏葉さんは雨が止んだことにすごい喜んでいて、見ていた私も何だか嬉しくなってしまいます。
「ラムネの自棄飲みをした甲斐があったわね」
「またお腹壊しますよ?」
 夏葉さんの隣にはラムネが三本並んでおり、私が中途半端に残した分まで飲み干してくれたみたいです。すると、夏葉さんが何やらソワソワし始めています。
「何だかんだでここを秘密基地にしてから、一年は経ったわよね」
「そうですね。去年ここまで夏葉さんの後をつけたのが、何だか遠い昔みたいです」
「そうね。そうだったわね……」
 相変わらず夏葉さんはどことなくソワソワしており、落ち着きがありません。
 もしかしたら、お花を摘みに行きたいのかな? そう考えた私は起き上がり夏葉さんの膝枕から離れます。すると夏葉さんは驚いたような顔をします。
「どうかしたのかしら?」
「夏葉さんが、その、ソワソワしているから、お花摘みに行くのかと……」
 私が小さな声でそう言うと、夏葉さんは手を横に振りこう言います。
「大丈夫よ。まだ行きたくない。それに、ソワソワしているのは別に理由があるから」
 夏葉さんはそう言って空をまた見上げます。私の釣られて空を見上げます。空にはたくさんの星々が煌めています。こんな風景、都心ではなかなか見る機会がありません。
「来年あたり、天体望遠鏡でも買う? きっとよく見えるわよ」
「……そうですね。見てみたいです」
 そう言って、私はそっと夏葉さんの肩に頭を置きます。
 また来年……、アイドルと言う職業についている以上、スケジュールに絶対なんて、言えません。もしかしたら、去年みたいに長期間の撮影に入ってしまうかもしれない。もしかしたら、夏フェスの日程が後ろ倒しになって、練習やリハーサル三昧になってしまうかもしれない。もしかしたら……もしかしたら。
 だけど、望めるのであれば、また、来年も。
 すると、夏葉さんがうちわをゆっくりと振りながら、こう言います。
「私はね。この平屋が、秘密基地が好きなの」
 肩越しに見えた、夏葉さんの顔はどこか誇らしげで、どこか子供っぽくて。私は頭を肩から離し、なんとなく……なんとなくですが、そんな夏葉さんをジッと見つめてしまいました。しかし、数十秒見つめてしまったところで、夏葉さんは私の視線に気が付いてしまったらしく、少しだけそっぽを向いてしまいました。夏葉さんが扇ぐうちわの速度が上がっているようなそんな気がします。
 そっぽを向かれてしまった私はラムネ瓶に映る月を眺めます。今夜は星々も明るいですが……お月様もとても明るいです。すると、夏葉さんが家の中の壁時計を眺めているのが視界に入りました。再びソワソワし始めます。
 そこで私は嫌な予感に襲われます。
 もしかして、これから仕事なのだろうか。
 もし本当なら少しだけ、プロデューサーのことが嫌いになってしまうかもしれない。しかし、それは杞憂だったらしい。夏葉さんは息を吐き、リラックスし始めた。そして、私の方へ振り向き。
「今夜はね。特別。本当に、休みが取れてよかった」
 と言った。 その、直後。
 空に色とりどりの花が咲き乱れる。
 数瞬遅れて、音が響く。私の身体の奥まで、深く、深く。
「あ……花火……」
「うんうん。雨も降った直後で、空は澄み切ってるし‼ 晴れたのは本当にラッキーだわ‼」
 そう言って、夏葉さんは興奮気味にうちわを振る。その表情は大人なのに、とても子供っぽくて。
「綺麗ですね。夏葉さん」
「え…………って、私なんかより、今は花火花火! ほら、たーまやー‼」
 私はなんてことを言ってしまったのでしょうか、急いで目を逸らし、空を見上げます。
 何だろう。花火のせいだろうか、若干夏葉さんの顔が赤い気がします。……かく言う私も……、その、顔が熱くて。
「かぎやーーーーーーーーーーー‼」
 思わず、目一杯叫んでしまいました。
031
 私は、玄関に手を掛け、そっとそっと扉を引きます。鍵は『最期の時』から何ら変わらず掛かっていませんでした。
 できるだけ。できるだけ、あの時の事を思い出さないように、素早く秘密基地の中に入りました。埃が積もっているくらいで、あまり変わっていない玄関廊下を裸足で歩き、近くの扉から、和室へと移動します。
 秘密基地の中は、経年劣化のせいか、ボロボロになってしまいました。
 六年間でここまで荒廃してしまうのか。そう考えましたが、おそらくここ数年で、この半島を襲った、度重なる強烈な台風と、潮風により、劣化が早まったのでしょう。
 夏葉さんがいなくなってから、手を加えることができなかったとはいえ、なんだか悲しくなってきます。
 一部の屋根瓦が剥がれており、和室部分の天井に大きな穴が開いている状態でした。元々、この平屋はとても古い建物であり、あくまで夏葉さんはその古い建物を復元したにすぎません。
「元々寿命だったんだね」
 誰もいない秘密基地の中で私はそう独り言ちます。天井が抜けてしまっているためか、声が反響することはありませんでした。
 かつては私と夏葉さんが布団を並べて寝ていた和室は雨ざらしになっていたためか、畳は水分によって膨張し、さらには腐っていました。最初こそ、裸足で歩きまわろうとしましたが、土足でないと怪我をしてしまいそうだったため、泣く泣く断念しました。
 和室の中をそっと探索していると、中から色んなものを発見しました。毎晩毎晩お世話になった蚊帳や、蚊取り線香が詰まっていた缶。私が十四歳の時に夏葉さんが持ってきた天体望遠鏡。縁に掛けっぱなしになっていたハンガーに、くしゃくしゃになった作戦会議用の大きな大きな用紙……それと……。
「あぁ……懐かしい……、こんな馬鹿みたいなこともやっていたっけ」
 私はあるものを見つけ、思わず笑みをこぼしてしまった。
 布団やその他小物がしまわれている押し入れの中に、その缶はあった。
 近所のおばあちゃんがくれた大きな大きなお煎餅が詰まっていたお菓子の缶から。その缶の中には二人分のヘルメットと養生テープ……、それとたくさんの誕生日ろうそく。
 それは私が十三歳の時に秘密基地の中で台風と戦った記憶。ヘルメットと養生テープを保存しておくのはわかるが、何故誕生日ろうそくを取っておいたのやら……。
「……って、当たり前か。これも」
 大切な夏葉さんとの思い出なのだから。
015
『北上する台風--号はーーーー』
「あっ、また電波が……おっかしいわね……」
 朝、揺れる窓から見える外は灰色雨模様であり、風がぴゅうぴゅうと容赦なく、この秘密基地に吹きつけます。外は台風模様で、外に出ることもかないません。そのため、夏葉さんは台風中継を聞くために、ラジオをつけましたが……どうもうまく電波が入ってくれないらしく、何度も何度もラジオの周波数をいじっては首を傾げています。
「まだあなたは動けるはずよ。最後の一瞬までちゃんと動いて頂戴」
 そう言いながら、夏葉さんはかるーくラジオを叩きます。時折台風中継をしているラジオMCの声がクリアになりますが、何秒かすると、また砂嵐になってしまいます。
「頑張ってください‼」
「ほら、果穂にも言われているわよ。根性見せなさい」
 とは言うものの、ラジオはだんだんと音が頼りなくなり……そのうちに、砂嵐しか鳴らさなくなりました。
「壊しましたか?」
「……違うわ。きっと寿命だったのよ」
 そう言って、夏葉さんはラジオの電源をオフにして、押し入れの中にしまい込みます。と、今度持ってきたのは二つのヘルメットでした。
「念のため被っておきなさい」
「本格的ですね」
「昨日のうちにできる限りの対策は取ったけれど、完全に安全とは限らないから」
 夏葉さんは手慣れた手つきでヘルメットを被り、頭に固定します。
 昨晩からずっと夏葉さんは頭にヘルメットを被る練習をしていたので、着脱はお手の物みたいです。私も夏葉さんに倣い、ヘルメットを装着します。
「今日は戦争よ……‼」
「はい……‼」
 私と夏葉さん決意を新たに、台風との戦いに挑むことになりました。
 今回の台風は勢力がかなり強い上に、まさかの私たちが構えている秘密基地を縦断するらしく、強さは未知数。できる限りの装備の調達は昨日までに済ませていたものの、それでも一抹の不安は拭えません。
 窓という窓には養生テープを貼り付け、台風の間、何が止まってしまっても良い様に、水道の代わり、ガスの代わり、電気の代わりを全て揃えました。
「あとは……そうだ。激しくなる前に、雨戸‼」
「はい‼」
 それから二人で手分けをして、雨戸を閉めることになりました。まだまだ台風の本体が上陸していないのにも関わらず、雨風が酷く、少し窓を開けるだけでも秘密基地の中に雨が入り込みます。
 それでも必死に雨に視界を奪われながらも、雨戸を閉めていきます。
 全ての雨戸を閉め終わったころには、お昼に差し掛かっていました。夏葉さんは雨戸を閉めたせいで真っ暗になっている和室に電灯を灯します。
「果穂、今日はスマートフォン解禁よ。緊急事態だから」
「はい、承知してます‼」
 私は自身のスマホをお守りのように握りしめます。夏葉さんはそれを見て頷くと、ノートパソコンを開きます。
 ラジオが壊れてしまった今、テレビもないこの秘密基地で、情報を得るためにはノートパソコンからか、スマートフォンからかの二択となっています。
「……何だか都心では、阿鼻叫喚みたいね。やれ食料がないだの、やれ養生テープがないだの騒がしいみたいね」
「きっとみんなも、私たちみたいに慌てて色んなものを買ったんですね」
「そうね……あのおばあ様が居なかったら、私たちも他人事じゃなかったと思う……そう考えるとゾッとするわね」
 それと言うのも、先日、いつも通りに、能天気に買い物をしていた時に、ドラム缶の運び時に知り合ったあのパーマがかかった白髪のおばあちゃんに声を掛けられたのです。
『でっかい台風来ているけど、準備はできてるのかえ?』
 その言葉がなければ、今頃私たちは……。そう思うと何だか身体が震えてきます。
「ともかく! 今日は徹底抗戦よ‼ 台風に打ち勝つわよ‼」
「はいっ‼」
 ……と、意気込んだのは良かったのですが。
 意気込みから約一時間後。
「……暇ね」
「暇ですね」
 私たちは手持ち無沙汰になってしまっていた。ここ数日は買い出しやら遊びやら花火やらで充実していたせいか、やることを失うと、途端に暇を持て余してしまった。
 先程昼食を食べたのだが、その皿洗いもものの五分で終わってしまう。掃除をしようにも台風のため、窓を開くのは躊躇われるし。だからってゴロゴロするのも何だかもったいない。
「何かしようかしら」
「……何をします?」
「………………レッスン?」
「休みの日にまでレッスンしますか?」
「………………いつもならするけど、流石に秘密基地まで赴いてレッスンするのも嫌ね」
 夏葉さんはそう言って、うんうんと唸り始めます。外のガタガタガタっと言う音と夏葉さんの唸る声が和室に響きます。
「相撲しましょう‼」
「迷走しすぎですよ夏葉さん」
 それからしばらく私も夏葉さんも頭を悩ませていましたが、結局妙案は浮かびませんでした。そのうちに、万策尽きてしまい、二人とも畳の上で寝転がりました。
「……台風ってワクワクするかと思ったけれど、思った以上に怖くて、思った以上に暇ね」
「何も起きていないことが良いことなんですけどね……」
 私がそう言うと、夏葉さんは畳みの上をゴロゴロと転がります。髪の毛が身体に巻き込まれてしまい、ぐしゃぐしゃになってしまっていましたが、本人は全く気にするそぶりもありません。
 そして、何を思ったのか、急に腕立て伏せを始めました。
「いっそのことトレーニングをして……」
「トラブルが発生した時に、動けないのは危なくないですか?」
「……それもそうね」
 空気の抜けた風船みたいに夏葉さんは畳の上で、うつ伏せになります。私も夏葉さんの真似をして、うつ伏せになります。
「こういう暇になった時の対策を立てるべきだったわね……」
「そうですね……」
 私と夏葉さんは揺れる蛍光灯の紐を見上げながら、そんなことを言います。
 その直後でした。バツンという音と共に、電気が消え、部屋にはノートパソコン以外の光源がなくなりました。私は部屋が暗くなってしまったことに驚きましたが、すぐに停電が発生したのだと把握しました。
 洗面所にあるブレーカーの電源を入れに行くか、夏葉さんに相談しようとした時でした。
「ひぅ」
「え」
 私の顔を見て、夏葉さんは固まっています。どうやら怖がっているみたいです。
 何か私の顔についているのでしょうか? もしかして、神様がわざわざ台風の日にいたずらしに来た? そんなことを考えながら、ふとノートパソコンに目を向けます。……あ。
「夏葉さん……パソコンの光に照らされた、私の顔を見てびっくりしないでください」
「急だったからよ‼」
 私は頭を掻き、立ち上がります。ブレーカーは確か……。
「私、ちょっとブレーカー直してきます」
「わ……わかったわ」
 私は夏葉さんにそれだけを言い残し、ブレーカーがある洗面所へと急ぎました。洗面所側、ドアの上にブレーカーがあり、背伸びをしてブレーカーを元に戻します。すると、また部屋の電灯が灯ります。
 良かった。電気の供給は止まっていないみたいです。
 和室に戻ると、夏葉さんが再び床に寝転がっている姿が見えます。どうやら、電灯がついたことによって、余裕が戻ったみたいです。
「またブレーカーが落ちなければ良いですが……」
 私はそう言って、夏葉さんの隣に座ります。すると、夏葉さんは。
「……でも不思議ね。雷が落ちたわけでもないのに、ブレーカーが落ちるなんて」
 と言いました。
 確かに言われてみれば……と、その時でした。電灯がチカチカと不規則に点滅し始めました。
「あ、電灯が……」
 私がそう口に出した直後。バァンと言う音が部屋に響きました。おそらくですが、雨戸に何か大きなものが当たったのでしょう。
 雨戸を閉めておいて本当に良かった……下手したら窓ガラスが割れていた可能性が……。すると、目の前でぷるぷると震えている夏葉さんの姿があります。
「幽霊⁉」
「こんな真昼間から出てくる幽霊なんていませんよ……」
「な、なんでそんなに冷静なのかしら⁉」
「大げさに怖がっている人が目の前に居るからですよ……」
016
 夜。台風はまだまだ去る気配がなく、雨戸……いや、この平屋全体を揺らし続けていました。どうやら電線が風になびかれているせいで、電気の供給がうまくいかないらしく、時折、電灯が消え、部屋の中が暗闇に支配される時があります。おそらく、この家まで電気を引っ張ってきている電線自体の劣化もあるのでしょう。
 昼間のうちは、夏葉さんも余裕があったみたいですが、夜も電灯がチカチカ点滅していたため……。
「本当に幽霊じゃないでしょうね⁉」
「大丈夫ですよ。電気の供給が安定していないだけですから」
 と、すっかり怯えてしまっていた。
 電灯の点滅に、雨戸に叩きつける大小様々な物。そして、秘密基地全体を叩きつける風。意識して考えてみれば、確かにこの状況はホラーっぽいですが。
「こ、このチカチカッとなるのも目に良くないわね……心臓にも良くないと思うけれど」
「……確かにちょっと、目が痛くなってきますよね」
 そう言って、私は押し入れの中を探します。何か懐中電灯が確かあったはずだが……。すると、何かの束を見つけます
 これは……。
「誕生日用のろうそくがありますよ。夏葉さん……ってこれどっからもらってきたんですか」
 私はろうそくの束を掴み、夏葉さんのところに戻ります。
「あぁ、それもかなり売れ残っていたらしいから買い取ったのよ。最悪灯りがなくなってしまった時のために」
「……懐中電灯にビニール袋を被せれば、それだけで照明器具になりますが」
「果穂、あなたもしかして天才?」
 夏葉さんは本当に関心しているみたいです。……いや、この懐中電灯の照明器具の知識は、他人の受け売りなのですが。
 しばらくの間、電灯のチカチカに耐えていたのですが、私も夏葉さんも、目がしぱしぱしてきてしまったので、一旦電灯を消すことにしました。
 電灯を消して、懐中電灯にビニール袋をかぶせ、点灯させます。淡い光が和室全体を覆います。
「おぉ……なかなか明るいわね」
「あまり熱を持っちゃうと危ないので、時折触って温度を確かめる必要がありそうですが……最悪今晩はこれで何とかなりそうですね」
 と、私がそう言った瞬間でした。
 雨戸に何か大きな音がぶつかった音、それと同時に、ピカッと家の中に光が差し込み、さらには大きく低い、身体の奥底まで貫くような轟音が一度に私たちを襲いました。
 雷までなり始めたのか。私がそんなことをぼんやりと考えていると、私の身体に何かがしがみついているのが見えます。
「ひぃ」
 ……夏葉さんが私の身体にしがみついているようです。いつもの凛々しい姿からは想像もできないような夏葉さんが目の前にいます。
「大丈夫ですよ。何も起こりませんって。そのために色んな対策をとったんですから」
「ホント?」
「本当ですって」
 そう言いながら、私はしがみついている夏葉さんの頭を撫でます。ちょっと失礼だったかもしれませんが、夏葉さんも抵抗しなかったので、そのまま撫で続けることにしました。
 それからしばらくし、ふと夏葉さんの方を見ると、寝息を立てている夏葉さんの姿がありました。規則的に身体を上下させています。何だかんだでずっと気を張っていたのでしょう。私は近くに置きっぱなしになっていたスマートフォンを手に取り、天気を確認します。
 どうやら、そろそろ台風は秘密基地周辺から抜けるそうです。私は小さく安堵の息を吐きます。そして、押し入れまで手を伸ばし、タオルケットを二つ取り出します。
 途中で夏葉さんが起きてしまうかもと考えましたが、全く起きる気配を見せません。私は自分と夏葉さんにタオルケットをかけ、しがみついている夏葉さんの上で私は眠りにつきました。
032
 私はお菓子の缶を押し入れに戻します。本当は持ち帰ったかったですが、これを電車で持ち帰るには大きすぎました。
 また今度、どうにかして持ち運ぼう。そう考えながら、ダイニングへと移動します。ダイニングの天井は抜けてはいませんでしたが、雨風が吹き込んだのでしょう。木製の椅子や机はボロボロになっていました。電化製品がいくつも残っていましたが、電気が通っていない今、何も動かすことはできないでしょう。
 私は、風化したダイニングを横切り、納戸へと向かいます。納戸の引き戸はぴっちりと閉まっており、私は力を込めて戸を開きます。ごり、ごりと言う音を立てながら戸が開きます。
 納戸の中の空気は籠っていて、どことなく甘い香りが占めていました。納戸の中もまた、数多くの荷物が放置されていました。それこそ、夏葉さんが作っていた果実酒もまるまる残っています。ふと、果実酒の横に土が付いたシャベルがあるのが見えました。錆びていましたが、まだまだ使えそうです。
「そういえば……こんなのもありましたね」
 私はそっと、シャベルに触れました。
 ここを秘密基地として遊んでいたのは、六年も前の事なのに、ここで起きた出来事は昨日のことのように思い出すことができます。秘密基地にある物を見るだけで、手に取るように記憶が引き出せます。この秘密基地に居た日数は少ないはずなのに、私の人生の中で多くの記憶を占めている……そんな錯覚すら覚えます。
「何て言う皮肉」
 私はシャベルを抱き、納戸の床に座り込みます。甘い香りが私の鼻をくすぐります。
「夏葉さん……」
024
「夏葉さん。腕を動かしますね。関節、ほぐさないと」
 私はそう言って、夏葉さんの身体をゆっくりとストレッチさせます。夏葉さんから返事はありません。
 関節が固まってしまわないように、ゆっくりと慎重に。夏葉さんは鉛のように重く、動く気配がありません。まるで、ゴム製の人形を触っているような、奇妙な感覚も覚えます。
「あ、ごめんなさい。眩しかったですよね。カーテン閉めてきますね」
 ストレッチをしている最中、私は夏葉さんの顔に日光が当たっていることに気が付きます。目を瞑っているとは言え、きっと眩しいでしょう。私は急いで病的なまでに真っ白なカーテンを閉めます。
「ストレッチ終わったら、身体、拭きましょうね。看護師さんに任せっきりなのも、良くないですから」
 私は夏葉さんにそう声を掛け、再び関節をほぐし、ストレッチをさせます。時折マッサージを織り交ぜながら。そして、近くの棚から、フェイスタオルを三枚ほど取り出し、夏葉さんの身体の横に置きます。そして、これまた棚から風呂桶を取り出し、個室に備え付けてある、洗面器から、お湯を出します。洗面器の上には鏡があり、私の顔を映し出します。その表情はどことなく暗く、いかにも被害者面をしています。
 そんな私が、とてもむかつきます。
「何て醜い顔してんだよ、偽善者」
 鏡の中の自分にそう毒づき、私はお湯を夏葉さんの隣に置きます。そして、温度を確かめながらフェイスタオルの一枚を風呂桶の中に入れます。そして、そっと夏葉さんの服を脱がせ、全身を拭き始めます。
 この部屋には私と夏葉さん以外は居ません。面会謝絶ではありませんが、夏葉さんが寝てからもう五年目。何かの節目でもない限り、夏葉さんの元へ見舞に来る人間などほぼいません。もし、万が一、今日たまたま誰か来たとしても、それは夏葉さんのご両親か、放課後クライマックスガールズのユニットメンバーでしょう。
 五年前のある日を境に、有栖川夏葉は眠りにつきました。血まみれの風景、ぐったりする夏葉さん。広がる、臙脂色の湖。きっと、私は一生この記憶から逃れることはできないでしょう……いや、逃げる気はさらさらないのですが。
「熱くないですか? エアコンが効いているとは言え、汗をかいてしまいましたよね? しっかりと拭かないと、汗疹になってしまいますから、ちゃんと拭きますね」
 私は返事が返ってこないとわかっていても、夏葉さんにそう声を掛け続けます。五年間ずっと続けてたきた習慣です。私はずっと、ずっと声を掛け続けます。
「夏葉さん、また痩せましたか? 筋肉がほとんど落ちてしまっていますから、リハビリする時大変そうですね。もし、リハビリが必要になったら私も手伝います。夏葉さん、変なところで意地っ張りでおっちょこちょいだから、私が支えて上げます」
 返事はない。
 濡らしたフェイスタオルで全身を拭いた後、私は乾いたフェイスタオルで丁寧に全身を拭き直します。
「そろそろ外は紅葉が始まるみたいですよ。今年も残暑が厳しかったはずなのに、あっという間に冷え込んできましたね。夏葉さんも風邪を引かないように気を付けてくださいね」
 乾いたフェイスタオルで全身を拭き直した後、私は夏葉さんに衣類を着用させます。いつも通りの、習慣。いつも通りの、毎日。日課。日常。
 こんな非日常が日常になってしまった。こんなこと、望んでいなかったのに。こんな形で夏葉さんに恩返しすることになるなんて。
 恩返し? いや。
「恩返し? 罪滅ぼしだろ。逃げんじゃねぇよ。小宮果穂」
 私は私にそう戒めの言葉を投げかける。逃避しようとした自分自身を戒める。夏葉さんに失礼だ。夏葉さんを侮辱する行為だ。夏葉さんに害することは、私にとっての敵だ。
「ごめんなさい。夏葉さん。悪い私が出てきちゃって」
 夏葉さんにそう声を掛けて、私は夏葉さんにそっと上掛けを掛けます。夏葉さんの寝顔はとても穏やかで、本当に眠っているようにしか見えません。容姿も眠ってから……二十二歳のころから一切変わっていません。まだまだ若々しくて、まるで起きていた頃の夏葉さんが気まぐれで昼寝をしているようなそんな錯覚すら覚えます。
「帰ってきてください……夏葉さん」
 返事がない夏葉さんの手を掴み、目覚めない夏葉さんに向かって声を掛け。
「お願い、だから」
 と夏葉さんに声を掛けます。
 私はどこかで夏葉さんに許してもらいたいと考えている。『もう気にしてないわよ』と言う言葉がずっと欲しいのでしょう。ほとんど毎日、用事がある時以外は夏葉さんが入院している病院に通いつめ、懸命に祈り続けた。励まし続けた。ただ、自分のために。自分が壊れてしまわないように。それは自己保身に走ったとても醜い行為だと思っているし、夏葉さんを侮辱している行為だと思っている。でも、私はずっと、ずっと、夏葉さんの傍に居続けた。
 幸い、夏葉さんのご両親も、私の両親もそのことについては何も口に出さなかった。……もしかしたら、病的なまでに献身を貫いている私の姿を見て、手が出せないだけかもしれませんが。
 ……五年間。五年間と言うのはとても長い。私は中学校を卒業し、高校を卒業し、大学に入学していた。それなりに楽しく過ごしてきたつもりだったが、学校の友達曰く、私はいつもどこか別の場所を見ていて、会話をしているのに、全く言葉を交わしていないような、そんな奇妙な感覚を覚えていたそうです。それは、放課後クライマックスガールズのユニットメンバーにも同じことを面と向かって指摘されたこともあります。ですが幸い、私の取り巻く環境や知り合いはとても良い方ばかりだったため、夏葉さんのことしか考えられなかった私を影ながらにフォローしてくれていました。
 もっとも、そのことに気が付いたのはつい最近のことでしたが。
「いつまで感傷に浸ってんだ」
 私は自分自身の言葉に頭を振ります。今日はいつも以上に考え込んでしまっています。こんなことをしていても、夏葉さんは良くならないことくらいわかっているのに。頭を冷やすため、私は備え付けの洗面器へと歩み寄り、冷たい水で顔を洗います。何度も、何度も、何度も。余計で余分な思考を削ぎ落すために。そして、自身のポケットに入っていたハンドタオルを取り出し、顔を拭く。目の前の鏡には被害者面をした私の顔が映っている。
 心底嫌気がさす。
 私は鏡から目を逸らし夏葉さんが眠っているベッドに戻る。今日はあと一時間もしたら、ラジオ番組の収録のため、この病室から出ないといけない。それまでにできることはやっておかないと。
「あ、あのっ。ここ、どこですか……⁉」
 突然聞こえてきた声に私は固まる。
 誰の声だ? この部屋には私と夏葉さんしかいないはず。もちろん、私は声なんか発していない。
 まさか。
 私は夏葉さんが寝ていたベッドに目を向けるそこには……。
「一体、どうなっているんですか? 私は確か……」
 夏葉さんが、起き上がっていました。どうやら混乱しているらしく、辺りをきょろきょろと確認していたり、自身の身体を触って、衣服などを確認しているみたいです。
 やっと……やっ、と……。私は流れだしそうになる涙を抑え、夏葉さんに駆け寄ります。
「ここは病院ですよ夏葉さん。貴女は……」
 と、そこまで言葉を出した時、夏葉さんの顔が引きつり、自身を庇うように、抱き締めます。そんな行動に私は固まってしまいました。
「なんで、私の名前を知っているんですか?」
 その言葉に、先程まで飛び上がっていた心臓が凍り付き、喉元がきゅっと狭くなります。嫌な予感が私の全身を硬直させ、息を浅くします。涙の代わりに汗が噴き出します。それは、とても、とても冷たくて。
「貴女は、誰ですか?」
 その言葉に私は。ワタシハ。
「紹介が遅れました。私の名前は小宮果穂です」
 ワタシハ、エガオデ、コタエマス。
「貴女とは仕事仲間で、友達なんです。忘れちゃいました?」
 アクマデモ、エガオデ、フアンニサセナイヨウニ。
「はい……、その、貴女のこと、知らないです……」
 ハハ、ハハハ。ワラエ。ワラエヨ、コミヤカホ。イイカラワラエ。
「そうですか。私だけじゃちょっと説明しきれない部分があるんで、看護師さん呼びますね」
 ワタシハ、ナースコールヲ、オス。カンゴシサンガトンデクル。ソシテ。
「有栖川さん⁉ 小宮さん、これって……⁉」
「はい、目を覚ましたみたいなんですが、どうやら、記憶が欠如しているみたいで……」
「……とりあえずこちらで処置します。……悪いですが」
「もうそろそろお暇するつもりだったので大丈夫ですよ。夏葉さんをお願いします」
 ワタシハ、エガオヲ、ハリツケテ、ソトヘデマス。ソシテ、チカクニアッタ、アテアライニ、カケコミマス。
 駆けこんだ瞬間。猛烈な吐き気が私を襲いました。あまりにも耐えがたく、近くにあった個室に飛び込み、扉も閉めずにお腹の物を吐き出します。そして、思い出したかのように、汗と涙も同時に噴き出し、心臓の鼓動が早くなります。
「はは、ははは、嘘、忘れられちゃった。あは、ははは」
 その事実に私は。
「ははははっ。そっかぁ、忘れられちゃったぁ。あは、んふっ、うふふふっ、あはっ、はは」
 ずっと笑い続けていました。
 ずっと、ずっと、全身を震わせながら。笑い続けました。
025
 外は紅葉。一気に色めき、秋らしい光景が、窓の外に広がっています。私は、眼鏡を押し上げ、夏葉さんの方を向きます。
「病院の中だとわかりづらいですが……外はひんやりとしてて、窓から見える通り、木々が紅葉し始めてます」
「そうなんですね。どうも今朝肌寒いと思ったら……」
 そう言って、夏葉さんは自身の身体を抱き締めます。
「……それ、看護師さんに言いました?」
 そんな様子の夏葉さんに私はそう声を掛けます。夏葉さんのことだから我慢しているのではないか、そう考えたからです。
「えっ、あー。そういえば言っていませんでした」
「ダメですよ。ちゃんと言わないと」
 そう言って、私は自分のカーディガンを夏葉さんに被せます。六年前と違って、私の身長は十センチ以上も伸びているため、夏葉さんが着ると、多少ぶかぶかになってしまうと思いますが、ないよりかは全然マシです。
「あっ、ありがとう……ございます」
 夏葉さんは私のカーディガンを掴み、身体に巻きつけます。少々顔が赤いのは……目を瞑ることにします。私は夏葉さんがカーディガンを着たのを確認した後、再び窓の方へ歩み寄ります。
 有栖川夏葉の記憶障害。担当医曰く、頭部を損傷した際に、脳の記憶を司る器官に何らかの損傷が発生したのではないか。とのことでした。そのため、現在の夏葉さんの記憶は十七歳で止まっており、私どころか、放課後クライマックスガールズ全員の事もアイドルのことも何もかもを忘れてしまっていました。
 ……当たり前ですが、例の夜のことも全然覚えていません。しかし、記憶が抜け落ちてしまっていても、テレビ番組などで、暴力シーンがあると、顔を歪め頭を抑える時があります。そんな時は私は夏葉さんの視界を遮り、情報を遮断します。記憶が戻る目途は一切立っておらず、担当医もお手上げの状態みたいです。
 もしかしたら、二度と失った記憶が戻らないかもしれない。だけど……。
「小宮さん‼ 見てください‼ 雀が窓の淵に乗ってます!」
 ガマンシナイト。ワタシガワルイノダカラ。
 いけない。また思考が鈍ってしまった。私は頭を振り、夏葉さんに返事を返す。
「確かに珍しいですね。雀がこんなに無警戒で近寄ってくるなんて」
 そう言って、私は病室にあった椅子を夏葉さんベッドの近くに置き、座ります。夏葉さんとは距離にして、大体三十センチほど。すると、夏葉さんは窓付近にいた雀から視線を外し、私の顔をジッと見つめます。
 ……何だか、その視線がくすぐったいです。
「……小宮さんって身長が高いし、とっても美人さんですよね」
「そうでしょうか? ……いや、女優という職業に身を置いている以上、煌びやかでいないといけないのは確かなんですが」
 元子役など人生単位で芸能界に身を置いた人たちと比べれば、キャリアは積んでいませんが、伊達や酔狂で七年間も芸能界で活動していません。自分の魅力とセールスポイントについては理解をしています。
 不思議そうな表情の夏葉さんは恐る恐る私の髪や顔を触ります。……これは、記憶を失う前の夏葉さんからは考えられない行動でした。そのため、ほんの一瞬。身を震わせてしまいました。
「あっ……ごめんなさい! つい……」
 そんな私に気が付いたのか、夏葉さんは謝り私から手を引っ込めます。
「いえ、こちらこそごめんなさい」
 私はそうやって、夏葉さんにワライカケマス。
「大丈夫ですよ。触って……何もないですが」
 私がそう言うと、夏葉さんはこくりと頷き再び恐る恐る私の髪や顔を触ります。しばらく……数分間ほど、夏葉さんは私のことをずっと触っていました。
「私、不思議なんです」
「不思議、ですか?」
「はい……なんでしょうか。きっと、記憶を失う前の私ってこういう事しなかったと思うんですよ」
 その言葉に胸がずきりと痛みます。夏葉さんは自分自身のことを話しているのに、どこか他人事で、その事実が、私の胸に何かを突き刺します。
「でも……なんだろ……」
 夏葉さんは私の頬に手を置き。
「貴女が無事でいてくれて本当に良かった」
「…………っ」
 一瞬。ほんの一瞬だけ、夏葉さんが元の夏葉さんに戻る。これは前から兆候があり、本人は気が付いていない。その事実を指摘したとしても、本人は無意識で話しているらしく、覚えていません。
 無意識で、私の心の器を壊しにかかる。本当は、本当は全てを打ち明けてしまいたい。本当は、縋りつきたい。でも。
「ってまた変なこと言ってしまいました?」
「いいえ、そんなことないですよ」
 メノマエノナツハサンハ、トテモスナオデ、イイコデスカラ。
「ほら、まだ秋口とは言え、風邪を引いてしまいますよ」
 ワタシハエガオデ、夏葉さんから離れ、伸びをします。背中からはパキパキと小気味のいい音が鳴ります。夏葉さんは、首を傾げて私の瞳を覗きこんでいます。しかし私は目を合わせず、バッグとベレー帽を取り、夏葉さんにこう言いました。
「ごめんなさい。そろそろ仕事ですので、ここでお暇しますね」
 私がそう言うと、夏葉さんはな何だか寂しそうな顔でこちらを見ています。私は小さく息を吐き。
「明日もこちらに来れる予定ですから。すぐに会えますよ」
 私はエガオデソウイイマス。夏葉さんの顔がパァァっと明るくなります。それを見届けた私はベレー帽をかぶり、病室の外へ行きます。廊下は看護師さんたちが慌ただしく歩き回り、数人の患者さんがゆっくりゆっくりと手すりを使い、どこかへと向かっています。私は、バッグを肩にかけ、歩き出します。
 自分がすべきこと。今日の仕事を終わらせるために。
026:幕間
「夏葉。お前が言ってた本持ってきたぞ」
 夏葉が入院している病室にそんな声が響く。病室の入り口に立っていたのは、金髪でセミロングの女性……西城樹里の姿だった。彼女も普段は仕事で忙しいのだが、暇を見つけては夏葉の様子を見に行っていた。夏葉はそんな樹里の姿を見て、柔らかく微笑む。
「おはようございます。樹里さん」
「だから樹里で良いって言ってるだろ。調子狂うからなるべく直してくれ」
「でも樹里さんは樹里さんですし」
 そんな夏葉の言葉に樹里は髪の毛をガシガシと掻きむしる。夏葉が目を覚ましてから、樹里のことを「樹里さん」としか呼ばない夏葉に樹里はやりづらさを覚えていた。今までの自信満々で実力も十分な有栖川夏葉ではなく、どこか自信がなさそうで言葉は悪いが、少々なよっとしている有栖川夏葉に樹里はどこまで踏み込んで良いのか、境界線をずっと探っていた。
「君主論に、ドン・キホーテに……よめねぇ。英語の本」
「これフランス語ですよ。でも、ありがとうございます。病院でジッとしているのもなかなか苦痛なもので」
「まぁ、だよな。外を出歩くことができりゃあ良いんだが……まだ担当医から許可下りてないんだっけか」
「そうなんですよ。……まぁ、きっと許可が下りたとしても、リハビリをしないと、まともに立つこともかなわないと思いますが」
 そう言って、夏葉は悲しそうな表情を浮かべる。果穂も献身によって、ある程度、身体的ギャップは少なくなっていたものの、それでも筋肉がやせ細ってしまい、まともに立つこともかなわない。
 ましてや歩くことなんて、至難の業だろう。
「そういえば、小宮さんはこちらにいらっしゃるんですか?」
「果穂か? あー……確か今日は大学の講義だけって言ってたから、そのうち来るんじゃないか?」
「そうですか」
 夏葉はそう言うとにっこりと笑顔になる。そんな夏葉の姿に樹里はまた軽く髪の毛を掻く。何だか複雑な気分になったからだ。
 樹里は果穂と夏葉に降りかかった事件の詳細を知らない。ただ結果として、夏葉は物理的に、果穂は心に大きな傷を負ったことしか知らない。支えてやりたくても、果穂は拒否するし、夏葉はその事実を覚えていない。ただただ歯がゆかった。
「小宮さんを見ていると、何だか、力が湧いてくるんです」
「……力?」
「そう。何だか頑張らなきゃー! 力一杯生きなきゃーってそんな気がしてくるです」
 夏葉は拳を力一杯握りながら、そう言う。その顔は希望に満ちていて、現在の果穂とは正反対の表情だった。
「あと、記憶の鍵は小宮さんだと思うんですよ」
「……果穂が、鍵?」
 夏葉の言葉に樹里はすぐにぴんと来ていた。本当ならば、全てを話してしまいたかった。夏葉が大怪我を負った事件の詳細は知らないが、大まかな理由は知っている。ただ『小宮果穂を庇ったから、有栖川夏葉は大怪我を負った』それを伝えればいい。しかし、それを良しとしていないのが担当医だ。曰く。
『今はまだ安静にしていた方が良い。奇跡的に目を覚ますことができているが、脳に大きなショックが加わった時、どうなってしまうのか、医者である私にも予測がつかない……だから、何が起こったのか、それを話すのはまだまだ先の方が良い』
 とのこと。だからこそ……。
「きっと私と小宮さんは、素敵な関係だったんですよね」
 歯がゆい。
020
 夏休み。十四歳で三回目となる秘密基地訪問は、まずは草刈りから始まりました。
「相変わらず好き勝手生えてくれるわね……‼」
 夏葉さんはそう言いながら、芝刈り機に燃料を注ぎ込みます。私は夏葉さんが刈り取った草をひたすら一つにまとめています。後でブルーシートの上に並べ天日干しをして、枯れ草にしてから処分するつもりです。
「負けないわよ……すべてを刈りつくすまで私は屈しないわ‼」
「無駄にかっこいいですね」
「無駄には余計よ‼ よし‼ 燃料オーケー‼ 行くわよ‼」
 そう言って、夏葉さんは再び芝刈り機を起動させ、芝を刈り始めます。私も続けて芝を回収していきます。すでに私の身長を越えるような芝の山がいくつも形成されていて、結構作業をしたな……と言う実感はあるものの、まだまだ草刈りが終わる気配はなく、今日一日は草刈りで終わってしまいそうだった。
 ある程度草を集めて、山を形成し、また集め始める。濃い草の薫りをたくさん吸い込みながら、作業を続けます。
 すると、芝刈り機の騒音の合間に、何やら声が聞こえてきます。秘密基地の入り口を見ると、そこには、一人の女性の姿が。
「夏葉ちゃーん‼ 果穂ちゃーん‼ 元気だったかい⁉」
 そこに居たのは、秘密基地周辺の近所の女性でした。一昨年赤ちゃんが生まれたばっかりのお母さんです。
 そのお母さんがエプロンを使って、何かをたくさん運んでいます。そこにはたくさんの夏野菜が。
「お久しぶりです! って大丈夫なの⁉」
「子供は今元気に海に行ってもらってるよ。お兄ちゃんお姉ちゃんに囲まれてっから平気だよ。ほら、お裾分け」
「こ、こんなにいいのかしら⁉」
「良いってことよー‼ 夏葉ちゃんはともかく果穂ちゃんはまだまだ食べ盛りでしょ? それに結構豊作で、困っていたのよー‼」
 そう言って、夏葉さんにポイポイと野菜を上げます。夏葉さんは慌ててタンクトップをめくり、夏野菜を受け取ります。ちらりと見える夏葉さんのおへそ……それをお母さんは凝視します。
「……いつ見てもナイスバディだね」
「鍛えてるので」
「かーっ‼ ストイックだねぇ‼ 私もそろそろ出産を言い訳に使うのも厳しくなってきたから」
 そう言って、お母さんはお腹をゆっさゆっさと揺らします。
「一か月もあれば、それくらいならば痩せることでき……」
「あっ! 夏葉さんの言葉は信用しないでくださいね‼ 夏葉さんの言う『痩せるためのトレーニング』は想像を遥か上を行くほど辛いですから‼」
「なっ、果穂⁉」
「そ、そうなの⁉」
「端的に言うと、トレーニング素人がやると、吐きます‼」
「吐く⁉」
 そう言って、お母さんは再び、自身のお腹をぽよぽよとします。
「この子と一生付き合わなきゃいけないのね……」
「ほんの少しだけ食べる量を減らして、運動量を増やすのが一番よ」
「それができたら苦労しない‼」
 お母さんは笑顔でそう言いながら、夏葉さんの腹筋を人差し指のお腹でつつきます。そして。
「全くぷにぷにしない‼ これがアイドル……っ⁉」
「アイドルは関係ないと思うわよ?」
 それから軽くお母さんと雑談を交わし、何かお返しをすると約束し別れました。
 私も夏葉さんも再び作業へ戻り、夕日が地平線に沈み始めるまで草刈りを続けていった。ブルーシートの四隅に重しを乗せたところで、作業を終えることにしました。
「とりあえず、今日はここまでしましょうか。明日になったらブルーシートの上に草を並べちゃいましょう」
「そうですね! ……あー、疲れましたね」
「そうね……今夜のご飯はこってり肉料理にしましょうか」
 そんな会話を交わしながら、私と夏葉さんは秘密基地の中へと入ります。アイドル活動で全身を鍛えているはずなのですが、それでも全身が疲労で悲鳴を上げています。正直に言ってしまうと、草の生命力を舐めてしました。
「確か……豚肉を買っていたはずなんだけれど」
 そう言って、夏葉さんは手を洗い、冷蔵庫を開きます。私はそんな夏葉さんの横に並び。
「何か手伝いますか?」
 と声を掛けます。すると夏葉さんは一瞬何かを考えていたが。
「大丈夫よ。和室でゆっくりしてて」
 と言って、冷蔵庫の中から材料を取り出し、キッチンで作業を始めてしまいました。手持ち無沙汰になってしまった私は、和室へと移動し、縁側付近の窓から星を見る。空は満点の星々が煌めいており、改めて、秘密基地に戻ってきたんだなと感じる。
 今年も今年でとてつもなく忙しかった。学業は夏休みでも、アイドル活動に休みはない。夏フェスに向けてたくさんのレッスンやリハーサルや営業や収録など、数多くのイベントをこなす必要があり、さらには、三年目と言う事で新しい取り組みも色々と行った。当たり前のことだが、慣れない仕事と言うのも増えたため、とにかく体力を消耗した。放課後クライマックスガールズ全員が健康を維持したまま、仕事を通せたのはほとんど奇跡なんじゃないかと思えるくらいには忙しかった。
「果穂ー‼ そういえば、天体望遠鏡を持ち込んだのだけれど、組み立てておいてくれるかしらー‼」
 キッチンの方から夏葉さんがそう叫んでいます。
「わかりましたー」
 と私は返事をして、目線を隣の和室に向けます。そこにはほぼ真四角の段ボールが置いてあります。私は重い身体を引きずり、真四角な段ボールの横まで行きます。そして、段ボールのテープをはがし、中身を取り出します。天体望遠鏡は、小学校の時に理科室で見かけたのと、友達の部屋にほったらかしにされていた埃をかぶった天体望遠鏡しか見たことがありません。専用のケースに入っているせいもあるのでしょうが、目の前にある天体望遠鏡はそのどれよりもずっしりと重く、とても大きなものでした。
「最近の天体望遠鏡ってディスプレイついているんですね……」
 私はそう独り言ちながら、ケースを開きます。そして、説明をじっくりと読みながら、脚部から慎重に組み立てます。何だか、とても高価なものを扱っている気がしてなりません。そして、慎重に慎重を重ね、大体二十分ほどかけて組み立てることができました。私は倒してしまわないように、生活動線を考え、和室の隅に置きます。すると再びキッチンから夏葉さんの声が聞こえてきます。
「果穂ー、夜ご飯作り終わったわ‼」
「はーい! すぐにそっちに行きます!」
 私はそう言い、ダイニングへと戻ります。
 机の上には冷しゃぶサラダが置いてあり、ゴマダレの良い香りが私の鼻をくすぐります。とても、とても美味しそうです。
「夏野菜もお裾分けしてもらったし、今日はさっぱりと行くわよ」
 夏葉さんは笑顔で言います。そして、二人で手を合わせて……。
「「いただきます‼」」
 と合唱しました。
 二人ともご飯を終え、私が食器を洗い、夏葉さんが食器を拭いている時でした。私はふと一昨年やりたかったことをふと思い出しました。
「そうだ、夏葉さん」
「どうかした?」
「ドラム缶風呂。やってみたいです」
 私の言葉に夏葉さんは食器を拭く手を止め考える。
「……やっても良いけど、ドラム缶の調達が必要ね」
「夏葉さんと一緒に入ってみたいです」
「…………私たち二人で一緒には入れないわよ」
「ドラム缶を二つ、横に並べてですよ?」
「それを先に言いなさい」
 そう言って、夏葉さんは私の額を指ではじきます。勘違いしたのは、夏葉さんなのに。
「でも、チャレンジしてみることには大賛成よ。お風呂に入った後にでも、作り方調べてみましょうか」
「ドラム缶風呂ってドラム缶と薪だけでできるもんじゃないんですか?」
「そんなことないわよ。まずドラム缶の底は火が直接当たる部分だから火傷してしまうくらい熱いでしょうし、薪の燃焼による煙の事も考えないと」
 言われてみると、一朝一夕でできるような代物ではなさそうです。夏葉は再び食器を拭きながらこう言います。
「あとで作戦会議しましょうか」
 その言葉に私は大きく頷きます。
「はい‼」
 今年も楽しいことを、今まで体験したことがないことをたくさんするんだ。この時の私はそう考えていました。
027:幕間
「夏葉ちゃん‼ 久しぶり!」
 園田智代子は心配だった。
 ずっと有栖川夏葉の看病を続けている小宮果穂も大概心配だったが、その看病をされている夏葉のことも心配だった。夏葉が目を覚ます前から、何度も何度もお見舞いに行き、目を覚ました後も変わらず、お見舞いに行っている智代子はある違和感を感じていた。
 それは、夏葉が記憶を取り戻したいのか、取り戻したくないのか、不明瞭になっていること。有り体に言うと、どっちつかずの状態になっているんじゃないかと智代子は危惧している。なるべく夏葉にも果穂にも気負ってほしくないのは本心であり、未だに詳細を聞かされていないあの事件で二人とも潰れてしまわないか、ずっと気に病んでいた
「見て見て~、じゃーん! 駅前にあった、でかでかプリン‼ ちょっとだけ値が張ったけど、確かな美味しさだよー!」
「わーっ。ありがとうございます!」
 ポニーテールを揺らしながら、智代子はお見舞い品として、駅前で購入したプリンを夏葉に渡す。あまり大量にお菓子やら何やら食べ物を渡すと看護師に怒られてしまうが、これくらいなら、目を瞑っていてくれる。
「病院の甘味といったら果物くらいだからねぇ~。もっと女の子盛りなんだから、食べたいものもあるよねー……って封切るのはや‼」
 智代子が目を離した隙に、夏葉はプリンの封を切り、付属されてたスプーンを使って、口の中にプリンを運んでいた。こんな行動、今までの夏葉からは考えられず、智代子はほんの少しだけ面食らった。
 欲望に素直になるのは全然構わないんだけどね。とも智代子は考えたが。
「美味しい……甘くておいしいです‼」
「うむ。それは良かった良かった」
 満足気に頷く智代子をよそに夏葉は次々とプリンを口の中に詰め込んでいく。まるで早食い選手さながらの光景になっていたため、智代子も慌てて制止させる。
「ぷ、プリンは逃げないよ? 夏葉ちゃん」
「……はっ。すみません! 私ったら……‼」
 夏葉は恥ずかしそうに手のひらで顔を隠す。隠しきれなかった部分から夏葉が赤面している事が伺える。そんな夏葉の様子を見て智代子は苦笑いを浮かべながら。
「実はもう一個プリンあるから、そっちもあげるよ」
「本当ですか⁉」
 夏葉は叫んだかと思うと再び、顔を手のひらで隠してしまう。そんな忙しい夏葉を智代子は微笑ましく思っていた。
 夏葉が、プリンをきっちり綺麗に二個分平らげた後、智代子は夏葉の病室を軽く整頓していた。基本的には果穂が病室の整理整頓及び掃除を行っているのだが、果穂が仕事や学業で忙しかったりすると、それらもすべて滞ってしまう。現在絶賛リハビリ中である夏葉だが、まだまだ立ち上がることは難しく、自力で掃除を行うなんて夢のまた夢だ。
 そのため、放課後クライマックスガールズで気が付いた人間が順次整理整頓や掃除を行うことが暗黙の了解となっていた。
「む、タオルが溜まってきてる……夏葉ちゃん‼ これって洗っていいやつだよね?」
「はいっ。それは洗っても大丈夫です」
 智代子は頷きながら、タオルなどの洗濯物を一つにまとめ、病院内にある、ランドリールームへと持って行く。洗濯物を洗濯機に詰め、洗剤や柔軟剤を投入していると。こんな会話が聞こえてくる。
「有栖川さん、いるじゃない」
「えぇ、あの可愛らしい方でしょう? 記憶喪失だって言う」
「そうそう。その有栖川さんをずーっと世話している、女の子いるでしょう?」
「あー……小宮さん?」
「そうそう。あの子ってさ……殺人未遂起こしたんでしょう?」
 その言葉に智代子は固まる。洗濯機のボタンを押す手が震える。
「え⁉ それ初耳なんだけど⁉」
「なんでも……」
 ガンッ‼ と大きな音がランドリールームに響く。それと同時に。
「あわわわわっ‼ ごめんなさい‼」
 と叫ぶ智代子の声。そんな声にびっくりしたのか、二人の看護師がランドリールームへ駆け込んでくる。
「どうかされました⁉」
「あぁ、すみません‼ 籠を洗濯機に落としちゃって」
 智代子は愛想笑いを浮かべながら、頭を掻く。そんな様子に看護師二人は安堵の表情を浮かべていたが、すぐに顔が引き締まる。それは、智代子が『有栖川夏葉の世話をしている女の子の一人』だと認識したからだった。
「ほんとーに‼ ごめんなさい‼ あっ、あとごめんなさいついでなんですけど……」
 そう言って、智代子は髪の毛を解く。その手は怒りに震えている。
「滅多なこと、言わない方が良いですよ?」
 冷たく、低い。いつもの愛敬は一切なく、ただ、ただ、剥き出しになる敵意。
「私、正直、感情の制御ってうまくなくて、わりと怒りっぽいって自覚しているんですよ」
 智代子は照れたように髪の毛を掻く……ただ、ただ真顔で。
「あんまりふざけたこと言ってると、何があっても知らないからな?」
 低く、低く。演技などではない、園田智代子の本音。ずっと一緒に支え合ってきた仲間への侮辱は、智代子にとって一番我慢ならないことだった。
「なーんて‼ ごめんなさい職務中に引き留めちゃって‼ 騒いじゃって本当にごめんなさい‼」
 そう言って、智代子はランドリールームから外に出る。真っ青になっている看護師二人を置いて。
 病室に戻った智代子は……ぼぅっとしている夏葉を見つけた。何やら考え事をしているようだ。
 すると、智代子に気が付いたのか、夏葉がぽつぽつと言葉を零す。
「私は確かに誰かを救いたかった。誰かを護りたかった」
 夏葉は天井を見上げる。視点が定まらず。どこか遠くを見ているようだ。
「己が弱さのせいで誰かが傷つくのが我慢ならなかった。確かにそう願ったはずなのよ。だから、戦った。誰かを護るために、誰かを悲しませないために」
 そこまで言葉を漏らすと、夏葉は顔をしかめる。必死に何かを思い出しているようだった。
「思い出さなきゃいけないことがあるんじゃないか。そう思う時もあるのよ……確かに今が幸せなのは疑いようのないことですが」
 何かを必死に思い出していたのも数秒、またいつもの夏葉に戻っていった。……どことなく悲し気な表情だった。そんな夏葉を見て、智代子は……そっと夏葉を抱き締めた。
「え? うぇぇえぇぇぇ⁉」
 突然の出来事に夏葉は混乱し、素っ頓狂な声をあげる。しかし、構わず、智代子は夏葉を抱き締める。
「な、な、なん、なんん⁉」
 すると、夏葉の声が外にまで漏れていたのか、病室の扉が勢いよく開く。
「夏葉さん⁉ ……って智代子先輩⁉ 何してるんで……すぅ⁉」
 直後。智代子は夏葉から離れて、果穂も抱き締める……身長が足りずに、しがみ付いているような形になっているが。
「待ってください。これどういう状況ですか?」
「私も全然変わらないです。急に智代子さんが」
「智代子先輩⁉ ちょっと‼ ちょこ先輩⁉」
021
 ここは近所のホームセンター……とは言ってもかなり小さな建物で、どうやら個人経営を行っているみたです。チェーン店のような広さは誇っていませんが、近所ですぐに工具などを調達するのはここがうってつけです。
 とてもつもなくキンキンに冷やされた店内が、歩いてきた私たちの汗を一気に冷やします。
「おう、夏葉ちゃん、果穂ちゃん今日も買い物かい?」
「えぇ、ドラム缶風呂を作るので」
「……おじさん、ちょっと耳が遠くなったみてぇだが……何だって?」
「ドラム缶風呂、です。そのためにドラム缶とか簀の子やら煙突を作るための資材を購入しようかと」
「こりゃたまげた……、その材料のリストってあるかい? おじさんにちょっと見せてみな」
 夏葉さんとホームセンターのおじさんがそんな会話を交わしている間、私は何度も見た棚をまたぐるっと見回します。秘密基地を立てた時……今から二年前の時にはなかったものが増えている気がします。
 ……これは?
「こことここは削れるな。と言うより、削らないと熱で溶けるぞ」
「なるほど」
「だから、ここを……」
 話しかけられる雰囲気でもないので、私はさらに店内をぐるぐると歩きまわります。すると、自動ドアが開いているのが棚越しから見えました。
「おっ、まーた夏葉ちゃんたち目当てで来たな? この助兵衛たちが」
 ホームセンターのおじさんがそう言っているのが聞こえます。
「ちがわい‼ 久しぶりに錆落としがなくなっちまったんだい」
「ほーん? いつもなら宅配で頼むのになー?」
「うっさいうっさい‼ 金を落とすんだから、感謝しろい‼」
 私が店の奥から入り口に戻ってくると、そこには三人組のおじさんが居ました。その人たちは秘密基地周辺に住んでいる人達で、たまにお裾分けをしたりされたりする仲です。
「こんにちは!」
 私はいつも通り、挨拶をします。すると、おじさんたちは照れ臭そうに、「おう、こんにちは」と返します。そんな様子にホームセンターのおじさんは、心底おかしそうに笑っています。
「あんたたちがここに来てから、おじさんたちの活気が戻ってねぇ。今まで商売あがったりだったんだが……逆に繁盛している始末だ」
「そうでしょうか? 元々このお店のサービスが行き届いているのではなくて?」
「まさか。こんなおっさんたちを満足させるサービスなんぞねぇよ」
 そう言って、ホームセンターのおじさんは馬鹿笑いをします。そんなおじさんに釣られて、私たちも笑ってしまいました。
 そして、おじさんにアドバイスをもらい、ドラム缶と円形の簀の子、そして、煙突や土台などの材料を購入しました。
「おっ、夏葉ちゃん果穂ちゃんも帰るか? 俺らも買い物終わったんだ、トラックの荷台に詰めてやるよ」
 待ってましたとばかりに近所のおじさんたちがそう言います。夏葉さんは笑いながら。
「えぇ。お願いするわ。でも、奥さんたちにはちゃんと報告してくださいね」
「……善処する‼」
 こうして、秘密基地にドラム缶風呂の材料を運び入れました。そして秘密基地までのドライブを楽しみました。
 生まれて初めて、荷台に乗るという体験をしましたが、とってもお尻が痛くなりました。
 ホームセンターから購入した、ドラム缶と簀の子を一旦、庭先に置いておこうとした時、何か違和感を感じました。
 何に違和感を感じているのか、断定することはかないませんでしたが、何かがおかしかったのです。いつもと物のの配置が違っていたのか、いつも通っていた藪の倒れ方がちょっと違っていたとか、はたまた、私たちの足跡ではない足跡があったりとか、もしくはその全てが……。私が庭にて首を傾げていると、夏葉さんが不思議に思ったのか、立ち止まっている私に声を掛けました。
「果穂?」
「あぁいえ、何でもないです。暑いからでしょうか。ちょっとぼーっとしちゃって」
「それはいけないわ。ちゃんと水分補給しないと……」
「そう……ですね。ちょっと水分補給と頭を冷やしてきます」
 私は見て見ぬふりをしました。そして、家の中に上がり、洗面所に行き、蛇口を捻って水をたくさん出します。何度も何度も手で掬って顔に掛けます。この言いようのない違和感がなんなのだろうか。本当に熱中症になってしまったのだろうか。私は何度も、何度も、顔を洗います。そして、近くに掛けてあったフェイスタオルで顔を拭き、鏡を見つめます。そこにはいつも通りの私の顔がありました。
「気のせい。だよね」
 そう言って、私は冷蔵庫から飲み物を取り出し、軽く水分補給をしてから、夏葉さんが居る庭に戻りました。
 夏葉さんは何やら大きな設計図を広げて、首を捻っています。
「ふむ……これがこうで……」
「何か手伝いますか?」
「あぁ、果穂。大丈夫?」
「えぇ、元気ですよ!」
 私はそう言って、ガッツポーズを取ります。一瞬夏葉さんの顔に不安そうな表情が浮かびましたが、すぐに笑顔に切り替わり。
「じゃあ、私が指示をするから、物を並べて頂戴」
 と言いました。
 それから私と夏葉さんで部品を組み立てては、設計図を確認し、頭を捻り、また部品を組み立てては、設計図を確認する……と言った工程を何度か繰り返しました。そして、ようやくそれっぽい形に完成しました。
 ドラム缶の中には、脚立を使わないと入ることができないくらい背の高いドラム缶風呂が二つ、完成しました。それを見て、私も夏葉さんもぼーっと見上げます。
「お、思ったより作るの大変だったわね……」
「すごいおっきいですね……脚立ももう一脚買っておかないと」
「そうね……」
 夏葉さんはそう言いながら、再び不備がないかチェックをしています。私はそんな夏葉さんのために麦茶を用意することにしました。縁側から家の中に入り、コップと麦茶を持ちだし、縁側に戻ります。夏葉さんは、再び設計図を持ちながら、ドラム缶風呂の周りをぐるぐると回っています。私は麦茶をコップの中に注ぎ、お盆の上に置きます。すると、そんな私の様子に気が付いたのか、トテトテと私の元に夏葉さんが歩み寄ります。
「麦茶いただくわね」
「はい‼ どうぞ‼」
 そう言って、私は夏葉さんに麦茶を一つ渡します。余程喉が渇いていたのでしょう。コップに入っていた分を全て飲み干しています。夏葉さんもじっとりと汗をかいていて、タンクトップがぴったりと夏葉さんにくっついています。……ふとそれを確認したあと、何だか自分の格好が気になり確認します。……何かが透けていたりはしていませんでした。
「果穂、何回か、ドラム缶の中に水を入れて試運転してを今夜中に行うわよ」
「わかりました。ドラム缶風呂、楽しみですね」
「えぇ。仕事でもプライベートでもこんなこと、やったことないわ」
 そう言う夏葉さんの横顔は本当に楽しみにしている。そんな顔でした。
 それから日も暮れ、私と夏葉さんはひたすらドラム缶に水を汲んでいました。もちろん、バケツなんて使っていたら、翌朝になってしまうので、ホースを使って、ですが。
「鉄臭さが良いって場合もあるみたいだけど、さすがに最初くらいは綺麗な風呂に入ってみたいわよね」
 そう言いながら、夏葉さんは脚立に乗り、懐中電灯でドラム缶を照らしながら、水位を確認しています。私は手持ち無沙汰になっていたため、何となくぼーっと周りを確認していました。
 すると、何かが動く気配がしました。私は、思わず目を凝らします。……あれは?
「誰ですか‼」
 私は叫びます。夏葉さんは咄嗟に私が見ている方向に懐中電灯を向けます。すると、チカっと何かが反射します。それは……。
「カメラ……⁉」
 夏葉さんは声を荒げ、脚立から降ります……懐中電灯を向けたまま。
「果穂。水を止めてきて頂戴」
 いつもの夏葉さんからは考えられないような低い声で私にそう言います。私は返事をしながら、縁側からホースを繋いでいた、洗面所の蛇口へと急ぎます。すると、何やら外から争う声が聞こえます。急いで蛇口を捻り、水道を閉じます。そして、再び庭に出てみると、そこには見慣れない男の人と、夏葉さんが何やら言い争いをしています。
「あなたね……不法侵入よ⁉ やって良いことと悪いことがあるでしょう⁉」
「こんなところでドラム缶風呂なんて作ってるほうが悪いね‼ 撮れって言っているようなもんだろ‼」
「とりあえず、警察に連絡させてもらうわ。いくらなんでも、質が悪すぎる」
 そう言って、夏葉さんは秘密基地の方へ向かいます。すると、男の人が夏葉さんに向かって……。
「夏葉さん‼ 後ろ‼」
 私は思わず叫びます。咄嗟に夏葉さんは後ろを振り返り、襲ってきた男の人と揉み合いになります。私は……。
 私は、一歩も、脚を動かすことができませんでした。
 今まで感じたことのない、恐怖によって、動けませんでした。
「あなたね……‼」
「警察なんてなぁ‼ 警察なんてなぁ‼」
 その時でした。男の人が突如夏葉さんの手を離し、突き飛ばしました。そのまま逃げるつもりだったのでしょう。突き飛ばされた夏葉さんはそのまま後ろに倒れます。
 そして。『嫌な音』が辺りに響きました。
 とても、いやなおとでした。
「……ぁ……が……」
 じめんが、しんくに、そまって。なつはさんは、うごかなくなって。
「お……おい? 嘘だろ? おい、大丈夫か⁉」
 ぼぅっとひらかれている。ひとみはおぼろげで、めをひらいているのに、どこもみていなくて。
「や、やべぇ。やっちまった……‼ なぁ‼ 俺は、俺はやってないよなぁ⁉」
 ゆる、さない。ゆるさない。
 ゆるせるわけがない。わたしは、いどのちかくにたてかけていた、シャベルをてにとります。
「おい‼ なんとか、言……え……?」
 うまれてばじめてです。こんな、かんじょうが、わたしをしはいするなんて。わたしはシャベルをひきずって、あいつのもとにあゆみよります。
「おい、マジかよ、なぁ、ぶべっ⁉」
 うるさい。かんだかい、こえを、あげるな。
「やめろ……やめてくれ‼ ゆるして……‼」
 ゆるして? は……ははっ。
「絶対に、許さない」
 私はシャベルを、振り下ろす。
「やめろぉ‼ ぐあっ‼ やめてくれ‼ すまない‼ 自首もすぎゃっ⁉ がらっ‼ おねがい、ゆ゛る゛……あ゛ぁぁっあ゛ぁぁ‼ なぁ゛、ゆるして……ゆるしてください、ぶびゃっ……ぉ゛ぁ゛ああぁっ、指がぁ……指がほら、見てくれよ……こんぁぁ、こんぁぁへしゃげ……ごぁっあぁっ、いだい……いだいぃぃぃ……‼ カメラ‼ カメラも渡すから‼ ぐべぁっ⁉ 歯、歯、ほら、無くひゃった、はは……いぎゃぁぁっ‼ だず、だずげで、おねが……がぁっ‼ ひ、ひぐぁ……ぁ…がっ⁉ ……ご……が……ぁ……ぁ………………………………………………」
022
 気が付いたら、私はおばあちゃんに抱き留められていました。どうやら、周りには警察や救急車が来ているようです。私は、一体。
「果穂ちゃん‼ 気が付いたかい⁉」
 その言葉に、私は……。自分が涙を零していることに気が付きました。そして、手元にはべっとりと何かが付着しています。近くでは苦虫を噛み潰したような警官の姿も見えます。
「……事情は、あの男から聞きました。小宮果穂さん。署まで、お願いいたします」
「んな馬鹿な話があるかい⁉ 果穂ちゃんはな!」
「わかっています。わかっています……しかし、ここまで大ごとになってしまうと……」
「私は……」
 私が声を発すると、おばあちゃんも警官もそっと私の方を向きます。
「私は人殺しになってしまったのでしょうか?」
「いや、あの男は一命を取り留めている。と言うよりも、見た目ほどダメージはなかったみたいですね……ただ、過剰防衛にあたるかもしれませんね」
「そう……ですか」
 それを聞いた私はそっとおばあちゃんの腕を引き剥がし、ゆっくりと立ち上がります。ただ、立ち上がるだけなのに、とてもふらついて、警官の人にそっと支えられてしまいました。
「果穂ちゃん……」
 おばあちゃんはとても心配そうな表情を浮かべています。今にも泣きだしてしまいそうです。
「大丈夫です。おばあちゃん。私は、私が犯した罪を……罰を受けるだけですから」
 そう言って、警官の人の顔を見ます。
「夏葉さん……夏葉さんは……?」
「……彼女も一命は取り留めています。ただ、予断を許さない状態ですが」
 私はその言葉を聞いた途端、視界が歪みました。一体何が起こったのか、気が付くのに、数秒を要しました。どうやら、私は眩暈を起こしていたみたいです。未だに足元が覚束ないのが自分でもわかります。
「なぁ、警察さんよ。次の日でも良いんでねぇか? 果穂ちゃんはもう限界だ……」
 おばあちゃんがそう言っているのが聞こえます。だけど。
「いいえ。大丈夫です。今日行きます。早く済ませないと、ですよね」
 私は涙を拭き、顔を上げ、笑顔を貼り付けます。警官の人の顔が悲痛そうな表情になります。
「……辛くなったら、もう無理だってなったらすぐに言ってください。その時はちゃんと中止しますから」
 それから、私は近くの警察署で起こったことを全て話しました。もちろん、包み隠さずです。私の話を聞いてくれた刑事さんは「何故このご時世に女性二人きりで過ごすなんて危ないことを……」とぼやいていましたが、近くに居た婦警さんに頭を殴られていました。曰く「こんなボロボロになってる女の子相手によく粋がれますね」とのこと。私は申し訳なくなって、謝りましたが。刑事さんはバツが悪そうな顔をし、「すまない。気が立っていたかもしれない」と言って、謝っていました。
 事情聴取は長時間に及び、私が解放される頃には、朝になっていました。
 ここは警察署の前、一台のパトカーが停まっていました。どうやら、私のことを送ってくれるみたいです。
「……本当に元の家に行くのかい?」
「なるべく捜査範囲には入らないようにしますから。どちらにしても、あそこへ戻らないと、どこへもいけませんから」
 パトカーの後部座席に乗る際に質問投げかけた警官に対し、私はそう言います。運転席の警官は唇を噛みながらも、パトカーを発進させます。
「彼の事情も病院で聞いていたが……君と違って自己弁護に入っているそうだ。証拠がないからって思っているんだろうな」
「……実際、証拠がない、ですから」
「いや、案外そうでもないんだ。突き飛ばした際に付着したもの、それに、彼のカメラの中には君たちの写真が何枚も撮影されていた」
「ですが、その程度だと、意味がないんじゃないんですか? 状況が状況ですし」
 私がそう言うと、警官は押し黙ってしまう。きっと、このまま事件は有耶無耶になってしまい、私は一人の記者を殴り殺そうとした犯人になるのでしょう。
「……君は、助かりたくないのかい?」
「夏葉さんを守れなかった時点で、助かるも何もありませんから」
 私の言葉に再び警官は黙ります。
「私、いや、私たちは君の味方だ。それだけは、言い切れる」
「そうですか。ありがとうございます」
 自分でも驚くくらい、無感情な声が出てしまった。
023
 パトカーで秘密基地付近まで送ってもらい、私はパトカーから降ります。運転席に居た警官は軽く会釈をし。「何かあったらすぐに連絡してください」と言い残し、そのまま去っていった。
 私はぼぅっとしばらく去っていったパトカーを見ていましたが、そのうちに蝉の声が耳に入り、我に返ります。
 秘密基地に戻ろう。
 そう考えて踵を返した瞬間。私の後ろからわらわらと人が出てきました。どの方も見覚えはありませんでした。おそらく近所の方ではなく、この騒ぎを聞きつけて遠くから様子を見に来たのでしょう。
「こんなでっかい揉め事起こしやがって‼ 平和だった町が滅茶苦茶だよ‼」
「そうだ‼ そうだ‼」
 町の方々は口々にそう叫びます。
 ……確かに非難されるのも無理はありません。町の人によっては私はトラブルメーカーであり、騒動の渦中の人間です、私に反撃の余地などありません。男の人、女の人関係なしに私に向かって罵声を浴びせます。初対面のはずなのに、私の人格を否定をする人まで出てきています。だけど、一つ一つを真摯に聞いてあげられるほど、精神的余裕は私にはありませんでした。ただ、ただ周りの雑音を聞き流すだけ……これが罰の一つであるなら、これも受け入れなくては。そう考えていたその時でした。
「ええ加減にせんかい‼ こんの馬鹿者どもが‼」
 そんなドスの聞いた声に私は驚き顔を上げます。そこに居たのは……あの腰が曲がった白髪のおばあちゃんでした。
「でも、こいつは、この町に……」
「悪さしたんはこいつじゃなかろうが‼ あ⁉ そのパパラ……なんだ? 記者が悪さしたんじゃないか⁉」
「それは、そうだけどよ……」
「大切な人間が意識混濁しとってるていう娘によくこんな人数揃えて罵詈雑言浴びさせられるな⁉ えぇ⁉ 恥を知れ恥を‼」
 おばあちゃんがそう叫びます。すると、人だかりの後ろから、何人かが鬼の形相で数人の男の人と女の人が割り込みます。それは、何度か顔を合わせたことのある近所の人たちでした。
「お前ら遠くのもんだろ⁉ わっざわざこっちまで来て文句を言いに来たんか⁉」
 叫び、近くの人の胸倉を掴もうとします。しかし、それはおばあちゃんの「やめんか‼」と言う一声で踏みとどまったようです。
 私が……私のせいで……。
「おばあちゃん、みなさん、いいんです。私が、私が悪いんですから……」
 私が俯きながら言うと、おばあちゃんが私を抱き締めます。ナフタレン特有の匂いが私の鼻の中に入ります。
「お前さんは悪くない。二年前からお前さんたちがここに来てから、ほんの少しだけど、この町は時が戻ったんだ。わしらは感謝こそすれど、果穂ちゃんたちを貶すことなんざできない」
 私よりも遥かに背が低いはずのおばあちゃんがとても大きく見えます。私はなんだか安心してしまい、腰が抜けてしまい、おばあちゃんにしがみつくまま、地面に座り込んでしまいました。
「お前さんのような若い子がそんな我慢すべきじゃない。な?」
 とてもとても柔らかい声は、私は安心させ、緊張を解きます。どうやら、私は自分が思っている以上に全身に力を入れていたみたいです。今更になって、肩甲骨や、首元が痛いことに気が付きました。
「……荷物とかはまた明日に取ろう、な? 今日はおばあちゃんの家に泊まりなさい」
 私の背中をさすりながら、おばあちゃんはそう言います。私はただ、ただ、頷くことしかできませんでした。
「お前たち、このお嬢さんに手を出したら、ただじゃおかねぇかんな?」
 直後、おばあちゃんは低い低い声を出します。周りに居た私のことを非難していた人間はもごもごとなにかを言っています。
「返事ッッッ‼ いい大人が何をもごついているんだい‼」
 おばあちゃんが叫ぶと、一斉に返事が返ってきます。
 おそらく彼らにも不平不満はあるでしょう。それは、私が受けるべき罰の一つです。だから……。
「ごめんなさい。今の私は、こんな有様ですが。必ず、必ず償いますから」
 私がそう言うと、おばあちゃんは諭すように。
「……果穂ちゃん。全部背負うことが償いなのは、違う。果穂ちゃんは背負わなくていいものまで背負っちょる。な?」
「ですが……」
「今はまだわからんかもしれんが、果穂ちゃんのそれは間違っちょる……とりあえず、おばあちゃんの家で休もう」
 再び私の背中をさすりながら、おばあちゃんはそう言います。私は小さく頷き、そのままおばあちゃんの家に行きました。
 そこからの記憶はありません。おばあちゃん曰く、身体を綺麗にして、布団に横になった瞬間、気絶したかのように眠りについたそうです。きっと、緊張状態から解放されて、一気に疲れが押し寄せてきたのでしょう。それから目を覚ますのは丸一日後のことでした。
033
 納戸でシャベルを抱えていると、私はとあることを思い出します。
 そう言えば……。
 座り込んで、体温が下がってしまったせいか、重くなっていた自分の身体。シャベルを使いながら、何とか立ち上がります。固まってしまった手足を何度かぐるぐると回し、ほぐします。そして、シャベルを抱えたまま、納戸から出て、玄関へと向かいます。
 夏葉さんがまだ元気だった頃。二年目の夏。確か、この平屋の裏手に……。私はシャベルを引きずり、玄関から、庭に出ます。そして秘密基地の裏手に周り、地面を凝視します。一見、そこには何もない様に見える裏庭。しかしよくよく目を凝らすと、一部分だけ草が少ない部分があります。
「ここだ」
 そう言って、私はシャベルを突き立てます。何回も突き立てて、土をどかして、また突き立て、土をどかして……。確か埋める時は二人がかりだったため、結構奥深くまで掘り抜いた記憶があります。何度も何度も掘り進めているせいか、先程まで低くなっていた体温がまた、高くなります。汗が噴き出してきて、コートやマフラーが邪魔になります。全てを脱ぎ捨て、さらに掘り進めます。全盛期ほどではないとは言え、未だに運動を続けているのに、段々と全身から悲鳴があがります。
 しばらく掘り進めていると、そのうちにガキン。と何か固いものに当たった音がします。私はその固いものを囲むように周りを崩し、掘り進め……四角い箱のような物体を掘り起こします。
「……あった。『約束の箱』」
 私は土を軽く払いのけ、その四角い箱を確認します。これはかつて、夏葉さんと埋め込んだ『約束の箱』……一般的に言うのであれば、タイムカプセルでしょうか。私はそっとそれを抱き締めます。あぁ……懐かしい。
 これは秘密基地に来てから二年目……十三歳の頃に、埋めたタイムカプセル。本当なら、十年後に掘り起こそうという話でしたが……今の私には我慢できませんでした。
 もしかしたら、これを見たら、夏葉さんの記憶が戻るかも。
 そんな浅ましいことまで考えてしまいます。
「約束。破っちゃって、ごめんなさい。夏葉さん」
 そう言って、私は天を仰ぎ見る。
「ごめんなさい」
017
 花火が終わった次の日のことでした。私よりもお寝坊さんだった夏葉さんが、朝食のパンをもそもそと食べている時。急に夏葉さんの目がカッと開き、大声で叫びます。
「タイムカプセルを作りましょう‼」
 本当に、急なことでした。
 私はとっくに朝食を食べ終わっていたので、洗濯をするために、洗濯機の設定をしていたのですが、あまりにも急だったため。
「なんでです?」
 と聞き返してしまった。夏葉さんは朝食のパンをかけこみ、カフェオレで一気に流し込むと、再び大声をあげます。
「タイムカプセルというものをやってみたいのよ‼ それこそ秘密基地っぽいじゃない‼」
「それは、まぁ。確かに」
 私は洗剤を測りながらそう言います。私からの反応が薄かったせいか、何だか夏葉さんの表情が不服そうです。
「ちょっと、ちょっとだけ待ってください。洗濯機のセットが終わったら、存分に反応しますから」
「中学生に気を遣われた……⁉」
 そして、洗濯機のセットが終わり、無事回転をしてのを見届けてから、夏葉さんの方を向くと、机の上に突っ伏してる夏葉さんの姿が見えます。二年ほど夏葉さんと付き合ってわかりましたが……あれは拗ねてます。私は頭を掻くと、夏葉さんの隣の席に座り。
「タイムカプセル。楽しみです」
 と耳元で言います。すると、夏葉さんが弾けたように起き上がり。
「本当⁉」
 と叫びます。普段は絶対に見られない夏葉さんの姿に私は少々気圧されながらも。
「はい。タイムカプセル。私もやったことありませんから」
 と言います。
 すると、夏葉さんは先程と打って変わり、ハイテンションで和室に駆けこむと、何かを漁り始めます。何事かと、私が首を長くしていると、夏葉は再びダイニングに戻り、テーブルの上に紙を広げます。そこには……。
「『約束の箱』ですか?」
「そう! 『約束の箱』‼ 見て頂戴このディテール‼」
 そこにはいくつもの材料の名前と、細かな寸法が書いてある……所謂設計図でした。どうやら夏葉さんの自作らしく、見覚えのある字がたくさん書いてあります。
「何を詰め込むかどうかはまた後でにして、まずは材料調達よ‼」
 夏葉さんが興奮気味に言います。って待ってください。
「一からですか⁉」
「そうよ‼ 一から作るのよ‼」
「……わかりました‼」
 こうなった夏葉さんを止めるのは至難の業ですし、私も一からタイムカプセルを作るとなると、何だかワクワクしてくるのは否定できません。
「とりあえずいつものホームセンターに行くわよ‼」
「はい‼」
018
「お嬢ちゃんたち。木材はわかる。木材は、それはうちでも扱ってるし、素人にも扱えるだろうよ。だけど、コンクリートって何だコンクリートって」
 ホームセンターのおじさんは頭を抱えていました。『約束の箱』は二重の箱になっていて、まずは木製の箱を作り、その上にコンクリートでその箱をコーティングするとのこと。しかし、そのコンクリートでおじさんは頭を抱えているようだ。
「いや、うちで扱ってる商品でコンクリートは作れる。手練りになるだろうが、いけないことは決してない……だがなぁ」
「タイムカプセルなのよ。頑丈なのを作りたいじゃない」
「……お嬢ちゃん、何と言うか……思い切ったことするなぁ」
 ホームセンターのおじさんはしばらく頭を掻いていたが、意を決したのか、顔を上げ、私たちを見ます。
「お嬢ちゃんたちの言いたい事はよーっくわかった。おじさんもできるだけフォローしよう。だが、コンクリートは産業廃棄物処理うんぬんが関わってくる。ちゃんとそこらへんの説明はさせてもらうからな」
 私たちはそんなホームセンターのおじさんの言葉に大きく頷いた。
 それから、私たちはホームセンターのおじさんの指導の元、コンクリートの作り方と、扱い方を教えてもらいました。
 最初私はよくテレビなどで見るような機械を使って作るものだと思っていましたが、そんなことはありませんでした。手作業でも十分作れるとのことです。
「お嬢ちゃんたちの家だと近くにアスファルトがないから良いが……下手に処理すると、アスファルトが真っ白になって染みが取れなくなっちまうからな」
「なるほど……」
 夏葉さんがコンクリートついて勉強している間、私は……。
「おぉ……えらいですっ。ここまで歩けましたね!」
 ホームセンターの敷地内で、近所に住んでいる一歳ちょっとの女の子と遊んでいました。正確に言うなら、お守りでしょうか。
 すると、近所のお姉さんが私たちの隣にしゃがみます。去年、女の子を出産したというお姉さんです。
「うちの子をくったくたにしてくれるまで果穂ちゃんが遊んでくれるからお母さん助かるわぁ……あいたたた」
「あぁっ、無理しないでくださいね?」
「大丈夫よ。お母さん、これくらいじゃ倒れないから」
 そう言って、近所のお姉さんが笑います。
「おーい‼ 果穂ちゃーん‼ うちの孫をあまり、バテさせないでくれよー? おじいちゃんとも遊ばせておくれー‼」
「善処しまーす‼」
 今遊んでいる女の子はホームセンターのおじさんの孫に当たり、目の前で一休みしているお母さんの義理父にあたります。
「この子、遊びたい盛りだから、本当に助かるわぁ……」
「いえ、いつもおじさんにはお世話になっていますから」
「そう言っていただけると助かる……」
 私はお姉さんの言葉を聞きながら、女の子の手を握ります。
「まだまだ元気ですか?」
「だぅ‼」
 まだまだ元気が余っているようで、にこにこと笑いながら、私の手をぶんぶんと振ります。
「まだまだ元気そうです‼」
「まぁ、張り切っちゃって……我が息子ながら、綺麗な女の子に弱いのね……」
 そんなことを言いながらお姉さんは頭を抱えていました。
 そして、夕日が地平線に沈みだした頃。夏葉さんがウキウキとした表情で、ホームセンターから出てきました。
 どうやら、ホームセンターのおじさんの講習が終わったようです。
「お待たせ。コンクリートについて、ばっちり覚えたわよ」
「すごいです‼」
「いやー、本当に夏葉ちゃんの覚えが早いこと早いこと」
 ホームセンターのおじさんも満足げに頷いています。褒め言葉を聞いた夏葉さんは当然だという表情を浮かべています。
「とりあえず、箱作成の目途は立ったから、タイムカプセルの中身を書くわよ‼」
019
 秘密基地に戻って、私たちは、それぞれ油性ペンを持って、ダイニングと和室に分かれました。お互いに、十年後の手紙を読んでしまわないようにするためです。和室の床に下敷きを敷きながら、私はまずは未来の自分への手紙を書くことにしました。このタイムカプセルは十年後に開けるとのことだったので、十年後に何をしているのか、想像をしながら書いていました。
 二十三歳……か。大学生も卒業していいる頃になりますが、その時でもアイドル活動はしているのでしょうか。芸能界に身を置いているのでしょうか。この、秘密基地に通うことができるのでしょうか。今までの人生では漠然としか考えてこなかった、将来と言う二文字が私の頭の中を過ります。
 そして、十年後でも、夏葉さんと仲良くできているのだろうか。そんな不安が私の頭の中に一瞬浮かびます。しかし、すぐに頭を振って、そんな可能性を捨てます。そんなこと考えても何の得にもなりません。
 ……でも、未来の私に質問するのはありだと思います。きっと、私はこうして書いたことを覚えているでしょうから。
「書けたわ‼」
 そんな声がダイニングから聞こえてきます。早い。
「すみません。まだ、私書けてないです」
「気にしないで良いのよ! お夕飯の用意しちゃうわね!」
「はーい‼」
 私はそう返事をしながらも、内心は焦っていました。早く書いてしまわないと……。
「……そっか、この気持ちを全部書いてしまおう」
 今感じている不安や想いを全て私は手紙に込めることにしました。十年後の私は今よりもきっと大人になっていて、この不安に対して、明確な答えを持っているかもしれません。私は、ダイニングに居る夏葉さんをちらりと見ます。
 ダイニングには、台所で何やら食材を洗っている夏葉さんの姿が見えます。
 私も、夏葉さんみたいになれたら……。
 そう考えながら、私は十年後、未来への私と夏葉さんに手紙を書きました。
 それから大体十五分かけて、丁寧に丁寧に字を間違えないように、しっかりと手紙を書きました。色とりどりに装飾し、枠線なんか引っ張ったりもしました。
 そして、ダイニングから良い匂いがし始めた頃。私も手紙も書き終わりました。
「よしっ」
「果穂ー? 書き終わったかしら? まだ時間いるー?」
「もう大丈夫です‼ 夏葉さん‼ 手伝いますね‼」
「はーい。じゃあ、お皿取ってくれる? その青い中くらいの」
034
「帰ろう。帰らなくちゃ」
 私は『約束の箱』を抱え、スコップを再び引きずりながら、庭に出ます。『約束の箱』のことを思い出していたせいか、再び身体が冷え切ってしまいました。急いで、コートとマフラーをつけなおします。忘れていた寒さが再び私を舐めます。
 今日の目的は、秘密基地の様子を確認するだけであり、本来は『約束の箱』を掘り起こすつもりはなかったのだが……、これも仕方がない。私の弱さが招いたことです。このまま持って帰るには少々大きすぎますし、今日はほとんど手ぶらでここに来てしまっていたため、持ち運ぶための道具もありません。
「……あのホームセンターに、行こう」
 私は真っ先に思いついたは、かつて、何回も利用し、お世話になった、あのホームセンター。今も営業しているかどうかはわかりませんが、行くだけ行きましょう。シャベルを井戸付近に置いて、私は『約束の箱』を持って、歩き出します。
 『約束の箱』は、二十センチ四方の箱であり、コンクリートで固められているためか、ずっしりと重いものとなっています。持ち運ぶのはさほど苦労はしませんが、問題はその見た目と大きさです。これを電車で持って帰ろうにも駅員に声を掛けられてしまう可能性の方が高いです。どっからどう見ても、不審物にしか見えません。最悪没収もあり得ます。
 しばらく歩くと、見覚えのあるホームセンターが見えます。電気はついていて、どうやら営業しているみたいです。私は、自動ドアの前に立ち、ドアを開きます。
「いらっ……しゃい……?」
 最初でこそ、かなり訝し気な表情を浮かべていた、店員さん。それは、かつて何度もお世話になった……。
「お嬢ちゃん……果穂ちゃんかい⁉」
 そうです。ホームセンターのおじさんでした。あれから六年も経っていたせいか、少々老け込んだ様子だったが、声量は今も変わらず、大きなものでした。
「あの事件が起きてから、おじさんは心配で心配で……‼」
 そう言って、おじさんは悲しそうな表情を浮かべます。私は……。
「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
「迷惑だなんて、そんなことあるか‼ ……まだ、あの連中が言っていた事、気にしているのかい?」
「……気にしていない……と言うと、嘘にはなりますが、おじさんたちが思っているほどは気にしていません」
 私はエガオデソウイイマス。しかし、おじさんは悲しそうな表情を崩しません。
「あれは……あれは、あの腐れ記者がいけねぇんだ。平穏をぶち破ったのは、間違いなくあいつなんだから」
「直接の原因は確かに彼かもしれません。……でも、根本的な原因は私たちだったのは変わりありませんから」
 私はそう言います。ジジツ、ワルイノハ、ワタシタチデス。
 するとおじさんは頭を振って、レジの裏側に設置されている椅子に腰を掛けてしまいます。そして、両手で自身の顔を覆います。そして。
「果穂ちゃん……、多分、果穂ちゃんは気が付いていねぇと思うんだがよ」
 おじさんはゆっくりと顔を上げて私に言います。
「嘘をつく時、お前さん。本当に苦しそうだぞ」
 私は。ワタシハ。
「そんなことありません。私は嘘なんて、ついていませんから」
 私がそう言うと、おじさんは深い深い溜息をつき。再び立ち上がります。
「わかった、俺は果穂ちゃんのことを信じる。誰が果穂ちゃんを傷つけようが、俺たち家族は、ずっと果穂ちゃんを信じているからな」
 そう言って、おじさんはいつもの笑顔に戻ります。……どことなくぎこちなかったですが、その笑顔は私にとっては安心するものでした。
「今日は何を買いに来たんだい? まさかその箱を砕くためのハンマードリルが欲しいとかじゃないだろうね?」
 その言葉に私は笑顔になります。きっと下手くそな笑顔だったと思いますが。
「いいえ、違います。これを包む袋が欲しいんです。持って帰るときに、不審物だと思われないように」
「わかったわかった。果穂ちゃんに似合うナイスなカバンだな」
「……そういう感じです」
 それから、おじさんに手を振りながら、背中には購入したばかりの橙色のナップザックを背負い、ホームセンターから出ます。空はだんだんと暗くなっていっているのがわかります。
 早いところ帰らないと、終電に間に合わなくなってしまう。
 場所の都合上、終電はかなり早く、遅れてしまったが最後、明日の仕事も大学の講義もぎりぎりになってしまうでしょう。私は早歩きで帰ろうとした時でした。
「果穂お姉ちゃん⁉」
 その大声に私は思わず振り返ります。そこに居たのは……、かつてお守りをしていた、あの女の子でした。
「果穂お姉ちゃんだよね⁉ 帰ってきたの⁉」
「よく……覚えてたね」
 最後に会ったのが、三歳ほどだったはずですが……今はもう八歳くらいでしょうか。随分と大きくなっています。この町の子らしく、太陽を浴びているのか、全身真っ黒になっています。
「うんっ! お母さんがね、時折アルバムとか、映像とかを見せてくれるんだ。それに、果穂お姉ちゃんみたいな美人さん。ここら辺にはいないから」
「そんなことないと思うよ?」
 私は苦笑いを浮かべながら、女の子の近づきます。まだまだ私の身長に遠く及びませんが、確かに大きくなっています。
「わぁ……やっぱ果穂お姉ちゃん、大きいね‼ 大人‼」
「まぁ身長は高い、かな」
「かっこいいし! 綺麗‼」
「それは、まぁ、一応女優だし」
 目の前のキラキラとした視線が眩しくて、思わず目を逸らしてしまいます。本当に、眩しい。
「そう! そうだよ‼ この前のドラマも観たよ‼ すっごいかっこよかった」
「そう……かな?」
 私はそう曖昧な返事を返します。うまく言葉にできないのです。きっと彼女が言っているドラマと言うのは、つい最近まで放送されていたドラマのことでしょう。
 でも、あれは、私の中では、全然うまくいってない、ドラマでした。全てが中途半端になっていて、生半可な演技で、とてもつまらないキャラクターになってしまっていた。
 すると、そんな曖昧な返事をした私を見て、女の子は。
「……もしかして、嫌だった?」
 と言います。しまった、彼女を悲しませてどうする。
「ううん。嫌じゃないよ。ちょっと恥ずかしかっただけ」
 私はそう言いながら、女の子の頭を撫でます。
「果穂お姉ちゃん……」
 頭を撫でている間も、女の子はとても悲しそうな顔で私を見ています。
 ……きっと、彼女もおじさんと同じように私の中の何かを見抜いているような気がします。ソンナモノ、ソンザイシナイノニ。
「……私、行かなきゃ」
 私は、女の子の頭から手を離し、そっと踵を返します。すると。
「ねぇ、果穂お姉ちゃん‼」
 女の子の言葉に、私は足を止めます。
「果穂お姉ちゃんまで、行かないよね」
 女の子は私にそう言います。私は……私は……。
「えぇ、どこにも行かないですよ。いや、どこにも行けないです」
 そう返すしかなかった。
035
 病室。ドラマの撮影の合間に夏葉さんの病室に来ていた私は、ナップザックの中から『約束の箱』を取り出します。夏葉さんはそんな私の様子を見て、キョトンとしています。土だらけだった『約束の箱』は、秘密基地で掘り起こした後、自宅で軽く水洗いをして、周りの土を取り払いました。なので、今は比較的綺麗な状態で私の手の中にあります。
「夏葉さん。これをお渡しします」
 緊張の一瞬でした。何か思い出してくれないか。何か記憶の取っ掛かりにならないか……。そんな期待を込めながら私は夏葉さんに『約束の箱』を渡します。
「えっ、なんですかこれ」
 その言葉に。記憶が戻ってくれるんじゃないかと言う私の淡い期待は脆くも崩れ去った。
 夏葉さんは不思議そうな表情で私が渡した『約束の箱』を見つめます。……これでも、記憶は戻らないみたいです。なるべく落胆した顔を夏葉さんに見せないようにするため、私は夏葉さんから離れ、洗濯物の整理を始めます。夏葉さんはしげしげと『約束の箱』の箱を見続けます。
「元々は夏葉さんが持っていたものなんですよ、それ。だから夏葉さんが持っているのが良いと思って」
 私は洗濯物を分別しながらそう言います。すると夏葉さんは。
「小宮さんからのプレゼント……ってことで良いのでしょうか?」
 と言います。
 私は、少しだけ答えに詰まりましたが、すぐに言葉を返します。
「まぁ、そう捉えてもらっても構いません」
 すると、夏葉さんは『約束の箱』を抱き締めながら、こう言います。
「ありがとうございます‼」
 夏葉さんの表情はとても嬉しそうで。
「それは良かったです」
 ワタシハ、ココロノソコカラ、シュクフクシマシタ。
 すると、夏葉さんがぴくりと動き、こちらを向きます。『約束の箱』を抱いたまま。
「小宮さん?」
「はい、何でしょうか?」
 夏葉さんに呼ばれた私は夏葉さんの目を覗きこみます。すると、何だか夏葉さんが戸惑っているような表情を浮かべています。
「あ、いや、その……何だか……」
 夏葉さんは何かを言おうとしては躊躇った素振りを見せ、また口を開いては、また躊躇ってしまい、口を閉じてしまいます。私は夏葉さんの躊躇いを消すように、話しやすいように、にっこりとワライマス。すると、夏葉さんは意を決したような表情をし、こう言います。
「小宮さん。何か私に隠し事していませんか、その、嘘をついていたりとか……」
「隠し事なんてありません。嘘なんてついてないですよ」
 私は夏葉さんの言葉を聞いて即座に否定します。あまりにも間髪を入れてなかったのでもしかしたら怪しまれてしまったかもしれないが……どうしても抑えることができなかった。
 ワタシハ、ナツハサンニ、ウソナンカ、ツイテイナイ。
 すると、夏葉さんはどことなく恐怖を抱いたような表情を浮かべます。……しまった。怖がらせてしまったか。
「すみません。ちょっと熱くなってしまいまいた」
「いえ……変なことを聞いた私も悪いですから……」
 夏葉さんはそう言って、『約束の箱』を力強く抱えていました。キニッテモラエテ、ナニヨリデス。
 私は時計に目をやる。もうそろそろドラマ撮影の時間が近づいてきている。主役でこそないものの、出番はとても多い役なので、ここ数日は、まともに夏葉さんと会話を交わすことすら難しくなっています。この前、数日間休みを取って、秘密基地に行っていた以上、あまり設定されたスケジュールに文句も言えないのですが。
「すみません。夏葉さん。私、仕事があるので、ここでお暇いたします」
 私はそう言い、ナップザックと、変装用の帽子と眼鏡を取り、カーディガンを羽織る。夏葉さんはそんな私を見て。
「小宮さん‼」
 と大声を上げます。
 私は夏葉さんの声に身体を震わせます。唐突に大声で呼び止められたので少しびっくりしてしまいました。
「その、どこにも、行かないですよね」
 夏葉さんのその言葉に、私はホームセンターのあの女の子が浮かび上がります。でも私は頭を振って、頭の中の考えを霧散させます。
「えぇ。どこにも行きませんよ」
 私は、私、は。ワタシハ。
036:幕間
 病室。そこには、杜野凛世と有栖川夏葉が居た。凛世は何も口を開かず、本を読んでいて、夏葉も同じく、本を読んでいた。読んでいる本の種類こそ違うが、他の放課後クライマックスガールズメンバーとは違う独特の空気が病室を占めていた。ふと、凛世が立ち上がり、緑茶を作るために、急須と茶缶を棚から取り出す。その様子を見たからか、夏葉も本から目を上げる。
「あら。もうこんな時間だったんですね」
「はい。そろそろ休憩がてら、お茶でも、いかがでしょうか」
 凛世がそう言うと、夏葉さんは大きくうなずく。凛世は慣れた手つきで急須にお茶を作っていく。そんな様子を夏葉さんはジッ見続ける。凛世はそんな夏葉に気が付いてか、こう声を掛ける。
「お茶を汲んでいる姿は、珍しいものでしょうか?」
「あ、いえ……違うんです。何故か、何故かは全然わからないのですが……何となく懐かしいなって、そう思っちゃって」
 夏葉がそう言うと、凛世は小さく溜息をつきながら、湯飲みを二つ取り出し、均等に、交互にお茶を注いでいく。最後の一滴までしっかりと。凛世もずっと歯痒い思いをしていた。医者の言いつけとは言え、いつまでもいつまでも果穂と夏葉を苦しませる方針は如何なものだとずっと思っていた。
 何度、真実を告げてしまおうかと思ったことか。しかし、凛世には大きな懸念があり、実行できないでいた。それは……。
 真実を告げたとしても、有栖川夏葉が記憶を取り戻さないという可能性。こればっかりは捨てきれなかった。
「はい、夏葉さん。火傷しないよう、お気を付けください」
「わ、ありがとうございます」
 そんな凛世の想いを知ってか知らずか、ニコニコ笑いながら夏葉はお茶を受け取り、熱いお茶を冷ますために息を吹きかけている。黙ってお茶をすすりながら凛世は……。
「夏葉さん。何か、思い出せたことはありますか? どんなに小さなことでも良いんです。何か糸口になるようなことは、ありませんでしたか?」
 たまらず凛世はそう訊ねてしまった。厳密には思い出したかどうか、夏葉本人に聞くことも負担が大きいと、医者に禁止されていたのだが、もう凛世は我慢ならなかった。六年間も苦しんでいる仲間を見るのはもうたくさんだった。しかし、凛世の思いとは裏腹に夏葉は困ったような表情を浮かべる。凛世はその表情に落胆する。
「私、本当に駄目な子ですね。全然、変われない」
 夏葉は俯く。その言葉は自分に向けてなのか、凛世に向けてなのか。そんな夏葉に凛世はこう言う。
「えぇ、貴女は確かに駄目なことをしていますね」
 凛世は夏葉の隣に行き、手を重ねる。凛世の手は震えていた。彼女が支えられる手段は多くはない。多くないからこそ、凛世は必死に夏葉に訴えかける。
「貴女が向き合うべき人が居る。向き合って解決するべき問題がある。それは凛世たちにはどうにもできない。手出しができない領域です」
 夏葉は、そんな凛世を見て驚く。凛世の頬には一筋の……。
「最大限の補助は致しますが、最後は夏葉さん……貴女がやるべきなんです」
「最後は、私が……」
 夏葉は凛世の言葉を咀嚼し、飲みこむ。向き合うべき人、有栖川夏葉が向き合うべきだった人とは誰か、夏葉は考え込む。
 そして、真っ先に思い当ったのは、いつも病室に来てくれる。どこか儚げで、いつも格好良くて、有栖川夏葉のことをずっと支えてくれる人。
 夏葉は何をやるべきなのかを考え続けた。
 果穂に対して、何をしてあげられるのか、凛世が病室を去った後も、消灯時間になっても、翌朝になってまでも考え続けた。
 有栖川夏葉の結論は。
037
 冬。夏葉さんの病室の窓から見える景色は寒々しく。皆、各々マフラーを首に巻いていたり、厚手のコートを羽織って寒さをしのいでいました。かくいう私も、ここ数日の寒さは耐え難いものであり、思わず厚手のチェスターコートをクローゼットから取り出し、今もなお着用しています。病室はともかく、病院の中も、暖かいというには程遠く、厚着をしておいてよかったと心の中でそっと思いました。
 今日もいつも通り、夏葉さんの身の回りの整理や、洗濯物などを行っていましたが。なんだか夏葉さんの様子がおかしいです。より正確に言うと、凛世と二人きりになった後くらいから、何事かをずっと考えているみたいです。時々、うんうんと唸りながらも、そのまま眠ってしまっているのを見かけたこともあります。
「あの。小宮さん」
 すると夏葉さんは外を見つめ、すでに葉を落とした木々を見て小さく呟きます。その表情はどこか遠くを見ていて、心ここにあらずと言った雰囲気でした。
「……私が目を覚ましたから、もう一年になるんですよね?」
「そう、ですね。もう一年は経過しましたね」
 記憶を取り戻してからもう一年。私のみならず、放課後クライマックスガールズの皆も色んな方法を用いて、夏葉さんの記憶の取っ掛かりを探っていましたが、得るものはありませんでした。相変わらず担当医に記憶を無理矢理思い出させることを禁じられている以上、やることが限られてしまっているのが、心苦しいです。
「小宮さんはずっと、ずっと……それこそ、私が目を覚ます前から、私のことを、身の回りのことを全部やってくれていたんですよね」
「それは……確かにそうかもしれませんが」
 私が夏葉さんにそう返すと、夏葉さんは窓から目を離し、私の瞳を覗きこみます。そして、意を決した表情になり、顔を引き締めました。
 何か伝えようとしているのだろうか。私は手元の作業を止め、夏葉さんの瞳を見つめ返します。ゆっくりと夏葉さんは口を開き……。
「このまま、この日々が続けばいいですね」
 その言葉に私は固まります。
 『コノママ、コノヒビガツヅケバイイデスネ』……?
 私の脳が理解を拒む。認めたくない、現実を見ることができない。夏葉さんの姿がぶれる。息が浅くなる。動悸が激しくなる。胃が収縮して、何かを吐き出そうとしています。
「小宮さんが居て、樹里さんが居て、智代子さんが居て、凛世さんが居て。私にとってこれ以上のことはないんです」
 そう言って、夏葉さんは私に微笑みかけます。
「それ以上は何も望みません」
 私の中で何かが軋み、悲鳴を上げる。今まで隠して来たモノ全てが溢れ出す。私は夏葉さんを。有栖川夏葉を直視することができなくなってしまいました。
 私の目の前に居るのは。有栖川夏葉のはずなのに。私の目の前に居るのは、ずっと憧れだった有栖川夏葉のはずだったのに。
「ソウ。デスカ」
 ワタシハ、ニッコリト、ワライ、アリスガワナツハニ、ドウチョウシマス。
 トテモ、トテモ、ウレシイ。ウレシクテ、オモワズ、ミヲフルワセテ、シマイマシタ。
「アァ、ナツハサン。ゴメンナサイ。ワタシ、ヨウジガアッタコトヲ、ワスレテイマシタ」
 ワタシハ、ソウイッテ、ニモツヲモチマス。
「ハズカシカッタ、デスガ。ウレシイデス」
 ワタシハ、ソノママ、ソトニイキマシタ。
 モウ、ワタシハ。私は……耐えきれない。有栖川夏葉の前から離れた途端。私の顔が強張るのを感じました。表情筋がとても固く、表情をうまく作ることができません。病院のエレベーターに乗り、壁に取り付けられている大きな鏡を見ます。そこには、何の表情を浮かんでいない私の姿がありました。
「アァ」
 私はそっと、鏡に触れます。
「カメン、コワレチャッタ」
039
 気が付いたら、最低限のお金と防寒着だけをもって、私は電車に乗り込んでいました。この後に色んな予定があった気もしましたが、そんなこと、どうでもよくなってしまいました。責任とか、約束とか、義務とか、罪の意識とか、希望とか、願望とか。私にはもう、関係ありません。
 涙くらい出るかな、と考えていましたが。そんな気が利いたものは全く出てくれず、ただ、ただ車窓から見える風景を乾かし続けていました。
 私、何のために頑張ってきたんだろう。
 そんなことも考えてしまいました。有栖川夏葉は決して悪くないのに、八つ当たりをしてしまいそうです。
「夏葉さん」
 私はたった一人の車両の中でそう呟きました。
 それから三時間と少しをかけて、秘密基地の最寄り駅へと降ります。前回訪れた時からはあまり時間も経っていないおかげか、無人駅の風景は何一つ変わっていませんでした。ただ、駅前の花壇に広がっていた花はくすみ、枯れてしまっているのがわかります。私は、そんな駅前から秘密基地に向かってふらふらと歩き始めます。
 誰にも会いたくない。
 そんなことを考えていましたが、幸い。誰とも会うことはありませんでした。そして、ふと気が付くと、私はかつて神様に出会ったあの神社に行きついていました。夏葉さんと冒険してから幾年経っただろうか。
 私は境内に向かうために、階段に一歩足を掛けます。夏でも寒かったこの階段。冬の今はもっともっと寒くなっており、思わず身を震わせてしまいます。
 一歩、二歩、三歩……ゆっりと段を上がっていった時、ふと私はあることを思い出します。
 そういえば、夏葉さんは神様が見えていなかった。
 と言うことは、ここに行っても意味がないのではないか? 私はそう考えました。何より、今更神頼みをしたところで、何も変わるとは思えません。
 それに……。
「私は、神様はいないんだって、そう、想っちゃったから」
 そう言って、私は踵を返し、再び秘密基地へと向かいます。
 過去に嗅いだことのある、甘い香りがした気がしましたが、気のせいです。
 気のせい。なんです。
 私は再び草をかき分け、秘密基地へと向かいます。夏と違って生命力は感じないものの、やはり手入れを怠っていたのもあり、好き勝手に根っこを拡げていました。そして、草木を分けること数分。ようやく私は秘密基地に到着することができました。
 私は、再び鍵が開いていない、玄関から秘密基地の中に入り、和室に向かいます。
「夏葉さん」
 そこには、誰もいない。
「辛いです」
 そこには、誰もいない。
「辛いです」
 そこには、誰もいない。
「辛い、です」
 そこには、誰もいない。
 私はそのまま、和室の真ん中でへたり込みます。ごわごわのぐずぐずになっている畳が私をちくちくと刺しましたが、そんなこと、どうでもよかったです。
 天井は相変わらずぽっかりと大きな穴が開いており、分厚い灰色の雲が一面を覆っています。
 地面に座りながら、天を見上げていると、押し入れの天板付近に見慣れない空間があるのが見えました。台風か地震のせいでしょうか。天板がずれてしまったようです。そこから、なにやら赤い金属の箱が見えます。
 あれは、なんだろうか。
 私はふらふらと立ち上がり、押し入れにあるその赤い箱を取り出します。そこには。
「『果穂が二十歳になった時に渡すもの』……?」
 そこの箱には、一つの鍵とメモ用紙、それから何かの液体が入った瓶……そして、そこには立派な、振袖が、一枚。赤を中心とした鮮やかな振袖。
 手紙には、こう書かれていました。
『二十歳の果穂に渡すもの‼ まずはここの家の鍵。 私にもし何かがあったとしても、大人な果穂なら何とかしてくれるでしょう。だから、メンテナンスしやすいように、ここの鍵を渡すこと』
『果穂の成人式の時に渡すもの‼ ポケットマネーから出した、振袖。果穂が嫌がったら渡さないこと。毎年毎年メンテナンスは欠かさないこと』
『最後にお酒。かなり強いお酒で造った果実酒。これもメンテナンスを欠かさないこと‼ ダメそうだったら捨てること。』
 これは、もしかして。夏葉さんが、私のために、隠してた……秘密。
 急に月が眩しくなりました。月が明るくなったのかな。思考がまとまらないままそんなことを考えます。
 ずっと、ずっと隠し続けていた、秘密にしていた私の『本音』が私の中を支配する。この秘密基地に居ると、たくさんの、本当にたくさんの思い出が私に深々と刃を突き立てる。
 もう耐えきれない。もう、足を踏ん張ることもできない。もう、何もできない。
 私は思い出に殺されるんだ。もう戻れないあの夏に、私は取り残されるんだ。
 私は瓶を開き、一気に口をつける。カッと熱いものが私の喉から胃へと放り込まれる。噎せそうになった。吐き出しそうになった。でも、私は、そのまま半分ほど飲み干す。甘い香りが口の中に広がる。
「夏葉さん」
 私はそう言って、ボロボロになった畳の上で横になる。そして、ぼんやりと思考を巡らす。
 太陽が昇ったら、またあのお酒を飲もう。お酒がなくなってしまったら……
 もう、どうでも、いいや。
 生きることをやめてしまおう。そうだ、ずっと前からそうするべきだったんだ。
 食べるのをやめよう。水を飲むのもやめよう。今更忘れていたようにお腹が空腹を訴えているが、もう関係ない。
 起き上がるのはやめよう。このまま思い出の場所で朽ちるのも悪くない。もしかしたら、不審者とか動物に死体を持っていかれるか……それはちょっと嫌だけど、まぁいっか。
 私の意識はブラックアウトする。
 再び、目を覚ました時、自分の身体が動かないことに気が付いた。固まってしまったのか、はたまた別の原因か。もう、どうでも良い。
 この思い出の家と一緒に、私は。
 目の前には、白い水分を多く含んだ何かが舞う。どうやら雪が舞い落ちているみたいだ。この地域にしてはひどく珍しい、雪だ。そうか、私が動けなくなった原因はこれは。とても、綺麗で、とても、冷たくて。
 この光景を夏葉さんと見たかった。見ていたかった。
「な、  つ、は……さ、ん。…… ……ご、め、…………な  ……さ……  い」
038
「これ」
「なんだろうな。それ、コンクリートか?」
 病室で有栖川夏葉に呼ばれた西城樹里は、そう言って夏葉の顔を覗き込む。そこには、鬼気迫る表情を浮かべる夏葉の顔があった。
「……夏葉?」
 そんな夏葉の様子を見てか、樹里は声をかける。しかし、夏葉は反応を示さない。
 樹里は内心とても慌てていた。急に夏葉から連絡が着たこと、園田智代子が大慌てで通話アプリで小宮果穂が行方不明になっていることを伝えてきたこと。急に押し寄せてきた色んな情報が樹里の中を駆け巡り混乱をもたらす。
 果穂のスマートフォンは夏葉の病室に置きっぱなしであり、そこには大量の通知のためかひっきりなしに震えている。おそらく、彼女を心配して、色んな人間が彼女のスマートフォンに連絡をしているのだろう。
 警察を呼ぶべきか? そう考えた樹里が首を捻り、夏葉から目線を逸らした。その直後。
 夏葉は箱に向かって、頭突きをした。
 鈍く、重い音が病室に響く。その音に樹里は慌てて、振り返る。
「な……お前なにやってんだ⁉」
 樹里は急いで夏葉から箱を取り上げようとした。
 しかし。
「待って、樹里。お願い。大事な、大事なことなの」
 その口調に樹里の動きは止まる。
 もしかして……⁉ そんな考えが樹里の中に駆け巡る。
「思い出せ。有栖川、夏葉。お前は」
 再び、鈍く、重い音が病室に響く。
 夏葉の額から血が流れる。しかし、そんなことはお構いなしに夏葉は再び、箱に額を叩きつける。
「お前は。『誰を護ろうとした』?」
 夏葉のその言葉に樹里は弾かれたように顔を上げる。
 その事実は、『夏葉は知らないはず』。
「思い出せ‼ 思い出しなさいよ‼ 有栖川夏葉‼ 貴女は‼ 誰を護ろうとした‼」
 何度も何度も箱に額を叩きつけながら、夏葉は叫ぶ。いよいよ、掛け布団がワインレッドに染まる。しかし、樹里には止めることができなかった。
 箱に額を叩きつけるその姿は……。
「思い出せ‼ 思い、出せ‼ 護らなきゃ……‼ 果穂……ッ‼」
 最後に大きく振りかぶり、箱に額を叩きつける。
 より激しい出血と共に、箱が砕ける。
 それと同時に夏葉が大きく揺れる。
「夏葉⁉ おい‼ 夏葉‼」
「か……ほ……? そうよ、果穂‼」
 夏葉は額の血を袖で拭い、顔を上げる。
「何故、忘れていたの……⁉ こんな大事なことを……っ‼」
 今にも泣きそうな表情でベッドから飛び出そうとする。しかし、うまく立てない。
「待てって‼ お前、出血が‼」
「こんな。こんな、大切なことを忘れていたなんて」
 夏葉はベッドに掴まり立とうとするが、うまく力が入らないらしい、足を震わせ、立ち上がることもままならない。
「動きな、さいよ‼ 一年間もおねんねしてばっかりで動いてなかったでしょう⁉ 動きなさい‼」
「夏葉‼」
 樹里がそう叫んだ、樹里のスマートフォンがポケットの中で震える。最初こそ何かの通知かと思い無視をしようとした樹里だったが、やけに長い。
「誰だこんな時に……‼」
 樹里がスマートフォンを取り出し、画面を見る。そこには……。
「凛世……?」
 杜野凛世の文字が表示されていた。咄嗟に樹里は通話に出る。
「凛世⁉」
『樹里さん。おそらく智代子さんから通知が、来ていると思います、果穂さんの件ですが』
「今はそんな場合じゃねぇよ‼ 夏葉が全部思い出したんだ‼」
『……なんですって?』
 凛世の声色が変わる。樹里はふと夏葉へと目線を向ける。
「行かないと……きっとあの子は……‼」
「……もしかして。夏葉、お前。果穂の居場所が……?」
『なるほど。夏葉さんの案内があれば、果穂さんの元へと行けるのですね』
「待て、何を考えてる⁉」
 樹里は素っ頓狂な声を上げる。目の前で目まぐるしく状況が変わっていっているため、ひどく混乱している。
『夏葉さんと夜のどらいぶ。ですよ』
 凛世は受話器越しに車の鍵を鳴らす。樹里は頭をガシガシと掻く。
「……あたしは夏葉を病院から連れ出す。凛世、そっから先は任せられるか?」
『もちろんです』
 そう言い残し、凛世は通話を切る。樹里は振り返り、夏葉を支えながら、整理してあった、フェイスタオルをいくつかひっつかみ、夏葉の出血部分にあてる。
「今から凛世がこっちに来る。お前はやれることをやれ。そこまで、あたしが支えっから」
 そう言って、樹里は夏葉と肩を組む。夏葉は樹里にしがみつきながらも、よろよろと立ち上がる。
「果穂……ごめんなさい……果穂……っ‼」
 夏葉は涙を流しながら、ゆっくりゆっくりと歩き出す。そんな夏葉を見ながら樹里は……。
 なぜか、非常事態だと言うのに、安堵を覚えていた。
 樹里が看護師の目がないか廊下を確認し、夏葉を連れ、病院の外に出るまでに三十分以上は経過しまった。
 夏葉はぜぇぜぇと息をあげる。リハビリを続けていた彼女であったが、ここまでの長距離歩行は実践したことがない。そのため、顔色がどんどん悪くなっていったが、夏葉本人が立ち止まる気配はない。
 そんな夏葉を樹里はひたすらに支える。
 すると、病院の前に、一台の青いスポーツカーが止まっているのが見える。そこには……。
「夏葉さん、樹里さん、こんばんわ。ほら、助手席に乗ってください」
 そう言って凛世は助手席を開き、夏葉を詰め込む。
「凛世! これ‼ 夏葉の大切なもん‼」
 樹里は凛世にそう声を掛け、『約束の箱』を手渡す。凛世は合点がいったような表情を浮かべる。
「なるほど。これが鍵でしたか」
 凛世はそんな言葉を吐きながら、助手席の夏葉に『約束の箱』を持たせる。自身も急いで運転席に乗り込む。
「樹里さん、智代子さんにも、連絡しておいてください」
 凛世がそう言うと、樹里はサムズアップで答え、そのまま病院の中へと戻る。
「夏葉さん、お久しぶりです。しっかりとシートベルトをしてくださいね」
 凛世はそう言って、エンジンを起動させる。「あ、あと一つ」と付け足し。
「あとで、説教、ですよ」
 凛世は呆れたような表情を浮かべながら、アクセルペダルを踏みこむ。
「まず、そんな血だらけで病院を抜け出したこと」
「こ、これはやむにやまれぬ事情が」
「もう一つ」
 凛世は夏葉の言葉を遮る。そしてため息交じりで。
「果穂さんを、何年も、何年も、ほったらかしにした説教、です」
 と言った。
 その言葉に夏葉はバツが悪そうな顔をする。そして、息を吐きながら言う。
「そうね。その説教は心して受けようかしら」
「手加減しませんからね」
「……はい」
040
「果穂ぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ‼」
 幻聴? 夢? もしかして、死後の世界?
 私は?
「嘘……嘘でしょ? やっと取り戻したのに……‼ やっと、帰ってこれたのに‼ こんなのないわよ‼」
 温度。
 暖かい……。すごく……あったかくて。
「ぁ…………?」
 全身が凍っているせいか、うまく顎が動かせない。
「果穂……? 果穂‼ しっかりしなさい‼ 果穂‼」
 あぁ。やっぱり……。
「夏葉さんだぁ……」
 目の前にはボロボロと涙を流している血だらけの夏葉さんが居て、私の頬に温かいものが、落ちる。
「ごめんなさい……っ、私……っ‼」
 夏葉さんが泣いている。私を抱えて、泣いている。
「お帰り、なさい」
「ずっと、ずっと夏葉さんのこと待ってたら」
「待ちくびれちゃった」
 私は涙を流す。驚くほど温かい涙が私の顔を伝う。夏葉さんは私のことを抱き締める。とても、温かい。ずっとずっと求めていた。温もりが。
「うぁ……ぁぁぁぁあぁぁぁっ……ぁぁぁあぁぁぁぁぁぁっ‼」
 もう、我慢しなくて、良いんだ。
 もう、秘密なんていらないんだ。
「ぁ゛ぁぁぁぁあああああ゛ぁ゛ぁぁっ」
 六年分の涙が、私の瞳から懇々と溢れ出す。どこからこんなに涙が出てくるのだろうか。ずっとずっと我慢していた痛みが、今、私を切り刻む。
「寂しかった……っ‼ 苦しかった……っ‼ 夏葉さんが寝ちゃった時も、町の人に罵倒された時も、裁判で私と夏葉さんを全否定された時も、私たちのことを、お涙頂戴の記事に仕立て上げられそうになった時も、ずっとずっと、心が砕けそうだった……っ‼」
「ごめんなさい……っ。ごめんね……っ‼」
「影で人殺しって言われた時も、精神異常者って言われた時も、夏葉さんが金食い虫だって言われていた時も、本当は嫌だった‼ 全員、黙れって。違うって、言いたかった。吐き出したかった……それに……夏葉さんが襲われた時だって、あの時さえ、私が動いていれば……っ」
 私は。
 私は。
 あの時、立ち竦んでしまったことを。ずっと、ず……っと、悔やんでいた。私が動ければ、何かが変わった。もしかしたら、夏葉さんが眠ることはなかったかもしれない。
「夏葉さんを見殺しにして……ごめんなさい……っ」
「そんなことない……そんなことないわ……‼」
 夏葉さんはきつくきつく私を抱き締める。
「あの時は私も油断していた。だからこそ、あの事件が起こった……。果穂のせいじゃない。だから……」
 夏葉さんは涙で濡れている顔を私に向ける。
「もう、自分を責めないで頂戴……お願いだから……」
 そんな夏葉の言葉に私は、再び泣き出してしまった。
041
「この町は、良い町ですね」
「そうか? この町は時が停まってる。歯車が錆びちまって、全く機能しておらん」
「凛世……失礼、私には、あの二人が居なくなった後も、ただ、燻っていたようには、見えません」
 凛世は顔を上げる。そこには……大きな、大きな看板がある。
「確かに、髪型や髪色は変えておりますが、あれは、お二人でしょう?」
「……町の人間が描いたんだ。絵心なんぞないくせに何度も、何度も、何度も、描き直しては喧嘩して、そんで描き直しては喧嘩しての繰り返しだったがの」
「それでも」
「そうだな。この町はまだ死んでおらん……かもしれんな」
 白髪の老人は息を長く長く吐く。
「わしも大概長生きしておるが。彼女らが立派になるまで、いや、それからも見守りたいものじゃの」
「できると思いますよ」
「何を根拠に」
「凛世の勘です」
「娘っ子の勘……か」
「えぇ。案外当たるんですよ」
 凛世がそう言うと、白髪の老人と凛世は笑い合う。
「そろそろ、彼女らを拾って帰りますか……きっと謝罪合戦しているでしょうし」
「……わしもそろそろ帰るかの。曾孫に怒られてしまう」
「では、またいつか」
「また、いつか」
042
 結論から申し上げますと。
 滅茶苦茶怒られました。
 当たり前ではあるんです。仕事をドタキャンした上に、病院から患者を拉致、しかもその患者は額から大出血。急いで緊急検査が行われ、お医者にも、プロデューサーにも現場の人にもついでに智代子先輩にもこってこてに怒られました。
「本当に心配したんだからね‼」
「はい……」
「夏葉ちゃんから聞いたけど、色んなもの溜め込んでたみたいだし……‼ バツとして長時間のハグ‼ 愚痴とか溜め込んだものを吐き出すまでやめません‼」
「えっ、や、ちょこ先輩⁉」
「自慢じゃないけど体温高いぞ~茹るぞ~」
「夏葉さん‼ 助けてください‼」
「夏葉ちゃんに助けを求めるのは禁止‼」
 と、こんな具合です。
 夏葉さんはあれからリハビリをこなし、今では軽いレッスンくらいなら受けられるようになりました。長い長いブランクのせいで、思い通りに動けていないみたいですが、それでも本人は燃えているようです。
 そして今は……。
「ほれ、お二人さん分のクレープ」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
 今は、ショッピングモールでの仕事を終え、私と夏葉さんと樹里ちゃんと三人でクレープを食べていました。
「大丈夫か夏葉? 仕事入れちゃって」
「平気よ。自己管理はできてるわ」
「相変わらずで助かる……どっかの果穂と違ってな」
「?」
「いや、はてなじゃないんだよ」
 まさに夢みたいです。また、こうして、夏葉さんと一緒に過ごせるなんて。
 一時は離れちゃったかもしれません。
 でも、私たちはまたこうして、巡りあっていったんだ。
「で、結局二人は夏休みは、どこ行っていたんだよ」
 樹里ちゃんは私たちに向かって。こう言います。
 私と夏葉さんは顔を合わせます。すっかり身長を置いて行ってしまったので、夏葉さんを見おろす形になってしまいましたが。
 夏葉さんは私の瞳を見て、にこっと笑います。私もそんな夏葉さんを見て、つられて笑います。
 そして、二人声を揃えて言います。
「「内緒‼」」
END